3、かわいそうなラミア
西方大陸の南端、辺境と言われるアムレート地方。その山間、奥深く茂る妖紫の森は、今なお人をよさつけぬ妖気を放っていた。
曰わく、うっかり中に入った猟師がボコボコにされた。曰わく、木こりが斧を取られて泣いて帰ってきた。曰わく、迷い込んだ子供が木イチゴを山ほど貰って帰ってきた。そんな危険なのか温いのかいまいちわからないが、とりあえずは危険な場所ということで村人は近寄らず森は静かな場所だった。
今日までは。
「なんだいなんだいこいつはあっ!」
美術彫刻のような整った容貌に情熱を引き立てる熱き瞳。うねる黒髪は輝く夜のごとく裸身に巻きつく。沼地中央の岩に乗りながら、裸の美女――ただし下半身は大蛇は気丈に声を張り上げる。
彼女の種族はラミア。美女の上半身に蛇の下半身を持つ人食いの種族だ。
「ラミアよ。人間の言葉は通じるか。我はラミアの言語までは知らんのでな」
「竜なんかが何のようだい! あたしにはあんたなんかに用なんかないよ!」
気丈にラミアは振る舞うが、内心では気が気ではない。
まさか森で静かに暮らしている所に、こんなバカでかいドラゴンがやってくるとは。それも特大の大きさをした傷だらけの凶竜。一瞬死んだかと思った。
一応語りかけてくるということは、問答無用で取って食うつもりではないらしい。
「お前に見せたいものがある。これだ」
頭さえはっきりと見えない見上げる竜の巨体。そこから頭がゆっくりとおろされる。
「……なんだいこりゃあ」
地に下ろされた巨大な竜の頭。その上には小さな赤子が乗っていた。静かに寝息を立てている。
「最初はうるさかったが、うっかり落としかけたら泣きやんだ。頭に乗せてやったらすぐに寝たぞ」
「落としかけたって……これなに?」
「人間の赤子だ。つまり幼体だ。みたことがないのか?」
「そんなもんみりゃわかるわよ! どこからこんなん盗んできたのよ! あんたは!」
「失礼なことをいうな。窃盗物ではない。拾得物である」
「捨て子かい……? 酷いことする親がいるもんねぇ」
「母親らしき個体は死んでいた。その下にこれが隠れていたのだ」
「なんだい親は行き倒れになっちまったのかい、世知辛いねぇ。はいちょっとごめんよ」
竜の頭によじ登りながら、ラミアは赤子へと手を伸ばす。女の本能的なものなのか、それとも彼女の性格なのか、気がつけば丁寧に抱きかかえていた。
「おーおー、竜のドタマでのんきに寝息たててるとはこの子は大物かねぇ」
「ラミアよ。お前達は竜よりは人に近い種族と見た。この赤子の育て方を知らぬか?」
「あたしは昔、人間の街に人に化けてちょっと住んでたことあるんだよ。まあ大体はわかるけど……なんで竜が人間なんぞ育てんのさ?」
「人間のやっていることと同じことをする」
「……子育てをしたいってこと?」
「違う、家畜だ」
竜の声に、ラミアは押し黙る。
「人間は家畜を育てているだろう? あれと同じことをやる。大きく育ててから食うのだ」
平坦な竜の声には、それでもどこかに楽しさが混じっていた。子供が新しいことをやろうとするような、無邪気な喜び。
「……食うのかい」
赤子を抱いたまま、ラミアは静かに足下の竜を見る。多少会話ができても、やはりこれは竜なのだ。
「そうだ。まあ人間の真似をした余興というものだ。なにせ竜は寿命が長い。こういう気の長いことをしないと生が長すぎていかん。まあ最も我はよく気が短いと言われるほうなのだがな」
「いやだよ、あたしは」
「ふむ、不服か」
「なんで、なんであたしが人間の赤ん坊育てなきゃいけないのさ! しかもあんたに食われるためにだなんて!」
赤子を抱く手に、気がつけば力が籠もっていた。
ラミアには自分がなぜここまで竜に逆らいたくなるのかよくわからなかった。逆らえば殺されるかもしれないというのに。ただ、無性に、この腕の中の温もりが、消えることを想像したくなかった。
「もちろんお前になにもないということはしない。お前にも得があるように取引の契約を結ぼう」
「アンタは人の話を聞かないねぇ、だからあたしは……」
「この赤子が最大まで大きくなった時、その身を我と汝で公平に等分に分け合う。それで良かろう」
「あたしが言いたいのはそういうことじゃないんだよ……」
言いたいことはそうではない。だがそれをうまく口にだすことが出来なかった。
「契約を結ぶぞ。ラミア、お前の名は?」
「……ルーメだよ」
諦めるようにラミアは告げる。少なくともこの赤子は大きくなるまでは生きていけるだろう。もしこのラミア、ルーメが赤子を持って逃げた所で追いかける竜から逃げられるわけもない。
「ルーメよ、我ソリュエベリュムドゥンと汝ルーメはこの赤子を育てる契約を結ぶ。育てきった暁には、その肉を等分に分け合うものとし、それを持って契約の終了と成す」
竜は生きるかぎり契約を絶対に守り、守らせる。契約を結び、それを果たせなかった竜は途中で死んだものだけだ。
「はいはい、もう好きにしてくれよ……ん?」
胸にもそもそと動く感覚がする。気がつけば、眠りから冷めた赤子がルーメの乳首を吸おうとしている。
「あのねぇ、あたしお乳でないんだけどねぇ」
それでも乳首を含ませながら、頭の中では赤子でも食べられるものをどこから調達するか思案を巡らせている。
「しかし参ったねぇ。この子はなんて呼べばいいのか」
「それは決まっている」
ルーメの疑問に、竜は答えた。
「ヒーだ。運んでいる途中、そう決めた」
「ヒーねぇ……男か女か服脱がしてみないとわからないんだけど……そのヒーってなんか意味あんのかい?」
「ふむ、古代竜族の言語における一つの単語である。意味は」
「なんか大層なもんみたいだねぇ」
「『備えのための糧』つまり非常食だ」
「……このクソトカゲが」
彼女の種族はラミア。美女の顔と蛇の尾を持つ、男を誘う人食いの化け物。
人を喰らいながら、時に人を愛することもある、愛深く愛熱き矛盾の種族。