2 夕焼けの再会
「あぁ……若葉が愛らしいですね」
温かさを宿す柔らかな微笑みが、実に穏やかな言葉と共にこぼれる。
実にエルフに相応しく、なおかつイズレンディアらしい言葉。しかしその言葉は、彼のみが揺られる馬車の中で、どこか現実逃避的な色を宿していた。
と、そこでふいに、イズレンディアへと声がかかる。
「《賢者》様。失礼ながらここまで来れば、最早逃げる事も叶いますまい」
――諦めて、宰相閣下の掌の上で躍って下さい。
そう、思わず出かけた言葉を華麗に呑み込んだのは、白銀の鎧を纏い、青のマントを背でなびかせる、守護騎士の一人だった。
イズレンディアが、ファウンの街へと行く事になった当初。
イズレンディアのみならず、ルーミルやアーフェル、セリオまでもが、ファウンへはイズレンディア一人で行くのだと考えていた。
今更言うまでも無いことだが、イズレンディアは《賢者》と呼ばれるほどの実力ある魔法使いである。当然として、いくらかの距離があろうとも、移動手段には事欠かない。わざわざ馬車を出す必要はない、というのは、ある意味では《賢者》相手の常識である。
その予想を裏切ったのは、そろそろ常習となってきた、クロスの言であった。
実に綺麗な笑顔にてクロスが語ったのは、イズレンディアが未だにシルベリア王国の客人であること。国の私事に動いてもらうのだから、万が一何かあった時、対応できる者はつけておくべき、と言う事だった。
そうして付き人に選ばれたのは、数人の守護騎士たち。
セリオの書斎室へと招かれた彼らは、まだ業務内容を告げられていないにもかかわらず、不思議と揃って顔を青くさせ、扉近くで深々と片膝をついた。そのただならぬ様子に、セリオやアーフェル、ルーミルが不審がる中、なにやら見覚えがある人たちだと首を傾げたイズレンディアに、クロスは心底楽しそうな表情で彼らの素性を告げた。
すなわち――いつかにあった北の森の魔物事件の際、クロスに命じられてイズレンディアの守護に当たった、あの守護騎士たちである、と。
それに、素直に納得するイズレンディアと、守護騎士たちの内心を悟り、条件反射で同情の視線を向けるセリオたち。
最も、同情の視線が向く原因そのものであるクロスは、一瞬合わせられたアーフェルの叱責の視線もどこ吹く風。イズレンディアを横目に、嫌な予感に冷や汗を流す守護騎士たちへと、さらりと彼らの今回のお仕事を告げた。当然、綺麗すぎる笑顔つきで。
――瞬間、王の御前であるにもかかわらず、跪いた体勢からそのまま頭を地面へとぶつける、幸薄な守護騎士たち。
兜を外していてさえ派手に響いたその打撲音に、思わず顔をしかめたルーミルがそっと回復魔法を降り注がせる中、セリオが無言でクロスの口を塞ぐという行動に出る。
結局、そのあまりにもな守護騎士たちの様子に、一番煮え切らない態度であったイズレンディアでさえも、思わず自らのことを忘れて、案じる視線を投げかける始末であった。
――出発前にそのような事があり、この短い旅の中ですっかり打ち溶け……もとい、微妙に互いに容赦なく語り合うようになった挙句クロス関連で完全に意気投合した、イズレンディアと守護騎士たち。
当然として、クロス関連の話題では、双方共に視線を彼方へ向けての語り合いがなされるのが、お約束となった。
うっかり道連れ発言をしそうになった守護騎士の言葉に、紡がれなくとも先の言葉を読み取ったイズレンディアが、守護騎士と同じ、諦めの声音で返す。
「……そうですねぇ。……とは言え、私を使うのは、止めてもらいたいのですがねぇ」
「諦めて下さい。《賢者》様」
多分に苦笑の混じったイズレンディアの言葉を、バッサリと切り捨てる別の守護騎士。
それに軽い笑い声を返し、イズレンディアはそっと、口をつぐんだ。
順調に道を進む馬車の中では、良く通るイズレンディアの声であっても、すぐさま馬車が立てる車輪の音にかき消されてしまうのが普通である。
しかし、馬車を引き、馬車の横に付き添って進むその守護騎士たちは、更に金属の音を重ねながらもイズレンディアの声を聞き取り、会話を成す。
それは、実はクロスのみならずイズレンディアとて少なからず畏怖の対象である彼らの、最早なるようにしかならない、と言う投げやりに近い達観がなせる技だった。
