1、かくして傷だらけの竜は、赤子と出会う
遥か遠い空、雲越しに遠雷の音が鳴った。
遠く、しかし威圧を伴った雷の音は、徐々に近づいていく。
周囲を取り巻く7月の青空、それを貫くような天を支える柱の如き積乱雲。
その中から、銀色の雷の光が渦巻いていく。
これは明らかに自然の現象ではない。
もしこの高度ニ万メートルの空の上に、西方大陸の人々がいたとするならば、その現象を引き起こした生物を即座に理解するだろう。
この地上において、それを引き起こすものは神以外にそれしかいない。
大陸最強の種族、竜であると。
繭玉のような積乱雲の雲を突き破り、巨大な影が突き刺さる錐のように飛び出す。
赤い光を纏うそれが、空に皮膜で出来た翼を開き、急停止。
短い首と長い尾。溶岩が熱を保持して固まったような鱗。大きく裂けた顎と燃え上がる炎をまとう姿。
全長は約二十メートルクラス。二百才級の赤竜。もしこれが都市に現れれば、人々は死を覚悟するだろう。
一体目の赤竜の後から、次々と同じ程度の大きさの赤竜達が飛び出していく。その数三体。計四体の竜が自分たちが出てきたばかりの積乱雲を見つめる。
その無機質な爬虫類の目に写るもの。それは、
【撃て! 奴を殺せ! 奴を仕留めよ!】
恐怖。脅威。そして敵意。
地上最強であるはずの竜が、雲の中にあるものに怯えていた。
先に出てきた一体が竜の言語で仲間達に指示を飛ばす。同時に竜達の顎に青白い光が灯る。
極真光槍射。竜族が放つブレスと呼ばれるものの中で、赤竜が持つ熱量発生の特質を利用した貫通力に優れる超熱量レーザー。
【殺せえええ!】
叫びと共に放たれる四条の太いレーザー。それぞれが積乱雲を上下、左右、斜め右から左、斜め左から右と逃げ場を無くすように掃射。
次の瞬間、積乱雲が大爆発を起こす。水蒸気の塊である雲に、超熱量を持つレーザーを打ち込めば当然こうなる。
吹きすさぶ衝撃波の中で、四体は爆発の中心を直視する。直視し続ける。
彼らの中で、直感が囁くのだ。
奴は、これぐらいでは死ぬはずがないと。
【がぁ!?】
突然の背後への衝撃にリーダー格だった赤竜がうめく。
先ほどの爆発に匹敵する衝撃波がいきなり背後から襲ってきた。
予期しない方向からの衝撃に竜の巨体が空中を踊る。
【なんだ! なにが起こった!】
錐揉み状態から必死に体勢を立て直そうとしながら、仲間ニ体が地上に堕ちていくのが見える。炎の赤と銀色を振りまく。竜の血の色である、銀だ。
竜が撃墜された。無敵の種族が、なすすべもなく、羽虫のようにたたき落とされた。
残る一体がそれに挑もうと飛びかかる。しかし軽々と受け止められた。そのまま首を抑えつけ、力を込める。鱗が割れて銀の血がほとばしる。
【実に非力であるな。やはり若い】
巨体がか細い悲鳴を上げた。そのまま真下へと投げ飛ばされる。
【まあ、あのまま地に落ちても竜ならば死にはすまい】
巨体をおもちゃのように放り投げたそれは、
【空間転移魔術だと! この化け物が!】
【コレは量子移動を利用した空間転移ではない。単純な電磁加速によるいわば擬似空間転移だ。そもそも地球上などで転移を使えばこの程度の衝撃波で済むか。勉学が足りぬな小僧】
【ぐ、おのれぇ! 『無明竜』め! 『竜殺し』め! おのれこの『狂えるソリュエベリュムドゥン』めが!】
彼ら四体の赤竜よりも、遥かに巨大だった。
夜を凝縮したような漆黒の鱗。そこに稲光が走るように無数の傷が彩る。
三対六眼の忌まわしく燃える地獄の如き朱眼。後頭部から湾曲して前方へ生える二対四本の角。長き首と鋭角に伸びる尾。小国の王城に匹敵するその体は、全長六十メートルを有に超える。
