6、子供騙しで子供を騙せ
黒竜の鱗に刻まれた、幾つもの傷は、重ねられるどんな言葉よりも本質を示す。
竜の巨体と渡り合えるものなどこの地上にそうはいない。ならば、この傷を付けたものは他ならぬ同格の同朋達であろう。
「この傷を戦った名誉であるといったものもいる。強さの証明であるといったものもいた。あるいは戦績を示す痕跡ともいう人間もいたな」
竜の瞳無き赤眼に、表情は見えない。だが声には僅かな黄昏があった。
少女の手が、竜の傷に触れる。
「たしかに自らが選んだ闘いの傷もある。だが我に言わせれば、大半はただの失敗の痕だ。言葉で争いを避けることを失敗し、相手を傷つけぬことに失敗し、自らを傷つけぬことに失敗した。力のみで生きるということはこういうことだ。ヒーよ、こんな生き方は何の意味も無い。なにも無いのだ」
「……痛かったの、おとーさん?」
少女の問いに、竜は問いを返す。
「傷の痛みはどうということはない。だが他者を、同朋を傷つけることに、慣れていくことが痛かった。己が肉が痛むのではない、心というものが痛むのだ。ヒーよ、お前はその子に暴力を振るった後、どのように思った?」
自らの心を確かめるための、しばしの沈黙。やがて、ヒーは竜に答えを返す。
「すごく、嫌な気持ちになった……その子に、悪いことをしちゃったからなんだと思う……」
「ヒーよ、それが心が痛むということなのだ。それを忘れてはいけない」
「こんなときは、どうしたらいいの、おとーさん?」
「それは自らで答えを出すべきだ。自らの外にあることは外に答えがある。だが、自らの内にあることは自らの内にしか答えは無い。ヒーよ、まずは考えることから始めなさい」
「ええと、うぅん……」
いきなりの突き放しに、赤毛の少女は戸惑う。戸惑いながらも、なにかを考えているようだ。
「ちょっと、ヒーはまだ五才にもなってないんだよ! そんなこと言われてもわかんないよ! あんたのほうこそヒーのこと考えてやりなよ!」
竜と少女の問答にルーメが割って入る。竜がヒーに問いかけたことは、大人が子供に聞くことではないように見えた。
「ルーメよ、思考することは世界を認識する最初にして最大の行動である。竜の教育においてはまずこれを重視する。思考により自己と世界を深く認識することが竜の魔術制御の根幹であり、竜の文化的側面の特徴と」
「ヒーは人間の子供だっつってんだろ! なんでも竜式でやるなこの石頭!」
「そーっスよ、なんでもかんでも考えろ考えろってお嬢がかわいそうじゃないッスか旦那!」
「ぬうぅ、解せぬ」
多数決に押し切られ苦境の悲鳴を上げる竜。そんなやりとりを、少女が止める。
「あの、わたし」
少女は、自らの思考の答えを、応える。
「あの子にごめんなさいしてくる」
△ △ △
「ほんとにあの子供達にこっちは見えてないのかい?」
「問題ない。鏡面魔術と静音魔術の結界により前方百メートルの人間の幼体たちにはこちらを観測できない。向こうからはこちら側はただの森が映っているだけだ」
「いやー森の外出るのはひさしぶりっスねー」
紫妖の森から出た草原、村の子供達がよく遊び場にしている場所に、竜達とイルイラはいた。
前方に、子供達のほうへ歩いていくヒーが見える。
「ヒーには内緒で見に来てるんだからね………バレるんじゃないよ」
「問題ない。人間などに見破れる程度の魔術など使うわけがなかろう」
頭突きをしてしまった子へ謝りに行きたいといったヒーを、こうして三体でわざわざ見守りにきたわけだ。
「それにしても姐さん、アレ本当にやるんですか?」
怪訝な表情を浮かべる美女の蜘蛛、イルイラにルーメは眉根を寄せる。
「やるんですかじゃなくてやるんだよ。ヒーが舐められないようにあたしらで一芝居打つのさ」
「一芝居か、しかし……本当にうまくいくのか?」
ヒーが子供達へ声をかけた。その中の一人が前にでる。緑色の髪の少女。ヒーと同じくらいの背格好。手にはさっきまで遊びで作っていただろう摘んだ野花で作った花飾りがあった。あれが頭突きをした相手か。
ヒーが、なにかを語りかけた後に頭を下げた。緑色の髪の少女もまた、なにかを語りかけているようだ。
そして、その子も頭を下げた。手にした花飾りを、ヒーへ被せる。子供たちの中へ、ヒーが受け入れられていく。
「……うまくいったようですね、姐さん? もうこの辺で帰ったほうがいいんじゃ」
