その十二 聚楽第
正月だというのに日差しが暖かく、庭先に長居しても身が冷える心配はなかった。
冬の京にはめずらしい小春日和の昼餉時であった。
おねねは夫であった秀吉が、もしかしたら高貴な血筋を引いていたのではあるまいか。
そういう疑念に初めてとらわれていた。
出身や容貌とは不釣合いな高い知性と教養。
たとえ相手がどんな難物でも必ず最後には丸め込んでしまう人たらしの技。
土木、建築技術や謀略に長けた取り巻き連中たち。
官位や名家のおんなに対する尋常ならざる執着心。
みな禁裏の連中の得意とするところではないか。
おねねは御所内の者達をどうしても好きになれなかった。
北政所として朝廷の使者たちと面談することも幾度かあったが、
顔と腹があれほどかけ離れた者たちとは武家の世界では会ったことがなかった。
しかし秀吉はそんな扱いにくい連中とでも、うまく付き合っていくのを苦にした様子はなかった。
信長様が禁裏の連中から悪鬼の如く呪われ、『 本能寺 』の直後には、禁裏で連日連夜祝杯が傾けられていたのとは正反対であった。
禁裏の主、天子様と秀吉がもっともお近づきになったのは、先の聚楽第行幸のおりであった。
天正十五年に完成した聚楽第は、かつて天子様がお住まいになっていた平安京内裏跡に造営された。
周りに結構な堀と塀を廻らせ、屋根は総金箔張りという絢爛豪華な平城であった。
完成の翌年の後陽成天皇の行幸のおりは、その豪華さに天子様も驚かれたご様子であった。
太閤のご満悦振りも最高潮の頃、前田利家殿、徳川家康殿が天子様の御前で豊臣に永遠の忠誠を誓わさせられた。
あのとき、豊臣の跡継ぎとして同席していたのは、養子となったばかりの当時八歳の秀秋であった。