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その百四十八 歴史からの抹殺

三成は家康の一存で十月一日に処刑されることと決まり、三成と同時期に京都市中で捕縛されていた小西行長、安国寺恵慶らも同日処刑される運びとなった。


捕縛から僅か十日足らずで処刑に至らしめるのには、何か意図的なものを感じざるを得ない。


現代の刑事裁判では、たとえどのような凶悪事件の犯人であっても逮捕から死刑の執行までに三年は要する。


関ヶ原から百年後の赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際にも、志士が幕府から切腹を命じられるまでには一月半を要している。


なぜ家康は三成らの処分をこれほどまでに急いだのであろう ・・・・・


それは当事者が生きている限り人々の口に昇り、関心は消えず、下手をすると新事実が浮上してきたり、事の真相を語りだす者が現れるからではないだろうか。


とにかく当事者を抹殺してしまえば後の祭り、死人に口無し、死者に関心を持ち続けるものはいなくなる。


人は皆、過去を清算して前向きに生きようとするものである。


写真もDVDもGoogleも無かったこの時代、人々の記憶から特定の人物の記憶を消し去るのはそれほど難しいことではなかったはずである。


秀吉は秀次を自身の秘密ごと抹殺するために秀次本人はもとより、妻子までも根絶やしにして聚楽第を更地にし、旧領の近江八幡城まで破却した。


家康もこののち三成の佐和山城を山肌ごと消し去り、謀臣の井伊直政に琵琶湖の湖畔に新城を普請させ地名も佐和山から彦根と改めさせ、直政にこの地を治めさせた。


家康の意向を受けて直政はことごとく三成の痕跡をし去った。


彦根藩は徳川幕府の二百六十年間、一貫して井伊家が統治した。


幕末、安政の大獄で名を馳せた幕府大老井伊直弼はもちろん井伊直政の子孫にあたる。



さて、事ここに及んでも、三成の真相探訪の欲求と豊臣の立場を少しでも有利にしておきたいとの願望には些かも衰えを知らなかった。


神の手の差配か運命の悪戯か、三成がその最後に出会う重要人物は、京都所司代に就任したばかりの、奥平(・・)信昌であった。



関ヶ原の敗因解明のために三成に残された時間は、残り僅かである ・・・・

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