1.生きている妹の温かさ
「ん……ぅ……」
スイッチが入ったように目が覚める。
珍しく眠気を感じない寝起きになった。
「……ぁ。あぁ……! そうだ、優梨は!? 優、梨……?」
謎の違和感とともに、妹の名前を呼ぶ。
今日が4月9日であれば、これで3度目の4月9日の朝を迎えることになる。当然、優梨は生きているはずだ。
しかし、寝ている俺に跨がる優梨も、添い寝してくる優梨もいない。優梨が未だに俺を起こしに来ていない。
これまでと違う展開に不安が募っていく。恐い。
もしかしたら、今日は4月10日で、優梨が死んだ√の続きかもしれない。それは嫌だ……。
目覚まし時計で日付を確認すればいい話なのだが、それすら考えつかないほどにパニックに陥っていた。
そんなとき不意に自室のドアがゆっくりと開いていく――。
最初に姿を現したのは、一房に結ったサイドテールだ。元気よくぴょんぴょんと跳ねる妹のトレードマークは、俺にとっては見慣れた光景で、自然と目頭が熱くなっていた。
「おっはよーっ! あれ、あれ? 珍しいね、お兄ちゃんが私に起こされる前に起きてるなんて――え?」
「優梨……ッ! ぅ……うぅ……」
視界に天使のような愛らしい姿を捉えた瞬間には、妹の胸に飛び込んでいた。
「えっ? ひゃぁ、あっ……お、お兄ちゃん……!?」
「優梨……ゆうりぃ……」
「なにごと!?」
素っ頓狂な声をあげる優梨を尻目に、腕を妹の腰に回し、強く抱き締める。
優梨の存在を確かめるように。優梨が生きていることを実感を得るために。
セーラー服越しからでもわかる、小さいながらも魅力的な女の子の感触に身体が温まるような心地よさを感じた。
「優梨がいる、たしかにここにいる……。よかった……よかった……!」
「んーっ……んふーよくわかんないけど、私はここにいるからね。ずっとお兄ちゃんのそばにいてあげるから、だから安心して」
「あぁ……」
「大丈夫。大丈夫だよ、お兄ちゃん」
「んぅ……」
小さな手で頭を優しく撫でられる。
誰かに頭を触れるのは、久しぶりだ。たぶん小さい頃に今は亡き両親にしてもらったのが最後だと思う。
普段は、俺が妹を甘やかす立場だが、甘やかされるのもそう悪くはないな。
「甘えんぼさんのお兄ちゃんも可愛いね。んふーお兄ちゃん大好きっ!」
「……。はぁ……」
「どうしたの、お兄ちゃん。深いため息を吐いちゃって」
「お前に癒されてた――てのは語弊があるし、慰めてもらってたってわけでもないし……なんつーか余韻に浸ってたんだけどさ、優梨が可愛いなんて言うから冷めちまったよ」
「だって、ほんとに可愛かったんだもん」
「ほんとに可愛いって……まあ、そのおかげで冷静にもなれたけど。やっぱ兄としては、妹に弱いところを見せたくないしな」
兄としての威厳や、男としての自尊心が崩れ落ちたことに気づいた俺は、抱き締めていた腕を緩め、優梨と距離を置こうとする。
「冷静になっても、今日のお兄ちゃんちょっと変だから、逃がさないよーだ。弱いお兄ちゃんでも、お兄ちゃんは私のお兄ちゃんなんだから」
だが、優梨がそれ許さず、力を込めてむぎゅぅと抱き締めてきた。
それでも優梨の身体に俺を押さえつける力があるはずもなく。振り払おうと思えば余裕で振り払えるのだが、弱いなりに頑張って擦りすがる様子が可愛くて、妹に身を委ねることにした。
「……しょうがないか」
「しょうがないかって、先にぎゅっとしてきたのお兄ちゃんじゃん。私は全然嫌じゃなかったけど」
「ま、そうなんだけどな……? それを言われるとぐうの音も出ない。はぁ……なんで俺は妹に抱きついちまったんだ。あー恥ずかし」
