その百十四 殉教者
「毛利はいかがなさるおつもりか ・・・・ 」
三成は無理やり西軍の総大将に据えてしまった毛利輝元のその後を案じた。
毛利は宇喜多、上杉を凌ぐ西国の大大名で、小早川、吉川ら一門の所領を合わせれば裕に二百万石を超え、徳川の二百五十万石に対抗しうる唯一の勢力であった。
輝元自身は一門の足並みが揃わぬことに腰が引けて大坂城から一歩も出張らず、叔父の毛利元康はこれさいわいと大津城にへ張り付き、一万五千を預かった従兄弟の毛利秀元も関ヶ原では日和見に終始して参戦しなかった。
血縁が途絶え、譜代の重臣すら去った小早川の一万五千は明確に東軍に寝返った。
毛利が不戦を貫くにあたっては、羽柴秀吉の時代からの毛利の外交官である安国寺恵慶と反対の立場を取る、親徳川派の吉川広家の暗躍があった。
もし、毛利の一門に一枚岩となって徳川と雌雄を決する覚悟があったなら、借り物の寄り合い所帯の東軍など全く敵としなかったはずである。
ただし、そうとなれば家康の方も丸腰同然でのこのこと関ヶ原には現われなかったであろうが ・・・・
「治部殿、毛利は端から徳川と事を構えようとなど思うてはおらぬ。
輝元殿のお頭にあるのは元就公から任された毛利の所領安堵のみ。
己が豊臣政権の執政として天下に号令を掛けようなどとこれっぽっちもござらぬお人よ。
そなたやわしとはそもそも人間の器が違うのよ。
一か八かの大勝負などとは無縁なのじゃ。
そのような者が支配しておる国など怖くもなんともござらぬ。
毛利は人畜無害、お構い無しで御座る」
家康はいとも簡単に毛利は安堵する旨言い切った。
・・・・ だからすべての咎はおまえ一人が背負えということか ・・・・
それは三成の望むところでもあった。
輝元自身は頼りなくとも毛利には気骨のある譜代家臣が大勢有る。
何より中国に百二十万石の毛利がでんと居座り続ければ、その先の立花、島津、小早川ら九州の親豊臣の大名達の防波堤となる。
自分がこの世を去れば正則同様清正の目も覚め徳川の野心から秀頼を守る核となるであろう。
この先、老獪な家康と互して渡り合っていける者があるとすれば、如水殿しかおらぬ。
今となっては幸いなことに如水、長政の黒田親子は東軍に属した。
如何な内府とて排除する大儀名分は成り立たぬであろう。
中国に毛利が生き残り、加藤、立花、島津、小早川といった九州の強豪が健在であれば十年や二十年豊臣は持ち堪えられる。
老体の家康は間違いなくこの世を去り、後はぼんくら揃いである。
信長公と太閤殿下の類稀な御血筋を引いて成人する秀頼様の敵では御座らぬ。
如水殿は太閤殿下の秘密を知るもはや唯一最後の古老である。
早々に身を引いて御隠居なされたのもそのためであろう。
此度の東軍としての振舞いとて先々に想いをめぐらせての布石に相違なかろう。
如水殿に今一度の御忠義を願うためなら我が身など如何様に朽ち果てようと惜しくは御座らぬ。
三成は今後二十年豊臣家が生き残るために己が身を捧げる覚悟であった。
それは皮肉にもこれまで三成が嫌悪してやまなかった切支丹の殉教者とも合い通ずるものであった ・・・・