その百十 対面
埃を清められた本丸一階の大広間には西軍の総大将、石田三成を吊るし上げるために東軍の大名達が詰め掛けていた。
しかしながら裁定者の家康と当の三成は大名達の前に一向に姿を見せないのであった。
いつまで待っても評定が始まる様子がないことに不満の声が出始めた頃、大久保忠隣が家康の代理として現れ諸将に申し渡した。
「石田治部少輔の詮議は上様が直々に執り行う事になったゆえ、皆様方は追って沙汰あるまでこの場でお待ち下されますよう。
また、門前にて治部少めにすでに遺恨を晴らされた方は遠慮無くお帰りになって頂いてもよろしい」
・・・・ なんだ、徳川の連中はいつの間に内府のことを人前で上様などと呼ぶようになったのだ ・・・・
・・・・ それに三成を門前に晒したは、その後の詮議を内密に済ませたかったからか ・・・・
福島正則は家康のやり方を訝しんだ。
忠隣の言葉に藤堂高虎がさも勇ましく立ちあがって不満の声を上げた。
「治部少に積年の恨みをぶつけられると思ってまかり越したのが無駄足であったわ」
他の大名達も賛同するものと、高虎が辺りを見まわしても誰も同意するものはいなかった。
佐和山城で和議を翻してまでの石田一族の大量虐殺を知った大名達は、後ろめたさから三成に同情的であり正直裁定の場に居合わせずに済んだことにほっとしていた。
ところで何故、家康は三成の詮議を非公開としたのであろうか。
徳川に歯向かって敗れ、惨めな姿を晒す三成を皆で吊るし上げればさぞかし徳川の権威付けと三成に恨みを持つ大名達へのサービスとなったはずである。
家康は今度の騒乱の責任は三成只一人の責任にして、徳川と不戦の密約を結んだ毛利を安堵せねばならなかった。
さらにもう一つは大名達の面前で三成を詮議しては、逆に口が達者な三成に己が野心の証拠を突き付けられてしまうことを恐れたのだ。
本丸の奥の書院で三成と相対したのは家康本人と本多正信、正純親子、そして島津義弘を追撃したときに受けた鉄砲傷をおして登城してきた井伊直政だけであった。
家康には三成が生きているうちに是非とも聞き出したい事がいくつかあった。
城門前での惨めな敗軍の将のいでたちとは一変して、髪を結い直した三成にはこざっぱりとした正装が与えられ、家康と左右の腕を担う謀臣達との命を賭けた、いや、命を捨てての論戦が繰り広げられるのであった ・・・・