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板橋区のあのアパートで(実話)

作者: アムロ

 陽子がはじめてぼくたちのアパートを訪れたのは大学二年生のちょうどいまのように蒸し暑く熟れた、梅雨の時期だった。

 ぼくはその頃、ナンパで知り合った一つ下の女の子と同棲をしていた。

 久保田保美やすみという名前の子で、足の太い子だった。

 ぼくはそれほど気にならなかったが、本人は自分の足がほかの子より太いことを過剰なまでに気にしていて、だからぼくたちの間で足のことや脂肪のことを口に出すことはタブーだった。

 ぼくはその頃まだ21歳で、人と付き合ったのもはじめてだった。それまで男子校で生活していたぼくに女の子の気持ちなんてわかるはずがなく、保美があまりにも足の太いことを気にするものだからぼくは一緒に入ったコンビニで雑誌を背表紙を指して「脂肪吸引ていうのがあるよ」と口にしたことがあった。

 しかしそう発言したぼくを見た保美の目の色はたちまちに変わり、烈火のごとく激怒した。ぼくは怒りに狂ったその姿を見て、ああ、こういうことは言ってはいけないんだなと知った、そんな始末であった。

 だからぼくらの同棲生活はすべてが手探りで、セックスも自慰行為もムダ毛の処理も、ぼくたちは一つ一つに直面して対応を模索した。喧嘩は毎日のようだった。


 そんな生活が半年、ようやく少し落ち着きを見せたころ、陽子がぼくたちの元を訪れたのである。

 陽子は保美の同級生で宮城県の出身だった。

 肩まで伸ばした黒髪を裾ところでカールさせていて、服装は当時「裏原系」と言われた個性的な格好をした子だった。将来は小学校の先生になる予定で、いまは地元の大学の教育学部に通っている。話してみると見た目よりずっと物静かで、真面目な子という印象だった。

「陽子はどうして東京に来たの?買い物?」と聞くと

「友達と会うためなの。だからやっちゃんのアパートに一泊させてもらって、もう一泊は友達のところに泊まります」といった。

「だからよろしくお願いします」

 こちらこそよろしくどうぞとぼくは答えた。


 ぼくたちのアパートは1Kでぼくと保美は寝室のベッドで寝て、陽子はキッチンに布団を敷いた。

 保美は陽子にしきりに一緒に寝室で寝るように勧めたのだったが、陽子が固辞したためだった。

 ぼくは久しぶりに保美と同じ布団に寝転がり二人でタオルケットをかぶった。窓は開け放してあった。外からは雨の降る音がシトシトと聞こえていた。

「陽子、本当はどうして東京に来たと思う?」と保美はぼくの耳元でひそひそと喋った。

「本当は」とはどういうことだろう?まるで嘘でも付いているかのような言い回しである。

「援助交際だよ。援助交際。明日どこかの社長とヤルんだって」と保美は言った。

「ええ?!」ぼくは驚いた。

 援助交際とは説明するまでもなく要するに金で体を売るわけだ。しかも普通の買春とはまた少し違っていて、若い女が金のある大人と交渉するというイメージがその言葉には強い。

 ぼくはびっくりしてしまった。それはまったくずいぶんだ。あんなに真面目そうな子なのに。

「そう見えないでしょ。でもそうなんだよ」と保美はひそひそと笑うように言った。

 意外だねとぼくは答えた。心臓はドキドキと音を立てていた。それならば要するにぼくだってお近づきになれるわけではないか、頭の中ではそんな打算が渦を巻いた。

「見えない。わからないもんだね」ぼくは平静を装ってコメントした。

 保美がぼくの首に手を回してきた。湿った汗の匂いが鼻腔を刺激した。保美はぼくにキスをした。そしてぼくの下腹部にするすると左手を回した。ぼくは保美のその手を握ってその先の行動を阻止した。