翼は四対八枚。一枚一枚が体の数倍の大きさを持つ。
大きく避けた口は禍々しい乱杭の牙が盛大に並ぶ。巨体を流れる魔力は、潤沢を通り越して暴風を纏うように外部へと流れ出している。
渦巻く破壊と、圧倒的な暴力。言葉を表すことさえバカバカしくなる存在の差に、赤竜はただ圧倒されることしかできない。
【いかにも、我は竜殺しの黒竜。ソリュエベリュムドゥン・イルルドゥヤ・アガロンドゥマ・ダーヤローガである】
静かに、黒の竜は答える。
【ならば、その首を俺の名誉とする!】
赤竜が動く。圧倒的だ。だが、巨竜の黒い体には、無数の傷があった。そして今、銀の血を流している。竜殺し、あの忌まわしきソリュエベリュムドゥンと言えど、傷つけば血が出る。血がでるならば、殺せるはずだ。
【うおおおおお!】
若き竜の迸る力。顎を外れるほどに広げ、全てを込めた必殺の超特大級極真光槍射を放つ。
【活発で実に結構。赤竜の一族の未来は明るいようだ】
腕を組み、悠然と浮かぶままの黒竜の前で、渾身の魔力を込めた光は直角に真上へと曲がった。重力魔術で熱量を九十度曲げられている。
【明るいだけだがな】
【なっ! じゅ、重力制御のレベルが違いすぎる。】
【お前は若い。まだ二百才程度では殺すほどにも値せぬ。だがな】
一瞬で黒竜が間を詰める。太い左腕が赤竜の首を掴んだ。
【礼節を知らぬようでは話にならん。これは食事の邪魔をした非礼を詫びぬ罰である】
振りかぶる右腕が、唸りを上げて空間ごと歪む。重力制御による重量の増加。
【頭を冷やせこの無礼者め】
唸る拳が、豪快に叩きつけられる。若竜の体が軽々と吹き飛び、雲海へと沈む。
【なんという貧弱よ。年若いことを差し引いてもこれは脆弱に過ぎる。やはり竜という種は年々弱くなっていくようだ。実に嘆かわしい】
黒竜の言葉には、哀しみがあった。失われていくことを止めることができない、変化という抗えないものへの哀しみ。
【実に嘆かわしいと思わぬか、お前達よ?】
竜の独白が、問いへと変わる。同時に黒竜の周囲の空間が、砂嵐のように動く。
【論理と探求、誇りと誓約を重んじる種族である竜がこそこそと隠れてまるで小鬼の如く奇襲を伺うか。堕落もここに極まれりよ】
竜の持つ強力な隠蔽魔術さえも、この黒竜には意味がない。蠢く砂嵐が晴れると、そこには竜が溢れていた。
赤竜、青竜、光竜。数種の竜達が黒竜の周囲を埋め尽くしながら飛行している。総数は約二百体。どれもみな二百から三百才の若い個体ばかり。
竜達の口腔に次々と魔術の光が灯る。赤の光、青の光、紡がれていく竜の息吹。束ねられていく殺意と害意が、黒竜へ迫る。
【どれもこれも若輩者ばかりか。未熟者ばかり差し向けて己は顔も出さぬとは、今代の王竜の質も落ちた。火神竜も白輝竜も何を考えておるのやら】
黒竜の開かれた顎。波立つ牙に飾られた口腔に、巨大な光が灯る。
【阿呆共の躾も、年長者の務めか】
天を仰ぎ、黒竜は魔術を解き放つ。蒼穹を貫く極太の光、発射した際の衝撃波で周囲の竜達は大きく翼を羽ばたかせ必死に体勢を保とうとする。
次の瞬間、極太の光が爆発した。
大輪の華が咲くように、分裂した細い光が黒竜の全周囲にいた全ての竜に流星の如く降り注ぐ。糸のような光、その一筋一筋が、精密に竜の翼や手足のみを貫き炎をあげていた。
これが黒竜の魔術。無作為に撃ったのではない、全ての光線が全ての竜の急所に当たらぬよう、なおかつ飛行不能になるように緻密に演算されて放たれているのだ。
光の糸が止んだ後、そこには竜の雨があった。
炎を上げながら、竜の群れが墜落していく。
まるで降り注ぐ雨のように、竜が下界へと降っていく。
