その百 無辜の存在
「治部殿は逃げおったか ・・・・ 」
三成に再起する力も協力する者も得られないとは分かり切っていた。
しかしながら石田三成とはたいした男である。
二十万石にも満たない小大名でありながら、二百五十万石の徳川と互角の勝負を演じて見せたのである。
「敵ながら見上げたものである」
しかし家康には三成に対する情けなど一片もありはしなかった。
三成の失脚は天下取りに徹底して利用しなければならない。
「治部少輔は必ず生きたまま捕らえよ。捕縛には田中吉政を赴かせよ、あの者なら万事抜かりあるまい」
家康は三成の追撃に近江に詳しく三成とも昵懇であった田中吉政を任命した。
古来、暗殺や追討には的となる人物と最も親しかった者を当てるのがセオリーである。
織田信長は筆頭家臣の明智光秀に討たれ、源義経は保護者の藤原泰衡に、蘇我入鹿は従兄弟の蘇我倉山田石川麻呂が殺害に関わっていた。
カエサルの暗殺には実子であったとされるブルータスが加わっていたことは有名である。
追討や暗殺には、親しい間柄でしか知り得ない行動パターンや立ち回り先や油断といったものが求められるからである。
「その他の大名どもは如何致した」
家康の本陣には西軍の主だった大名や武将達のの消息の報が次々もたらされた。
正純が主だった武将達の生死を家康に伝えた。
「西軍の総帥と目される石田治部少は逃亡。
石田配下の島左近、討ち死に。
宇喜多中納言、逃亡。 ・・・・ 宇喜多家老正木左兵衛、逃亡。
小西行長、逃亡。大谷刑部少、自刃の由。島津豊久、討ち死に。島津義弘、逃亡 ・・・・ 」
そこまで聞いた家康は。
「どうやら西軍の大名どもは、まさか負けるなどとは思うておらなかったと見える」
正純がさも意外そうな顔で家康を見上げた。
「勝つつもりでおったから、死ぬ覚悟が決まらず逃げたのよ」
「 ・・・・ 如何にも」、正純も我が身に置き換えて納得した。
「やはりこの戦の黒幕は大谷刑部であったようだの」
「はっ、?」
「あ奴だけが戦場で腹を切った ・・・・ 責任を取ったのであろう ・・・・ 惜しい男であった ・・・・ 」
「 ・・・・ 御意に、 ・・・・ 」
「このこと秘しておけ、すべての責めは三成に負ってもらわねばならぬ ・・・・ 」
「ははっ、」
その後、家康の本陣には次々と戦勝の祝辞を述べに東軍に加わった諸将が訪れた。
一番最後に、辺りをはばかるようにやってきたのは ・・・・ 平岡、稲葉の両家老に付き添われた小早川秀秋であった。
おずおずと家康の前に進み出た秀秋が口上を述べた。
「内府殿、此度は参戦が遅れ、多大な御迷惑をお掛けいたしましたこと誠に申し訳御座いませぬ」
秀秋は平岡から含まれたとおり感情のこもらない声で侘びを入れた。
家康は上から見下ろすように一瞥すると、「なになに、此度の戦勝は小早川殿の適切な御判断と御味方があったればこそ。この家康、厚く御礼申しあげる」
小早川の一行に安堵の表情があらわれた。
「ときに小早川殿、そこもとのところに遣わしておった奥平貞治が山を降りて討ち死にしておったそうだが、奥平はまこと討ち死にに相違御座らぬか」
秀秋の顔が引きつった。
平岡が代わってそれに答えた。
「奥平殿は土壇場で東軍への御味方を嫌った松野主馬に代わって、第一軍の指揮を買って出てくれたので御座りまする。
手柄をあげられたにも関わらずの御討ち死には全くもって残念で御座います」
家康は疑いの目で平岡を見た。
「ほう、小早川では目付けとして遣わされたはずの軍監に最前線の指揮を任せても当然のことであると申されるのか」
平岡も稲葉も顔を上げられなかった。
・・・・ やはり松尾山では何かあったな ・・・・
家康は鋭く感付いたがあえてそれ以上問い詰めることはしなかった。
汚れ仕事を押し付けるのに好都合であったからだ。
「小早川殿、敵の総帥の治部少輔は今だ逃亡中である。奴の佐和山城はここから目と鼻の先にある。
佐和山城攻略の先陣は小早川に申し付ける。見事期待に応えて見せよ」
家康はまるで主のように居丈高に秀秋に命じた。
敗北感に打ちひしがれた表情で秀秋が本陣を去ると、家康は正純に尋ねた。
「奥平貞治に跡継ぎはおるか」
「いえ、奥平には妻子はおりませぬ。年老いた母御がおるだけに御座います」
そう正純が応えると家康は、「よいか、奥平は合戦の後、傷を負いながらも数日は生きてから没したここと致せ。
松尾山で何かあったと他の者に悟られてはならぬ。
小早川は当主の秀秋自身の意思で徳川に味方致したのだ。
徳川が家老を抱きこんで当主の意に反して無理やり寝返らせたなどと知れてはならぬ。
奥平の母御には供養料として三百石を毎年渡してやるのだ」
正純は家康の意図を理解した。
数々の調略と謀略が渦巻いた関ヶ原ではあったが、徳川は決して汚いことをして勝ったのではない。
時の勢い、人心の掌握によって勝つべくして勝ったのである。
そういうことにしておかなければ、後々磐石の天下を築くのに差し障りがある。
天下人とはいつの世も無辜の存在であらねば世は治まらぬのである。
ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
「定説は覆される為にある」を座右の銘にしてまいりました。
調査資料はWIKIであり先人の小説であり、過去の大河ドラマなど誰でも接する程度の情報を基に想像をはたらかせて書いてきました。
「極秘情報の99パーセントは公開情報の中にある」
物語はまだつつきそうです。
もうしばらくお付き合い頂ければ恐悦至極に御座います。