「しよ」と保美が耳元でささやいた。

「今日はいいよ」

「なんで?」と保美がすねた。

「隣の部屋で陽子が寝てるでしょ」

「ふうん」保美はぷいっと壁側を向いた。

「怒んないでよ」ぼくは保美の臀部に手を回した。

 そしてそのまま目を閉じた。しかし目を閉じても援助交際をする陽子のイメージが頭の中でぐるぐるとしつこく回っていて、到底寝付けるものではなかった。


 朝、浅い眠りから覚め、隣の部屋に行くとすでに陽子の姿はなかった。

 アパートのカギはポストの中に入っていた。陽子が鍵を閉めてそこに入れたのだろう。時計は10時を示していた。

 陽子は今頃どこかの社長とデートをしているのだろうか?しかしその目的のためにわざわざ宮城県から出てくるというのはすごいバイタリティーだ。ぼくには到底真似できない。


 夕方、大学からアパートに戻ってくると保美と陽子がコーヒーを飲んでいた。

 ぼくはあれ、と思った。

 陽子は今日は来ないで、そのまま宮城に帰るという話だったと思っていたからだ。

「もう一泊してくんだって。いいでしょ?」と保美が言った。

 ぼくはもちろんと頷いた。

 

 その日、陽子は自分のことを話した。

 メールアドレスはeromo@docomo・・という自虐的なアドレスであること。

 いま彼氏が宮城にいるのだということ。

 お金をためて3ヶ月に一辺ほどこうして東京に出てきているのだということ。

「いつも社長さんなの?」と出し抜けに保美が聞いた。驚くほど嫌味のこもっていない、純粋な質問だった。

「ううん。社長の時もあるし、そうでない時もあるし。出会い系とか多いけど」

「へぇぇ」

 まるでぼくなんかいないかのように二人の会話は進んだ。

「前なんかあたしホテルに入ったら生理になっちゃって、それで今日はだめって言ったら、『生理でもいいよ』って言われて・・」

「それでどうしたの」

「それでコンドームはめて、した」

「へぇぇ」

「今日なんかはどうしても鏡の前でしようって言われて」

「へぇ」

「三上くんどう思う?」急に陽子から話を振られた。

 ぼくはさあ、やったことないと答えた。

 事実ぼくは実にノーマルなプレイしかしたことがなかった。鏡の前でするのくらいはアブノーマルには入らないかもしれないけれど。

「そういう人ってどう思う?生理の時にしようとかさ」陽子がぼくに聞いてきた。

「血まみれになりたくない」ぼくは答えた。

「自分勝手だよね、そういう人って」

「そうなのかな」よくわからなかった。

 陽子はそうやって数か月に一辺、性欲の解消とお金稼ぎを両立させに東京にやってくる。しかしやっていることはいわゆる「売り」、買春だ。そういう人が小学校の先生になるというのははたしていいのだろうか?

 まあ、人はみんな過去に、明らかにされたくないものを持っていて、それを心の抽斗に仕舞って生きている。わからないけれど、そういう教師がいるっていうのも実は普通のことなのかもしれない。

 陽子の顔は可愛いと思う。昔の日本人形のような顔をしている。古風だ。性格も気を使わず話せるし、悪い子ではない。ぼくはいろんな人生があると思った。

「明日はどうするの?」と保美が聞いた。

「明日は夕方くらいに出ればいいの」

「で、誰かと会うの?」

「まあね」

「じゃあ夕方まではどうしてるの?」

「ここの部屋でゆっくりしてもいい?」と陽子は言った。

 保美は明日朝からバイトだ。ぼくは午前中だけ大学の講義がある。

 その時ぼくはドキッとした。明日、講義の後すぐにぼくがここへ帰ってくれば陽子と二人っきりの時間、ということではないか。ぼくはにわかにドキドキし、火照った頭でくるくるとイメージした。陽子と交わる自分自身がぼくの脳裏に写し出された。