「いややるんだよ。舐められないようにまず最初にガツンと脅しかけていっぺん泣かしとかないとね! いいかい、ここでいきなりバケモノが襲ってきて、それをヒーが退散させたらアイツらだってヒーをいじめようとか思わなくなるだろ。あたしらで一芝居打つんだよ」
「バケモノで脅しをすると……しかし誰がそれをやるのだ、ルーメよ? 脅すならさぞ見た目が恐ろしい者にしなければ効果が無いだろう。我では無理だな」
「……」
「……」
竜の結界の中で、時間が止まる。
「いやあんたしかいないだろ。どー考えても」
「旦那しかいないでしょう。ていうか旦那の仕事できるチャンスここしかないでしょ」
「いや、ヒーはよく我を『かわいい』と言っているのだが、かわいい我では脅しに向かないのではないか?」
「……ははーん、さてはこのトカゲ生まれてから一度も鏡を見たことがないね?」
呆れ気味に呟きながら、ルーメは頭を抑える。
「旦那の顔面凶器ぶりを『かわいい』かあ……お嬢は肝が座ってんなあ」
「かわいい我が脅しても意味がない。お前達がいけば」
「うるさいこのヤドロク! あんたが行くんだよ! 泣き叫んで小便チビってトラウマ作って寝込むくらい追い込んでこい!」
「姐さん子供相手にえげつねぇよ……」
「ぬうぅ、解せぬ」
渋々と、竜は結界を解除した。
一瞬の光が走る。空間に走る亀裂。薄い硝子を割るように破片が舞う。そこから現れる、漆黒の異様。
そびえる城の如き巨体。岩の如き四肢。横倒しになった柱のような尾。禍々しき乱杭の歯と、地獄のように燃える三対の赤き六眼。溢れ渦巻く魔力の暴風。
バケモノ中のバケモノが、突如として平和な草原に出現した。
子供達はみなそれを見て、一瞬動きを止め────いっせいに逃げ出した。
「待て待て、待たんか幼体達よ」
竜の四肢が動き出す。草原にクレーターを作りながら、地響きを立てて巨体に似合わぬ俊敏さで迫る。
「うわああああ!!」
「ひいいいい!」
「おかあああさあああん!」
阿鼻叫喚となる草原を、ルーメは高笑いをしながら眺めた。
「ヒャッハアー! いいぞやれやれ! 小便チビらせろぉ! 泣き喚けぇ!」
「姐さんちょっと目的がズレてませんか?」
「いいんだよ散々怖がらせたあとにヒーがなにか言ったら追い払われたみたいに逃げれば……あ、ヒーが転んだ」
逃げる子供達に押され、ヒーが転ぶ。その様を見て竜がそっちへかけていく。
「ヒー、大丈夫か……ぬ?」
ヒーの前に、緑髪の少女が立っていた。両手を広げ、震えながら、それでも竜の前に立っていた。
ついさっきに出来た、友達を守るために、勇気を振り絞って。
「あ、あっち行きなさいよ! あたしたちなんか食べても食いでなんかないわよ!」
強気な言葉と裏腹に、緑髪の少女の目には涙がたまっていた。
「少女よ」
「な、なに……?」
「名をなんという」
「え」
「名は?」
「え、あ、ま、マギーです」
よくわからない自体に、思わず少女は素で答えてしまった。
「我はその倒れている娘の、保護」
「おとーさん! なにやってるの! みんな驚いてるから止めてよ!」
「え」
さらに理解の上をいく事態に、マギーは絶句する。
「ぬぅ……その娘、ヒーのおとーさんである。マギーよ、我の前に立つとは人にしてはなかなかの勇気。認めよう。ヒーをどうかよろしく」
「え、あ、はい」
「おとーさんなにしに来たの?」
訪ねられ、竜は自らも疑問に首を捻りながら答える。体重の移動に、わずかに地面が揺れた。
「脅してこいとルーメに言われてきた」
「なんで脅してこいなんて……だいたいおとーさんかわいいからあんまり脅しにならないと思う」
「我もそう思う」
「えぇ……」
奇妙な親子のやりとりを、マギーは顔をひきつらせたまま眺めるしかなかった。
「ヒー、夕飯の時間だからそろそろ帰るぞ」
「えーやだ! まだ遊びたい!」
「だめだ。帰るぞ。ルーメが怒る」
太い爪の先で、器用にヒーをつまみ上げ、頭の上に乗せる。
巨大な八枚の翼が広がる。夕暮れ前の草原が、一瞬にして夜になったように暗くなった。漆黒の悪夢が、ゆっくりと浮かび上がっていく。
「マギー、またヒーと遊んでくれ」
「また明日ね! マギー!」
飛び上がる黒竜が、森へ向かう。その雄々しき姿を見送りながら、
「……なんだったの、アレ?」
マギーはとりあえず、新しい友達の複雑な家庭環境に思いを馳せた。