5.妹に女と仲良くしているところを見られて
「まだ教室にいたんだ。遅いよ、もーうっ。お腹すごく空いてるのに……。朝も私を置いて先に行っちゃうしさ、遅刻ギリギリだったんだからね!」
「間に合ったのか……よかった」
「なにもよくないよっ」
さきほどお別れしたシルヴィーと入れ替わる形で、3年A組の教室までやってきた優梨。ぷくぅと頬を膨らませ、ぷんぷんと口を尖らせていた。可愛い。
今朝の兄妹ケンカについても、俺が優梨を置いて先に行っただけと勘違いしているみたいだ。
「ああ、そうだよな。先に行ってごめん。あと待たせて悪かったな。あんまりクラスメイトと話す機会がないから、話し込んじまってさ」
「ふーん、お兄ちゃんと話す勇気があるクラスメイトがまだいたんだね」
「話す勇気……? まあ確かに万年ぼっちの俺に、話し相手になってくれるクラスメイトがいるのは、妹から見ても意外に感じるか」
「うん。家でも、学校でも、お兄ちゃんの話し相手になってあげられるのは、この可愛い妹だけだと思ってたから」
「酷い言われようだな。お兄ちゃん泣いちゃうぞ……?」
「そうしたら、慰めてあげるよ。いっぱいぎゅーってしてあげるもんっ。でも、その前に……」
優梨が急に顔を寄せてきて、匂いを嗅ぐ。
「ば、か……近い! 近寄るな!」
「すんすん、すぅ……はぁ……。お兄ちゃんから雌豚の臭い匂いがする……」
「匂いを嗅いでおいて、臭いって酷いな。汗をかくようなことをした覚えはないんだが……」
優梨から不穏な空気を感じて、窓際まで後ずさる。
"お兄ちゃんと話す勇気があるクラスメイト"、"お兄ちゃんから雌豚の臭い匂いがする"といった優梨が放つ言葉が、俺を殺したときの妹の言動とよく似ていた。いや、目の前にいる優梨は、黒い薔薇のような笑顔を咲かせていた――あのときの妹そのものだった。
「お兄ちゃんはさ、私が廊下で見かけた女の先輩とお話ししてたの? 2人きりの教室で? お話してた……だけ?」
「急になんだよ。話す以外になにするっていうんだよ」
「妹に言わせないでよ。恥ずかしいなぁ……。そもそも誰なの、あの女の先輩は。あんなに綺麗な人、うちの高校にいたっけー?」
「シルヴィー・フォッセさんだ。フランスからの帰国子女らしいぞ。たぶん俺に校内を案内してほしくて、話しかけたんじゃねえかな。優梨と帰るからって断ったけどよ」
「あ……あーっ、なるほどね。噂の帰国子女って、シルヴィーちゃんのことだったんだ。はぁ……シルヴィーちゃんがお兄ちゃんをね……」
窓を背に立っている俺に、目と鼻の先まで距離を詰めてきた優梨。
俺はこの段階で死を悟っていたのかもしれない。だからこそ、死の直前まで情報を収集する努力をし、鬱憤を晴らしてやろうと決めた。
「シルヴィーを知ってるのか……?」
「もう名前で呼ばされてるんだね。あの女、手を出すのがほんとーに早いんだから」
「あの女って、俺の友達に向かって……! 例え妹でも、友達を侮辱するような発言は許さないからな」
決意を固めたことで、怯んでいた妹相手でも強気に出ることができる。
「あのね、お兄ちゃん。友達が1人できたからって、イキらない方がいいよ。それも下心があって近づいてきた女が唯一の友達なんだから、なおさら」
「優梨、お前……ッ! 言っていいことと悪いこととの判断もできないのか!! そんな妹に育てた覚えはないぞ!?」
「はぁ……。大前提として、いままでお兄ちゃんに友達がいなかった理由、わかる?」
「俺が嫌われてからだろ。……たぶん。ハブられてる本人が、んなこと知るかよ」
「……私がお兄ちゃんに近づく人をあらかじめ遠ざけてるからだよ。影で糸を引いてた、みたいなぁ?」
「は……?」
「初めてはいつだったかな……」
優梨は、記憶を呼び起こしながら、言葉を紡いでいった――。
「たしかお兄ちゃんが小学2年生だったときのお話なんだけどね。お兄ちゃんさ、同級生の女の飲み残した牛乳を飲んであげたよね? そのときにね、その女が、お兄ちゃんのことが好きになっちゃったんだって。でも、私はそれが許せなくて……そんな軽い気持ちで、その女はお兄ちゃんのことを好きになったたんだーって考えると、許せなくない?」
「……」
うんともすんともせず、続きを促す。
口を開いただけで、妹と普通の兄妹関係を築くことができなかった自分に、妹の表の顔しか見てこなかった自分に、なにより無力な自分に対する憤りをぶつけてしまいそうだったから。いまはまだ黙って聞くことしかできない。