 その日もやはりうまく寝付けなかった。外からは通りを通る車の音が遠く聞こえてきた。

 隣の部屋で寝ている陽子をイメージした。ぼくの隣では保美がすでに寝息を立てていた。


 次の日、午前中の講義は12時前に終わった。

 ぼくは自分の所属していた文学サークルの部室に行って、コーヒーを飲みながら考えていた。アパートに帰るべきか、それともここでやり過ごすべきなのか。

 陽子は保美の友達、ぼくが陽子とすればそれはもしかしたら保美に伝わるかもしれない。

 しかしぼくが考えていたのはそんなことではなかった。

 ぼくは保美を裏切っていいのか否か。それがぼくに突きつけられた問いだった。

 保美はぼくを信頼し、バイトに行った。陽子を泊めたのもぼくを信頼しているからに違いない。でもぼくの陽子としたいという気持ちは溢れ出しそうだった。

「なんか悩んでるの?」と部室にいた3年生の女の先輩に尋ねられた。

 ぼくは別に何もと平静を装った。

「そう?なんか三上くん悩んでるふうだったから」

 ぼくは先輩の顔を見上げた。そして聞いてみた。「先輩は彼氏以外の人としたことありますか?」

「え、何?エッチ?」

「そうです」

「ない」先輩は言いきった。「考えられないから」

「じゃあ先輩の彼氏は浮気したことないですか?」

「ないと思う」

「もしあったら?」

「ショック」

そうですよね、とぼくは答えた。

「なになに?三上くん浮気しようとしてる?」先輩はぼくに疑いの目を向けた。

「そうじゃないですよ」

「あやし~」

ぼくはコーヒーを飲み切った。「今日は帰りま~す」

「早いねぇ。浮気じゃないよね?」

「違いますって」

 再三疑ってくる先輩を残してぼくは部室を出た。

 それからぼくは歩いて池袋まで行った。そして東口にある、目立たない公園のベンチに腰掛け、缶コーヒーをフタを開けた。

 公園の片隅には段ボールで出来たホームレスの小屋があった。小屋の周りにはハトが何羽も集まっていた。ホームレスがエサをあげるのだろうか。

 空を見上げた。曇っていて今にも雨が降りそうだが、天気予報では降らないと言っていた。

 その時、ぼくはここで一つ賭けをしてみることにしようと思った。

 雨が降ったらアパートに行こう。そういう運命だったんだ。もう躊躇わない。

 だけど雨が降らなかったら、ここでこうしていよう。保美の方を取る。

 結論が神様に委ねられることで、ぼくは責任を逃れようとしていたのかもしれない。

 ぼくは空を見上げた。もう少しで決壊しそうな空はギリギリの力でこらえていた。

 ホームレスは祈るようにいつまでも空を見上げ続ける大学生を見て、何を思っただろうか。




 その日、ぼくがアパートに戻ったのは18時を少し回ったころだった。ドアを開けるとカレーの匂いがこぼれてきた。保美が台所に立っていた。陽子の姿はなかった。

「陽子は?」

「さっき出ていったよ」

 そっかとぼくは答えた。

 雨は結局降らなかった。ぼくは空とホームレスと時計とを交互に見ながら、その公園に日が暮れるまでいたのである。


 あれからもう十数年が経とうとしている。

 ぼくが山梨の会社に就職が決まり、実家に戻ったのを境に保美とは遠距離恋愛になり、気持ちも離れていってしまった。いつ携帯のメモリーから消したのか、いまでは連絡先すらわからない。ましてや陽子の所在などわかるはずもない。

 

 2011年3月11日、あの巨大な地震と大津波が東北関東地方を襲った。保美も陽子も宮城県の出身だった。彼女たちがどうなったのかを、ぼくは知らない。

 熟れたようなこの時期、ぼくはいつもこうして胸がぎゅっと詰まるような気持ちになる。

 

 二人はいま、どこにいるのだろうか。


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