2.帰国子女の温もり
シルヴィーとの食事を終えて、俺はシャワーを浴びることにした。蒸し暑い玄関で寝ていたせいか汗が身体に染み付いて気持ち悪かった。
シルヴィーはその間に食器の片付けをしてくれている。
「シルヴィーもだけど、優梨が絡まなければ、本当にいい奴だよ」
タイルに当たって、シャワーの水が弾ける。
「……どちらが死んでもおかしくなかった。優梨もその覚悟でいたはず……それでシルヴィーを恨むのは筋違いだよな」
水とともにシルヴィーに対する不の感情がいくらか洗い流さられるようだった。
だからといって、優梨の死に納得したわけではない。
それどころか納得できる日なんてきっと来やしない。俺は永遠に優梨を失った痛みに苛まれることだろう。
「優梨……優梨、優梨、優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨優梨」
発作だった。しかも、さきほどの玄関で起きたものより酷く、激しいものだった。
それは、
シルヴィーの振る舞いが優梨の姿と重ねてしまったから。
誰かと一緒に過ごす温かさを思い出してしまったから。
一瞬でも優梨のことを頭の片隅に追いやってしまったから。
優梨を思い出しても、忘れようとしても、逃れることができない戒め。
俺はもうダメかもしれない――。
「ユーヤ……!」
透き通るような声とともに、ふんわりとした温かさに包まれる。
「優――シル、ヴィー……?」
銀色の髪が鼻孔をくすぐり、豊満な四肢が押し付けられる。
そう、彼女はシルヴィーだ。優梨ではない。
「ユーヤっ……」
「シルヴィー……」
母が赤ちゃんを受け止めるかのような慈愛のこもった抱擁に、自然と心が安らいでいく。
「その……様子を見に来てよかった、です。大丈夫、ですか?」
俺の体調を気遣いながら、神秘的な翠瞳には不安の色が宿っていた。
「……」
「ユーヤ?」
大丈夫、と答えたかった。何でもない、と安心させてやりたかった。
なのに、心は甘える対象を、身体は人肌を欲していて――俺は甘えたくなってしまった。
「俺、寝られない……疲れないと寝られないんだ。だけど、優梨のことを考えちゃって、頭がどうにかなっちまいそうなんだ……」
優梨が相手でない以上、もしかしたら誰でもよかったのかもしれない。
だけれど、シルヴィーは俺の願いを絶対に叶えてくれる。自惚れでも何でもなく、シルヴィーは叶えてくれた――。
シルヴィーにパジャマを着せてもらって、自室のベッドに倒れる。その隣にシルヴィーは寝転がり、抱きしめながら背中をトントンと撫でられた。まるで赤ちゃんにでも戻ったようだ。
「赤ちゃんを寝かしつけるみたいにしなくてもいいって」
自分から甘えたくせして、恥ずかしさは拭いきれない。面倒な男だと思う。
「でも、落ち着きますよね。ワタシ、怖い夢を見て泣いちゃったとき、ママにぎゅーってしてもらうと安心します」
「それいつの話だよ」
「エコール・マテルネル……」
「それ幼稚園って意味じゃないよな?」
「日本でいう幼稚園だと思います……」
「幼稚園のころのシルヴィーと同レベルってことじゃないか!」
「……」
「けど、安心するって言うのはその通りだって思うよ」
シルヴィーの胸に顔を埋めて、背中に腕を回す。身体に接触している部位全てが柔らかく、その感触を味わいたくて夢中になって抱き締めた。
「ユーヤ……?」
「1人で気を失ったように寝るのとは全然ちげぇもん……」
「1人は寂しい、です。ワタシは日本に来て、最初はずっと独りぼっちでしたから、寂しい気持ちはすごくわかります」
「寂しい、か。言われてみれば、俺って寂しかったのか……ああ、いまは寂しさを感じてない」
「はい、ワタシもユーヤとユーリに出会ってから、寂しさが吹き飛ぶくらい毎日が楽しかった、です」
「優梨にあんなことされて楽しかったって……。俺たち兄妹と出会ったこと後悔してないか?」
「後悔してない、です。ユーヤとユーリの2人に出会えたことは、ワタシの人生の中でも一番の幸運、です。……ユーリと仲直りできなかったことは残念、でしたけど」
「もし、もしもの話になるけど。こことは違う世界があるんなら、俺も、優梨とシルヴィーが仲良く過ごしてるのを見ていたいな」
「ワタシもそんな世界で過ごしてみたかった、です」
「そうかい……」
「んっ」
もしも、なんてことは絶対にありえない。
だけど、寝ている間くらいはそんな幸せな夢を見ていたい。ありえたかもしれない世界に想いを馳せて、眠りについた。
「すぅ……ぅ、すぅ……」
「おやすみなさい、ユーヤ。今日はいっぱい寝てください、ね」
………………。
…………。
……。
夏の日差しを浴びて、意識が覚醒する。
「んー……」
うなされながら起床することが当たり前になりつつあり、それを覚悟して就寝する毎日だったはずのに。
今日は非常にスッキリとした目覚めで、とても清々しい朝だった。
「シルヴィー……」
掛け布団、ベッド、身体に染み付いた微かな温もりが、心の調和とバランスを保っているようだ。
それでも朝食と弁当をしてくれていた妹がいないことを考えるとついつい身体を起こすのが億劫になってしまう。
「欲張りな奴だよ、俺は」
なんていつまでも妹頼りな自分を罵りながら、重い足をどうにかリビングまで動かした。
「ん……? パンが焼ける香ばしい匂いがするな。……まさかな」
まさか。
そのまさかだった。
台所を覗き込むと、セーラー服に薄桃色のエプロンを着た女の子がサラダの盛り付けをしていた。
背中が隠れるほどの長い銀髪に、スラッとしたモデル顔負けのスタイル。二度も間違えるはずがない。
彼女は、
「シルヴィー、昨日は家に帰らなかったのか」
シルヴィー・フォッセであって、優梨ではない。
「いえ、ユーヤが熟睡したあとに帰りました」
「じゃあ、どうして?」
「ユーヤ、朝ご飯はどうするんだろうって考えたら……」
「ああ、朝起きてから、また様子を見に来てくれたのか。こんなにも心配をかけて、俺は何してんだろうな」
「ワタシが勝手に心配しただけで、ユーヤが気にすることなんて全然」
「何言ってんだよ。シルヴィーが来てくれて大助かりだってーの」
「大助かり……?」
「朝飯作る余裕なんて1ミリもなかったからさ」
「そう、なんですね。よかった」
朝に余裕がないのは、うなされて起きることがほとんどで、全てのやる気を削がれていたから。学校には、僅かなやる気を振り絞ってどうにかこうにか登校していた。
なんだかんだで就寝中も休まった気が全くしない。
でも、シルヴィーが添い寝してくれた昨日だけは全然違った。いつの間にか眠りについて、今朝は気持ちよく起床することができた。
「作ってくれるんなら、ぜひいただきたい」
「んっ。ぜひいただいてほしい、です」
「てか、毎日作りに来てくれよ」
「か、通い妻……?」
「そそ、そんな感じのイメージ」
「通い妻……」
「そんで一緒に登下校して……その、子どもみたいで恥ずかしいんだが、俺が眠りにつくまで添い寝してくれないか?」
「ユーヤとずっと一緒ってこと、ですか?」
「俺とずっと一緒なんて罰ゲームみたいなもんだし、断ってくれたっていいぞ」
「いいえ、ワタシでよかったら、ユーヤのお世話をさせてください」
「ありがとう」
誰かがいる。
そんな当たり前のようで、特別な存在に感謝しないといけない。