蒼穹の空を、黒き凶竜のみが飛んでいた。
彼こそは種を纏める王竜の一つ。黒竜種の無明竜の称号を持つ者。
そして、一人ぼっちの、傷だらけの、王。
▽ ▽ ▽
【腹が減った】
竜族の言葉で独り言を呟きながら、黒竜は地表スレスレを飛ぶ。
【食事の邪魔をされるわ。久しぶりに暴れなければならぬわ。どうにもツいていない】
その体は城が飛ぶようなものである。下の森を巨大な影が覆い、その度に森から驚いた鳥が飛び出していく。
【ああ、ツいていないツいていない。なぜ我にはほんの少しでも幸運というものが微笑まぬのか】
ゆっくりと高度を下げ、森へと体を落としていく。同時に重力制御魔術を使用。周囲に衝撃を与えないように着地。静かに無音のまま森の中へ巨大な体をうずめていく。
重力制御は黒竜の一族が得意する魔術である、この程度は簡単だ。
【さて、どうするか】
地上には竜をしのぐ大きさの動物などまず存在しない。なので肉を食いたくなれば海に行き大海蛇や鯨などを捕ってくるのだが、今回はそこを血気盛んな若竜に絡まれることとなった。
大きなものがいなければ、量で補うか。
ぶつぶつと不運を恨む言葉を呟きながら、黒竜は森をゆっくりと進む。といっても体の上の方の大半は森からでているのだが。
【となる人間でも食うか……人間……人間か】
ぷっつりと、森が途切れた。
森のすぐ前を、街道が通っていた。しかし人間の姿はあるはずがない。なにせ竜の巨体は遠目にも見えるのである。竜が近づくまえに逃げるのが道理。
であるはずだった。
【ふむ、人間か】
黒竜はそれを見下ろしている。
ぼろぼろのローブ。背負ったカバン。履き古した靴。この地ではよく見る旅人の服装。着ているのは二十代ほどの女。
それが地に倒れていた。
【死体、か】
すでに事切れていることは、竜の持つ感知魔術でとっくにわかっている。一切の生命反応がない。外傷がないことを見ると、病気かなにかで死んだらしい。
【鮮度が悪いものは食いたくない】
興味無く、通りすぎようとした次の瞬間、女の体がぴくりと動いた。
【ぬうっ!】
思わず驚き、巨大な体が後ずさった。後ろで地面が派手にえぐれ、轟音を立てる。
【なんだ……? 死んでいるはずだぞ……? なんなんだ?】
この竜、図体のわりに意外とビビりである。
探知魔術は以前死体と判定したままだ。しかし魔術痕跡もないため死骸操作魔術でもない。
しばらく無言で見つめると、またもぞりと女の背中が動く。
【ぬうう!?】
またも後ずさる。さらに地面が抉れた。
【……え、なに? なにこれ?】
この竜、かなりビビりなのではないだろうか。
またもしばらくの沈黙の後、意を決して黒竜はゆっくりと腕を伸ばし女の死体を爪先で掴む。
深呼吸をして心を落ち着けた後、ひっくり返した。
【……なんだこれは? 人間の幼体か?】
赤子だった。布に包まれた一歳ほどの赤ん坊が、母親の胸の下にいたのだ。
【なにかと思えばこんなものか】
爪先で器用に赤ん坊をつまみ上げながら、黒竜はその顔を見る。
「おぎゃああああ!」
同時に火のついたように泣き出した。
「ぬぅ……に、人間よ、お前の名は? 答えよ」
人間の言語で黒竜は問いかけるが、当然赤子に答えられるはずもない。凶暴な面相を、困惑に歪ませながら竜は思考を巡らせる。
【ぬうぅ、これでは食いでもなにもないな】
この黒竜の小指の爪の先の半分より小さい赤子では、腹の足しになるはずもない。
【育てて、大きくなってから食えばいいか】
塊のような巨体が、赤子を咥え森へと戻る。
ここから、傷だらけの黒竜である竜殺しの竜――おとーさんと赤子――少女ヒーとの奇妙な生活が始まる。