その百二十八 直江山城
三成が命を削りながら最後の闘争を繰り広げていた頃、遠く奥州では上杉と最上による長谷堂城の攻防が熾烈を極めていた。
と云っても過酷なのは攻めあぐねる上杉軍にとってで最上軍は地の利を活かして易々と上杉の攻撃をしのいでいた。
奇しくも関ヶ原と同じ九月十五日に始まった長谷堂城の戦いは、僅か半日で片が着いた関ヶ原とは大違いの長期戦にもつれ込んでいた。
・・・・ 兼続の計らいによって ・・・・
兼続のぐずぐずと煮え切らない作戦指示に上杉の家中からも不満の声が高まりつつある頃、更に事態を複雑にする動きが東方に現れた。
最上の本拠、山形城を見下ろす高地に蔵王山地の国境を越えて伊達の援軍が姿を現したのだ。
いや、援軍かどうかは軽軽には判らぬ。
最上が総力戦のうちに滅ぶのを傍観し、激戦に消耗した上杉に襲いかからんと虎視眈々と窺っているかにも見えた。
これで兼続は、より時間をかけて慎重に行動する大儀を得た。
・・・・ 伊達殿も良い頃合で兵を出されたものよ ・・・・
徳川、伊達、最上、そして兼続とすべてぐるであった。
しかしなぜ兼続は主家の上杉を危機に陥らせるようなことを徳川と企てたのだろうか。
かつて正信からそう問われて兼続はこう答えたことがあった。
「我が主、景勝様にとっても上杉にとっても百二十万石の大大名で有り続けることは負担でしかありませぬ。
大公殿下より大老職を申しつかったこととて持て余しておりまする。
上杉はせいぜい三、四十万石の中堅大名として生きるのが身の丈でありましょう」
かつて秀吉も大老としての景勝の力量には期待してはいなかった。
しかし上杉には戦国を生き延びてきた実績と家名がある。
秀吉は上杉を伊達と最上の監視役として会津に国替えさせたものの、その実務は米沢に領地を与えた兼続に一任していた。
兼続は上杉の軍事力を後ろ盾に、伊達と最上をうまく押さえ込んだ。
三成も上杉と兼続が働きやすい様に側面支援した。
秀吉の存命中はそれでうまく収まった。
しかし秀吉の死後、兼続の伊達、最上との調整役としての立場は豊臣に災いと転じることとなる。
兼続はこの時代の武将には珍しく、己が領地や石高には無欲な男であった。
ただ権力にのみ固執する人間であった。
三成とも正信とも、ずっと後の世に土佐が生み出す郷士とも相通ずる性質であった。
実力者の手足となり、間を取り持ってどでかいことを成し遂げる ・・・・
そんなことに血道を上げるのが何より生き甲斐と感じる人間であった。
兼続が次の時代の覇者に選んだのは豊臣でもなければ、まして上杉でもなかった。
兼続は豊臣の公家臭さがどうしても許せなかった。
聚楽第のけばけばしさも、関白や太閤などという朝廷官位が武家を束ねることにもうんざりだった。
その点、徳川は武家の中の武家、武士の中の武士と感じられた。
兼続は正信を通じて急速に徳川に傾斜していった。
徳川にとっても兼続は得難い人材であった。
名家上杉を自在に操り、豊臣政権の要の三成の信任も厚く、扱いにくい伊達の当主をも手玉に取る腹芸にも通じていた。
正信は大願成就の暁には徳川政権の要職に就かせる密約をもって兼続を取り込んだ。
後の世の土佐の脱藩郷士がそうであったように ・・・・