その百二十九 反転攻勢
二万五千の上杉に対して僅か一〇〇〇人で長谷堂城に立てこもった最上が防戦一方だったかと云えばけっしてそうではなかった。
幾度か不意打ちの夜襲を仕掛けて上杉に大損害を与えている。
おかげで上杉勢は昼間はぬか田に阻まれて攻めあぐね、夜は夜でおちおち寝られずと、神経戦でも最上に主導権を奪われていた。
長谷堂城に篭もる城代は志村光安。副官は鮭延秀綱である。
実は兼続は半年前に彼らとも会っていた。
最上義光と長谷堂城を囮の砦とすることに合意したとき、義光のはからいで彼ら両名と相対していた。
義光の言葉を借りれば、「この者たちは奥州の如き辺境の地に留め置くには惜しい強者達である」、ということであった。
出羽で最上がここまでになれたのも彼らの働きがあったればこそであると ・・・・
上杉に焦りと厭戦気分が蔓延し始めた頃、北関東で江戸の守備に残っていた家康の次男の結城秀康から兼続宛てに和平の提案を装った密書が届けられた。
それは関ヶ原の行方を知らせるものであった。
〜〜〜〜 九月十五日早朝より美濃近江境の関ヶ原に於いて東西両軍の総力戦が勃発。
結果は徳川の完全勝利也、上杉は包囲を解いて国許へ戻られよ 〜〜〜〜
兼続の役目は果たされた。
このまま静々と上杉領へ引き返すことも出来たはずである。
だが兼続はそうしなかった。
上杉にはまだまだリストラが足りなかった。
この戦後処理で上杉百二十万石は大幅に減封されて並みの大名とならねばならない。
・・・・ この際、余分な兵員は削減しておかねばならぬ、最上の手を借りて ・・・・
兼続は関ヶ原の情報を握りつぶした。
同じ知らせは山形城の最上義光にも、伊達軍を率いる留守政景にももたらされているはずである。
今夜は長谷堂から最後の夜襲が仕掛けられるであろう ・・・・ それも過去最大規模で。
やがて山形城から長谷堂に反転攻勢を知らせる狼煙が立ち昇り、夕刻の北の空にたなびいた ・・・・
果たして兼続の読み通り未明の長谷堂から忍の様な黒装束に甲冑すらまとわぬ身軽ないでたちの奇襲部隊が音も無く上杉の最前線に襲い掛かった。
敵の隊長は勇猛で知られる長谷堂の副将、鮭延秀綱である。
最上はほとんど死傷者も出さずに上杉だけに一方的に損害を与えた。
同士討ちの混乱の中で上杉の重臣で高禄で召抱えられていた上泉秦綱らが討ち取られた。
しかしである、上杉が更なる大打撃を被るのはこれから始まる撤退戦で山形城から打って出た最上本隊と伊達の連合軍から猛烈な追撃を受けたときである ・・・・