そうして進むこの旅路も、もうすぐ目的地に到着する。
優しき陽光が地を照らす、晴天の空。
それが、少し先からは不思議と雲に覆われていた。
「――〝見捨てられた地〟……」
記憶をたどるように呟いたイズレンディアの声が、微かに真剣さを帯びる。
耳に届いたその声音に、守護騎士たちは自然と背を伸ばし、警戒を強めて進む。
英知を宿した深緑の瞳が、かつてを思い出すように、すっと細められた。
「ようこそおいで下さいました。《賢者》イズレンディア殿」
「しばらくの間、お世話になります。エスターさん」
晴れやかな笑顔でイズレンディアを向かえたのは、ファウンの街を治める、若き領主エスター・ハーネス。つい二年ほど前に先代より後を次いだ、ハーネス伯爵家現当主である。
ひょろりとした長身痩躯に、いささか装飾過多な貴族服を纏うエスターは、顔にかかる自らの波打つ金髪をサッと払い、イズレンディアを客室へと招き入れた。
「ここは王都からはいささか遠い地。すでに日も傾いてきておりますので、どうぞ今日はゆるりとお寛ぎ下さい」
部屋に控えていた侍女に飲み物を出させながら、エスターは心配そうに眉を寄せてイズレンディアへと提案する。
それに、ちらりと深緑の瞳を窓へ向け、わずかに赤みを増した空を見るイズレンディア。
確かに、王城のある王都からこのファウンの街へ着くまで、五日ほどを要した。夜は必ず通り道の街に入り宿をとったとは言え、久しくなかった長旅には変わりない。
イズレンディアの供として着いてきた守護騎士たちも、エスターの意見に同意であった。
が、しかし。
「……いえ。見るだけでも、今日中にしておきたいので」
英知の瞳を窓の外へ向けたまま、イズレンディアはそう返した。
さして声音を変えたわけでもないそれに、五日間を共に過ごした守護騎士たちは、すぐさま外へ出られるようにと扉へと移動する。
守護騎士たちは五日間、ふとした瞬間に発せられるイズレンディアの言葉、浮かぶ表情に、何かしらの決意が宿っていることを感じていた。
「ですが……」
「少し見に行くだけですから、ご心配なく」
渋るエスターに微笑みかけ、出された飲み物を穏やかに飲み干し立ち上がるイズレンディア。
その姿に、いつかの〝戦場〟での彼の姿を重ねた守護騎士たちは、自らの方へと歩み寄ってくるイズレンディアに、厳かに扉を開いたのだった。
ヒュオウ――と風が唸る。
領主の館がある場所だけ小高い丘であり、その他は平地であるファウンの街の、その外れ。
街から一歩出たそこは、地面が急激に数段下がっており、開けた茶色の大地が広がっている。
その場所に、ソレはあった。
「――これが、《邪神の異物》……」
イズレンディアの後方に控えた守護騎士の一人が、泡立つ怖気を押し込めて、そう呟く。
その震えた声に、一つうなずくイズレンディア。一瞬の後、英知の瞳に、常には無い鋭さが宿る。
下方から吹き付ける風に、金と見まがう明緑の長髪が、白と濃淡二色の緑映える旅装束と共に翻る。逸らされることなき深緑の瞳に、常の微笑みを消した中性的な美貌。刹那の時間に変化したイズレンディアの雰囲気に、守護騎士たちがぐっと拳を握った。
イズレンディアは告げる。
古き過去を、その脳裏に浮かばせて。
〝戦場〟での姿で、ただただ、凛と。
「そうです。これが――二千年前。この地を穢し、大いなる災厄を招こうとした……〝見捨てられた地〟の――《邪神の異物》」
眼前の大地から半身を突き出した、黒々しい、水晶体。
見る者に恐怖と嫌悪をもたらす、禍々しき、災厄の種。
遥か二千年前。同じようにイズレンディアが、その英知の瞳に映し、そしてその存在を拒絶した――悪意、そのもの。
ガンッ、と頭を殴られるような圧迫感に、守護騎士たちは眼前のエルフを仰いだ。
彼らからは見えない、イズレンディアの表情。それでも、守護騎士たちは確信していた。
その瞳、その言葉、その心に。
――決死の覚悟に似た、何かがあることを。
そして、守護騎士たちのその確信を肯定するかのように、イズレンディアは呟く。
「……今度こそ」
小さな音量に反し、両の手は強く強く、握り込まれて。
「――必ず、滅します」
それは、命を賭してでも護ることを誓った、守護騎士たちの心さえも動かす――確かな決意、だった。
風の唸りを押し切って、耳鳴りに支配されそうな、沈黙。