「だからね、トイレに呼び出して、彼女の鼻の穴にストローを突っ込んで、牛乳をぶちゅーって注いであげたのっ。ぶっさいくだったなぁ。そうそう、昼休みの時間だったから、消化途中の給食だったものを口から吐き出して、お漏らしまでしちゃってて……もうすっごく面白かった。で、たしかそれが理由で転校しちゃったのかな? 知らないけど」
「……」
「あとはねーそう、お兄ちゃんが中1だったとき! お兄ちゃんは中学校でもモテモテだったの。だから、誑かされる前に手を打たなくちゃーって思って……中学校に潜入して、手当たり次第に女子生徒の制服を剥ぎ取って、裸にして、写真を撮って、ネットに拡散するぞーって脅したら、ピヨっちゃったのかな。お兄ちゃんにちょっかいを出す女は誰一人としていなくなったみたい」
「……」
「たぶんお兄ちゃんに手を出すと被害に遭うみたいな噂が流れてたんだろうね、女は噂話をするのが好きだから。まあ、その噂のおかげで、いちいち全校生徒に釘を打つ必要もなくなったんだけど。あの頃、私はまだ小6だったから、中学校に潜入するのも一苦労だったし、お兄ちゃんを常時監視することもできなったから、正直助かったよー。あ、もーちろんっ、お兄ちゃんが高校に入ってからも、しっかりやっといたからね!」
「…………。……なァ、優梨」
「なにー?」
「……なんで、なんでそんなことするんだよ!?」
恐怖を搔き消すように、力一杯怒鳴りつけ、鋭利な眼光でにらみつける。
どうせ死ぬのだから、どうにでもなれ、一矢報いてやる、という微力な抵抗。それでも、俺の言葉で優梨が更生してくれる可能性があるのなら、妹の行いは間違えであると声を張り上げ、説得し続けるほかないと思った。
「お兄ちゃんを有象無象のモブに奪われたくないからかなー。お兄ちゃんはね、カッコイイし、優しいから、モブが群がってくるんだよ。……知ってた?」
「カッコイイからなんだよ! 優しいからなんだよ! 俺はお前の人形じゃないし、お前も俺の家政婦ロボットじゃない。だから、俺には好きに生きる権利があるし、優梨にも俺に縛られずに自分の人生を楽しく生きろよ!!」
「私はいまがすっごく楽しいのに……。まあまあ、そう怒らないで。お兄ちゃんの気持ちもわかる。いままで童貞だったのは、私が邪魔しちゃったせいだもんね、えっちしたかったもんね。でも、私も女の子だから、私で卒業してくれてもいいんだよ?」
「そういうことじゃないんだよ……。俺は人生を棒に振ることになっても別に構わない。俺には優梨がいてくれたし、優梨がいてくれればそれでよかったから」
「んふーお兄ちゃん、嬉しくこと言ってくれちゃって」
「優梨も、俺がいることで楽しい人生を送ってくれるなら、俺の人生を好きにしてくれていい。それは優梨のために生きるという形で、自分の生きる権利をくれてやる。ただ周囲の迷惑をかけるのは違うだろ!? お前がやったことは人を傷つける行為だぞ、ふざけんじゃねえ!」
「他人に興味がないから、どう説得しようとしても無駄だよ。でも、私がいればいいって部分は、嬉しかったな。それを行動で示してくれれば、もっとよかったかも……もう遅いけど。んよしょっ」
「はぁ、えっ……?」
優梨に肩を押されて、目に映る風景が上下逆さになる。校庭が頭上に、青空が足元にあった。
それはなぜか――俺の身体自体が上下反転した状態になり、3階から校庭に落下していたのだ!
「3年A組の名簿を入手して、事前に手を回してたんだけどなぁ……お兄ちゃんのクラスに転校生がいたのは予想外だったよ。奈々ちゃん、ちゃんと調べてくれなくちゃ困るよ、もう……。あ、お兄ちゃんの死体を拾いに行かなくちゃ、私のそばにずっといてもらうためにね」
さきほどまで耳元で聞こえていた優梨の声すらも遠くに感じる。
死――。
歩くことができない。走ることができない。泳ぐことかできない。自由の効かない場所に放り出された時点で――いや、選択を誤った時点で、俺が迎える最後は死だ。
しかし、
「まだ、だ――ッ! 死んで、たまるかよォォォォォ!!」
俺は死の痛みを知っている。頭を焼かれるような苦痛と、身体を蝕む激痛、肉体をぐちゃぐちゃにされる不快感を経験している。だからこそ、二度と味わいたくない。
死にたくない!
その一心で右下の【Q.LOAD】に手を伸ばす――。
「届、け……届うぅ、けぇ……!!」
空中で必死に足掻きながら【Q.LOAD】を指先が掠める。その瞬間、世界が真っ暗な闇に堕ちていた。
暗転。