1.妹との何気ない朝
満月の美しい夜だった。
■■は、視界一杯に広がる夜空と輝く星々を背に、一歩また一歩と距離を詰めてくる。その歩みは静かで足音は一切なく、少女の黒髪とその手に持つ刃物がこの舞台ではやけに栄えて見えた。
少女のあまりの可憐さに逃げることも忘れる。その隙が文字通り命取りとなった。
グサッ――。
腹部に激痛が走る。痛い。熱い。
血血血――体内から漏れ出た血は足元に溜まり、アスファルトを紅に染めていく。
「どうして、だよ……? な、ぁ……どうしてだよ、■■!? ■■! ■■……ッ!!」
消えゆく意識の中で、自身の疑問を必死に言葉にする。そして、最愛の■の名前を何度も叫んだ。
★ ☆ ★ ☆ ★
窓から差し込む日差しを浴びて、肉体に意識が宿る。
「うぅ……ふぁ、ぁ……ん? んん……?」
見慣れた自分の部屋が視界に入っているに、どこかおかしい。寝惚けた頭では、その理由には辿りつけず。
「お兄ちゃーん、おはおはおっはよー!!」
違和感を覚えたのも束の間、髪を一房にまとめたサイドテールがぴょんぴょんと跳ねながら、俺のいるベッドに飛び込んできた。
「ば、優梨!? 急に人の部屋に入ってくんな。くっ……重い……」
小柄で羽根のように軽い、俺の妹――多知川 優梨が、仰向けで寝ている俺の上に跨る。
ふわっと雪のようなお尻が下腹に押し付けられて、妹に感じてはいけない性的な快感を生み出していた。気持ちいい……。
「女の子に重いって言っちゃいけないんだー! お兄ちゃんは、デリカシーがないから、顔の割に彼女いないんだよ」
「大きなお世話だ。そんなことより人の部屋に入る前にノックしろ。兄妹だからって、それが常識、マナーだろ? はぁ……マナーを守れないから、めっちゃ可愛いのに彼氏ができないんだよ、お前は」
「えっへー、じゃあ、お互い様だね」
「だな」
兄妹ケンカになると思いきや、そんなことはなく。視線を合わせて、笑い合う。
ベッドから降りた優梨は、手を差し伸べてくる。その手を取り、俺も起き上がった。
「そういえば、お兄ちゃんっ」
「なんだよ」
「問題です。じゃじゃん! いま何時でしょうーか?」
「何時ってそりゃ――」
床に投げ出された目覚まし時計で、時刻を確認する。
「…………」
「4月9日、しかも8時20分でしたー。んふー新学期から兄妹揃って遅刻だね」
「馬鹿。もっと早く起こせよな! 優梨、俺は着替えるから、先に行ってろ。走れば、まだ間に合う」
「え? 朝食はどうするの……?」
優梨は、上目遣いでそう尋ねる。朝食を摂らないことで体調が崩れるのではないかと心配している声色だった。
「優梨は食べたのか?」
「食べてないよ。お兄ちゃんが起きてから、一緒にーって思って。あ、一応、準備はしてあるよ?」
確かに朝食は1日の活動に必要不可欠なエネルギーだ。しかし、自分だけならいざ知らず、妹を巻き込んで新学期早々に遅刻をさせるなんて――優梨の唯一の肉親として、兄として、妹に恥をかかせるわけにはいかない。
朝食を食べずに登校する、そう言葉を口にしようとした瞬間――。
視界に2つの言葉が浮かび上がる。
▶︎朝食を食べずに登校する
▶︎先生に怒られることを覚悟で朝食を食べる
「なんだ……これ、は……?」
視界に現れた2つの言葉。とくと見ると、右下辺りには【SAVE】、【LOAD】、【Q.SAVE】、【Q.LOAD】という項目も映っていた。
昨日まで見えていなかった文字が、今日は見えている。起床のときに感じた違和感はこれか。
「お兄ちゃん……?」
「あ、や、なんでもない」
「ほんとぅ? お兄ちゃんらしくない真面目な顔してたよー?」
「妹のことに関しては、俺はいつも真面目なお兄ちゃんだぞ。俺にとって、お前がなによりも大切な存在だからな」
「お兄ちゃん……。え、へへへ……」
表情が緩む。幼さが残るあどけない笑みが、俺に兄としての使命感をより強いものとした。
とりあえず、2つの選択肢が現れる前から、どうするのかは決まっている。
まあ、視界に映る謎の言葉の数々が気にならないといえば嘘になる。ただ思いに耽る前に急いで登校しなければ。
「学校行くぞ。朝食は……帰ってから、食べればいい。今日は昼までだったはずだろ?」
「……そう、だね。始業式が終わったら、すぐ帰れると思うし……」
優梨の綻んでいた笑顔が少し崩れる。
朝食を食べない程度で心配しすぎだな、うちの妹は。優しくて、可愛いとか無敵か。
「昼まで我慢できるか?」
「う、うん、大丈夫だよ。じゃあ、お兄ちゃんの準備が終わったら、いこっか」
「いや、お前は先に……って、そうもいかないか。過保護かもしれないけど、お前1人じゃ不安だからな。俺の妹はめっちゃ可愛いし」
「ありがと、お兄ちゃん。お兄ちゃんもすごくすっごーくかっこいいよっ! じゃあ、玄関で待ってるね」
「おうよ」
俺は、多知川 優也。1つ年下の妹と2人暮らししていることと、女の子に縁がなく彼女いない歴=年齢であることを除けば、ごく普通の高校3年生。
ただ、俺の眼が謎の文字を捉えたその時から――いいや、今日という日を迎えた瞬間から、兄妹ののどかな日常が一変していくのだった……。