それがふと、穏やかな雰囲気に霧散する。
思わず怪訝な表情を浮かべた守護騎士たちが、イズレンディアを見やると、当のイズレンディアはその深緑の瞳をいつの間にか移動させ、ある一点を見つめていた。
「――あれは」
零れた言葉と共に、極々自然な動きで、淡い微笑みが浮かぶ。
そこに警戒が無いことを悟った守護騎士たちは、では何事かと問おうとして、出来なかった。
瞬間、くるりと右側へ向き直ったイズレンディアの眼前に、青い魔法陣が広がり、次いで小柄な、白い人物が現われたのだ。
「っ!? 何者!」
仕事柄、突然の事態であるほどに、反射的に守護対象を護ろうと動く守護騎士たち。しかし、彼らがイズレンディアの周囲を囲う、その一歩手前で、他ならぬイズレンディアがそれを穏やかな声音で遮った。
「大丈夫ですよ」
「! ……は」
心底安心する響きの一言に、盾を構えかけていた手を下ろす、守護騎士たち。
そうして、改めて向き直ったイズレンディアと守護騎士たちの瞳に映ったのは、白色のローブが眩い、十四歳ほどの少女。
左右共に、前側の横髪だけを伸ばして顎の辺りで纏めている、銀の髪。幼げながらも美貌と呼べる小顔に、どこか眠たげに伏せられた水色の瞳。そして、長い横髪でさえ隠しきれない、長い耳。
華奢な身体を純白のローブに身を包み、白玉を飾った樹の杖を両手で握り持つその少女は、まぎれも無く、エルフ族の者であった。
一拍の間を置いて、涼やかな声が紡がれる。
「――お久しぶりにございます。《緑の賢者》Izlendia様」
無表情のまま、しかし深々と頭を垂れて成されたその挨拶に、イズレンディアは嬉しそうにうなずき、礼を返した。
「《白の賢者》Elenmiaさんですね。お久しぶりです」
「エレンミア……? 《賢者》……エレンミア殿!? まさか、かの〝聖風の地〟の!?」
実に穏やかなイズレンディアに反し、守護騎士側から上がった声は、驚愕に満ちたもの。
〝聖風の地〟――それは、とある国の近くに存在する場所の名だ。
この世界に幾つか存在する、聖なる力を宿す場所――《聖域》、とも呼ばれる場所の一つである。
《賢者》Elenmiaと言えば、その〝聖風の地〟で暮らしていること、そしてエルフ族の《賢者》として最年少であることで有名な、風と治癒魔法の使い手だ。
「――六百年ぶり、ですかね。〝聖風の地〟のことは、旅の間も色々と聞きましたよ」
六百年ぶり、と言う辺りで細められた英知の瞳。しかしそれは、〝聖風の地〟と続く辺りでは、優しい色を宿していた。
そうして紡がれた言葉に、対する白きエルフの少女エレンミアは、伏せ気味の瞳をわずかに瞠り、次いで嬉しそうに言葉を返す。
「……光栄です。まさか貴方様に、風の声が届いているとは」
心なしか、その真白き頬が赤くなっているのを見た守護騎士一同が、思わず妹や娘を見ている心境で、口元を緩めた。
そんな守護騎士たちを横目で見たイズレンディアもまた、優しく微笑みながら、エレンミアの銀の髪をそっと撫でる。
「立派に活躍しているんですから、当然ですよ」
「! はい!」
褒められたと気付き、再び嬉しそうに笑むエレンミアに、すぐ傍の脅威からの威圧さえ押し退けて、和やかな雰囲気がその場に満ちる。
それに、そっと視線を交わし合うイズレンディアと守護騎士たち。彼らの胸中に浮かぶのは、互いによく見知った存在。金の髪と蒼の瞳を持ち、青のローブをはためかせて朗らかに笑う、一人のエルフの少年だ。
守護騎士たちは知らないことだが、眼前の少女と王城にて待機している少年双方の実年齢を知っているイズレンディアにとっては、二人はまさしく外見年齢も実年齢も近しい存在。
エレンミアは正しく、愛弟子たるルーミルを連想させ、自らに温かな感情を抱かせる存在だった。
そうして続く穏やかな時間は、陰る陽光と共に、自然と真剣なものへ変化する。
すっと移動した深緑と水色の瞳が、漆黒の異物を映した。
「――わたしも、貴方様と共に、戦わせて下さい」
言葉と共に向けられた水色の瞳が、強い意志を煌かせる。
交わった深緑の瞳が、ふと懐かしげに揺れた。
「えぇ、お願いします。……私たちで、終わらせましょう。――古き異物の、脅威を」
傾いた陽光に照らされて、二人のエルフの瞳が、禍々しき結晶を射抜いた。