「お兄ちゃんは、死んだお父さんとお母さんの代わりに私を育ててくれてるんだもん。だから、たまにはいいんだよ、甘えちゃっても。私はお兄ちゃんのぜーんぶを受け止めてあげるから。こんなの全然恥ずかしくないない」
「お前は俺の母親か。甘やかしすぎるとダメ息子に育つぞ」
「お兄ちゃんが私の息子……。ヒキニートになって、一生、私にパラサイトしてくれていいからね、お兄ちゃんっ」
「いいわけあるかい!」
なんて優梨と無駄なやりとりをしながら、貴重な登校時間を消費していく。
遅刻寸前であることは重々分かっているつもりだ。それでも、優梨と楽しい時間を過ごしたい。血なまぐさいイベントとは無縁のこの瞬間がずっと続けばいいのにと思わずにはいられなかった。
けれど、そうは問屋が卸さない――そう、世界の修正力だ。
「そういえば、お兄ちゃん。いま何時だと思う?」
「――8時20分、だな」
「名残惜しいけど、正解したから、離してあげる。お兄ちゃんはもう私の身体に飽きちゃったみたいだし、私の身体って抱き心地が悪いのかな……って何も見ないで即答!? 私まだ話し途中だったのに……ひどいよお兄ちゃん、そんなに私から離れたいのー!」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。なんとなくわかっちまったから、つい」
あまりの早い返答に優梨は驚くも、すぐに困った顔を浮かべた。
「いまから走ればまだ間に合いそうだけど、どうする? 朝食作っちゃったんだけど……」
か細くなっていく優梨のセリフとともに選択肢が現れる。
▶︎朝食を食べずに登校する
▶︎先生に怒られることを覚悟で朝食を食べる
見慣れた選択肢。この選択肢と相対するのも、これで三度目になる。
俺にとっても、この√をクリアして三度目の正直としたいところだ。
「ふむ……」
前者の選択肢に俺の望む√はなかった。したがって、消去法で後者を選ぶのが最良だろうな。
「なら、食べるか。せっかく妹が朝起きて作ってくれたものを食べないなんて、兄の風上にもおけないしな」
「そんなこと言うなんて珍しい、よね? いつものお兄ちゃんなら、兄がついていながら優等生の妹が遅刻して先生に怒られるなんて許されないーって言いそうだけど」
「優等生って自分で言うか、普通。優梨が学年一頭のいい優等生なのは事実だから、反論はしないけど。まあなんだ、今日は俺も体調がよくないみたいだし、遅刻しても温情をかけてもらえるだろ。ただ優梨が遅刻を気にするなら――」
「一回の遅刻くらい気にしない気にしない。お兄ちゃんと一緒にいる方が数兆倍も大事だもん。んふー」
「何を口走ってるんだか、この妹は。だけど、そういうのも悪くないかもな」
それに優梨の本質が変わらない以上、俺が自分よがりな選択をして、理想を主張したところで望む結果は生まれない。この世界は人間関係や他者に対する評価、情動の変化をイベントの発生装置にしている節があるのだから。
したがって、俺の信条、理念など捨ててしまった方がいい。ただ優梨が欲している言葉や行動に合わせて答えを選択していくことこそが、俺と優梨が一緒にいられる√に繋がっている――。
「じゃあ、顔と手を洗ってご飯にしよーよ。今日の朝食は、つい腕によりをかけちゃったから、冷める前に食べてほしいの」
「そりゃ楽しみだ。急いで済ませてこなくちゃな」
「うんっ! 支度して待ってるね」
人間性を捨て、優梨に従う犬、家礼、下僕、従者、従僕、奴隷、奉仕者になれ――。
優梨を二度と失わないために。一緒にいられる√を築くために。




