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序の壱 二条城会見

                                           


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慶長十六年(1611年) 関ヶ原の十一年後の京都二条城



「それにしても ・・・・ 」、と家康はつい半時ほど前に終えた秀頼との会見を思い返した。



この日、家康が関ヶ原の後に洛中に造営した二条城において、先代将軍徳川家康と豊臣家の後継者である羽柴秀頼との会見が執り行われた。



広大な中庭を見渡す縁台に立った家康の視線は遥か遠くであった。


「まるで若き日の信長公が目の前におわすかのようであった」


それほどまでに秀頼には大叔父である織田信長の面影が色濃く現れていた。


家康は幼少の頃、織田家の人質としてすごし八つ年上の腕白盛りの信長とよく遊んだのだった。


かたわらの本多正信がしみじみと返した。


「しかしながら秀頼様が太閤殿下にひとかけらも似ておらなかったことは、徳川にとってこの上も無い幸運で御座いましたな」


正信の言葉とは裏腹に家康は、秀頼が間違いなく太閤の嫡流であることを確信した。


「もっと早くに確信に至るべきであった。

信長公の野心に、お市様の美貌、それに加えて太閤の血筋 ・・・・

そして何より、あのだれをも圧倒する偉丈夫さよ!

よもやあれほどとは ・・・・ 」



〜 秀頼は身の丈六尺五寸(196センチ)、体重四十三貫(161キロ)と平均身長が160センチそこそこの当時としては異例なほどの巨漢であり、

まさに武人の鑑というべき容貌であった 〜 



「 ・・・・ 傑物である」



よもやこれ以上あの秀頼の成長を許しては徳川に禍となる。


このとき家康は依然幕府に組み込まれずにいる豊臣家を、自身の存命のうちに滅ぼすことを決意したのであった。



このとき家康六十九歳、秀頼十九歳であった。

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