その百四十六 三すくみ
「とくがわいえやす」
立ち上がった秀頼は前列の真ん中にでんと座る家康を呼び捨てにした。
座に居合わせた者達は一瞬ぎょっとしたが、何しろ相手はまだ八歳の腕白盛りであり、この場の全員の主君である。
「はっ、はー」
家康はすぐに冷静さを取り戻して殊更大仰にへりくだって見せた。
「いえやす、そのほうがほしいものはなんじゃ?」
平伏したままの家康から一瞬怒気が発せられた。
顔を上げた家康は、しかし満面の笑みであった。
「この家康、豊臣家と秀頼様の御安寧こそがただ一つの願いに御座いますれば褒美は要りませぬ」
秀頼は家康の小難しい言葉にきょとんとした。
その滑稽な様子を周りの大名達もほほえましく見守った。
しかし、ほっとしたのも束の間、秀頼の次の言葉に全員が凍りついた。
「なんだ、てんかがほしいのではないのか?ほしければさしあげるぞ」
さすがに家康の頬がひくついた。
隣のお茶々は、たしなめる素振りも無く泰然としたまま家康を見つめていた。
もはやこれ以上は子供とて洒落ではすまされなくなったその時。
「はっはっはっはっはっ、秀頼!
ひとかどの武将たるもの、天下を目指すは当たり前ぞ。
そのあたりで徳川殿を勘弁してさしあげろ」
秀頼を赤子の頃から見知っていた義理の兄の小早川秀秋が家康に助け舟を出した。
秀頼は兄の言葉に素直に従い座り直した。
居合わせた誰もが秀秋に救われた思いがした。
・・・・ 今の一言は小早川にとって大きい ・・・・
家康のすぐ後ろで一部始終を見ていた正則はそう思った。
会見が終わると家康は正信らを従えてすぐに西の丸に引き返した。
次は自分が諸大名達からの戦勝の挨拶を受ける番であった。
廊下の途中で正信に、「小早川の小倅に助け舟を出されるとはわしもやきがまわったわ」、と吐き捨てた。
家康は年端も行かぬ秀頼にこけにされたことに怒りが収まらない様子だった。
「幼い秀頼が自分であのような事を申す訳がない。全てあの女の差し金に違いあるまい。忌々しきは織田の娘よ ・・・・ 」
「もし、上様があそこで本性剥き出しでお怒りになられてしまわれたらと、肝を冷やしました。
小早川には大きな借りができましたな。
秀頼様を呼び捨てでたしなめられるのは、淀の方と秀秋殿をおいて他には御座いませぬからな」
「ふんっ、まるで三すくみではないか、馬鹿にしくさって」
「ははは、上様も面白いことを申されますな。確かに三すくみで御座います。
秀頼様は義兄である秀秋殿に従順で、その小早川の命運は上様が握り、上様はいまだ秀頼様には臣下の礼を尽くさねばならぬ ・・・・ 」
「笑い事ではないぞ」
正信はまだ笑いを堪えていた。
「上様、最近些か忍耐力が失せたようにお見受けいたしますが、お年のせいで御座いますかな」
「我慢ならずーとしてきたであろう。信長公にも、太閤殿下にも。
そろそろ天下を頂戴しても誰も文句は無かろう」
「如何にも、しかし最後の仕上げが肝要に御座いますれば、論考行賞が終わるまでは何卒ご辛抱を ・・・・ 」
「正信、戦後処理にけりが付いたら大坂城を出るぞ」
「はて、何処へいかれますか」
「伏見の修繕を急がせよ」
「すでに取り掛からせております」
「ふんっ。さすがは其の方じゃ ・・・・ もう一つ」
「はっ?」
「 ・・・・ 三成を始末いたせ」
「 ! 、唐突で御座いますな」
「あの女への当て付けよ。今の世でわしに楯突くとどうなるか判らせるには、すぐでなければならぬ」
「三本木の方は ・・・・ 」
「構わぬ」
「 ・・・・ 御意に」
三成の処刑は月が変わってすぐの十月一日と決まった。
沙汰はすぐに三成らを預かる京都所司代に伝えられた。