その百三十七 おねねの政治
おいねから三成の遺志を伝えられた秀秋は、いったん京郊外の小早川の陣に戻った。
そのまま三本木に泊まることも出来たが、隠居屋敷はすでに徳川の監視下に置かれた気配があり無用の長居は避けるべきと判断した。
秀秋は陣屋に戻るや否や幾日か振りで深い眠りに落ちた。
翌日、もう一度ふらっと立ち寄ったかのような素振りで三本木の門をくぐった。
おねねは秀秋の叔母であり育ての親でもあるので、度々訪れることに何の問題もありはしない。
秀秋は昨日までの焦燥しきった表情が嘘のように元気を取り戻していた。
玄関からではなく、こっそり中庭から顔を見せて、おねねとおいねを驚かせようとした秀秋が目にしたのは、
庭の片隅の石ころに花を手向けるおねねと同年代と思しき女の後ろ姿だった。
秀秋はその後姿の主にぴんと来た。
・・・・ 大谷殿の母御 ・・・・
関ヶ原で自刃して果てた大谷吉継の母、東殿局は久しく北政所の次女をつとめていた。
秀秋はさすがに吉継の母には顔向け出来ぬ心持ちであった。
秀秋がそっと玄関に戻ろうとすると、吉継の母が振り返って秀秋と目が合った。
秀秋はとてもまともには顔を合わせられず視線を下に落とした。
吉継の母は静々と秀秋に近づき秀秋のすぐ目の前に来ると深々と頭を下げた。
ようやくの思いで正面を向き直した秀秋に東殿は語りかけた。
「吉継のことはもうお気に病まないで下さいませ。
吉継は自らの強い意志で徳川様に立ち向かったのでございます。
この母の意向も汲んで ・・・・ 」
「東殿局 ・・・・ 」
「吉継と宇喜多殿に加え、自部少殿まで去ってしまわれる豊臣にとっては、貴方様が最後の守り手に御座います。
どうか何卒、北政所様のお力になって下さいませ」
吉継の母はそれだけ言うと屋敷の裏手へ下がろうとした。
呆然と見送るかに見えた秀秋は、ふと何を思ったか東を呼び止めた。
「東殿局!」
東は立ち止まって秀秋を振り返った。
目には今にも零れんばかりに涙が潤んでいた。
「少し、お話したきことが御座います ・・・・ 」
秀秋に促されて二人は中庭を見渡す縁台に腰掛けた。
数ヶ月前に家康と北政所が同じように腰掛けて秀頼の父親について話した縁台である。
秀秋はきまり悪そうにではあるが、ぽつり、ぽつりと自分の知る大谷吉継の最期を語り出した。
「某が大谷殿と最後にお会いしたのは関ヶ原の前夜でありました。
表向きは旗色不鮮明なまま東軍寄りを装う小早川を西軍へ誘い込むために訪れたことになっておりましたが、
実際は平岡、稲葉の両家老の心を金子でくすぐっておき、
土壇場での某の西軍加担への豹変に対して反乱を起こさせないように布石を打っておく策略に御座いました。
某の印象では平岡の心は五分五分にまで揺れ動いて見えました。
一方の稲葉は憮然とした表情を崩しませんでした。
片方だけでも切り崩せれば首尾は上々と踏んでおりましたが ・・・・
結果は御承知の通り ・・・・ 某の不甲斐無さで多くの人々の生き死にを変えてしまいました ・・・・ 」
東の涙は乾いていた。
「吉継の最期を見たものは ・・・・ 」
「おりませぬ、 ・・・・
ただ、藤堂の家中の者が大谷殿と一心同体の五助が、 ! 」
秀秋が黙った。
「どうぞお続け下さい」
「 ・・・・ 五助が、大谷殿と思しき御印を埋めたばかりのところを見咎めたと。
五助は己が首と引き換えに大谷殿の御印を埋めた場所を秘してくれと懇願して果て申したそうに御座います。
大谷殿の最期を見取ったのは、その五助であったのだろうと ・・・・ 」
東殿は先ほどまでとは違うさっぱりとした面持ちで、「秀秋様、吉継の最期をお話下さいましてありがとうございました。
吉継は思い描いた通りの大戦が差配できて満足してこの世を去っていったことと思いまする。
たとえ結果は負け戦であろうとも。
あの者の念願でございましたゆえ ・・・・」
そういい残して東殿は秀秋に礼を言って去っていった。
「秀秋殿 ・・・・ 」
奥から今までの様子を覗い見ていたおねねが縁台に出てきた。
「刑部殿のことを ・・・・ 」
「はい、」
「よくぞ話してやってくれた、そなたも辛かろうに」
「いえ、某の辛さなど母御のお気持ちに比べれば ・・・・ 」
「秀秋殿、少し話がある ・・・・ 」
おねねは気持ちを切り替えて今後の方策について秀秋に知恵を授けようとしていた。
「秀秋、そなた秀頼のことをなんと呼んでおる」
「はあ、赤子の頃は、お捨と呼んでおりました」
「今は何と?」
「小早川を継いでからは遠国ゆえ、そうそう頻繁には会えなくなりました。
公式の席では、秀頼様と呼ぶように心掛けておりますが、たまに遊んでやるときには秀頼、秀頼と呼んでおります。
兄弟ですから。それが何か?」
「これからは公式の場でも秀頼と呼び捨てにいたすのじゃ」
「しかし、しばらく会っておりませぬし、お茶々様、・・・・ いや、淀の方の手前も御座いますれば何とも」
「お茶々には私から言い含めておく」
「はあ、しかし何故で御座いますか。また他の大名どもから、なんやかや言われまする」
「そうはならぬ、むしろ逆じゃ。
いきなり人前で呼び捨てにするのがおっくうならば他の大名どもに先駆けて大坂入りして、秀頼と遊んでまた仲ようなっておればよい」
「しかし秀頼を手懐けたぐらいでどうやって内府を追い詰められると言うのですか」
「ふふふ、そなたの太閤殿下はそれで天下を掠めたのだぞ ・・・・
わたくしとて、信長様の御威光をお借りして、ずいぶん秀吉をとっちめたものじゃ。
自分に御威光が足りずば他所から借りてくれば済む話じゃ」
「 ・・・・ なるほど」、秀秋はおねねの助言に膝を打った。
「もし秀頼に会うのを且元あたりが邪魔立て致すようなら、北政所から淀の方へ直に手渡す書状を携えておると申せ」
「片桐且元が ・・・・ 」
「左様、且元はすでに徳川の軍門に下っておると承知しておけ ・・・・ 」
「 ・・・・ 」
「今後の豊臣にとってそなたの存在は命綱じゃ。
忘れるな、そなたは秀頼の兄にして、今でも豊臣の第二位継承者なのだぞ」
「 ・・・・ しかと。石田殿の御遺志は承りました。
もう某は大丈夫に御座います、北政所様」
秀秋は昨日訪れたときとは明らかに違う力強い足取りで、家康を出し抜くべく大坂城へ向かうのであった。