我が太公望
初夏6月。草木も空も青さが深くなる季節である。同時に、段々と暑さも増す時期でもある。
隣を歩く恋人、青空由理もまた、暑そうにしきりに手で扇いでいる。
制服は衣替えを終えちょうど夏服。薄手にはなったがそれでも厳しい、というところか。
かくいう俺自身も、半袖だというのにほのかに汗ばんでいる。
梅雨入りの前、特有の蒸し暑さに加え、今日は太陽も高くに輝いている。
ただいつも通りの帰り道をいつも通りに歩く、話をしながら。
「暑いね、空君」
「そうだな」
「涼しいところにいきたいー」
手を後ろで組んでこちらの顔を覗き込む由理。
お願いのポーズだというのは由理に以前教えられた知識だ。
曰く、そっちの方が可愛く見えて並の男の子ならイチコロ、らしい。
「釣りにでも行くか」
「釣り?」
「ああ」
そういうと、地味だのなんだのと悪態をつかれる。
それでも、森の中の川辺なら多少は涼しかろうとなだめると、渋々ながら納得したらしい。
「週末でいいか?」
「今から」
「何」
「今からがいい! 思い立ったが吉日だもん、いいよね!」
ずいぶんと急だが、まあいいか、と考えたところ、ふと気になることができた。
「ところで由理、釣竿は持っているのか?」
「ないよ、でもいくの!」
由理の心は決まっているらしい。是非もなし、と苦笑いし、ならば、と肚を決める。
こう無計画な時があっても良いのかもしれん。家に立ち寄って釣竿と餌を持つ。
ついでに服も汚れてもいいものに着替える。由理も、体操着に着替えていた。
「さあて、いっくよー、空君!」
はじめに釣りと聞いた時は不機嫌だったのにえらい変わりようである。
まるで猫のように気分がコロコロ変わるのだが、機嫌が良いならそれに越したことはない。
ただ、どうすれば機嫌が良い状態を維持できるか分からないのが悩みであるが。
ともかく、自宅の近くにある山に向かう。
山と言っても裏山のような感じで、高さはそれほどない。青く色付いた森には道が通されており、そこを歩いて川を目指す。
木々もそうだが、時折吹くそよ風も、暑さを和らげてくれている。
由理も、こういうのもいいね、などと喜んでいる。木に留まる鳥を見つけてははしゃいでいたりもした。
ほどなく、川辺につく。俺はそこらに腰を下ろすと、持ってきた釣り具入れから釣竿を取り出す。
あまり高級な部類ではない。一本の竿と糸からなるシンプルなものだ。もちろん、リールみたいなものはついていない。
「空君、釣竿、すっごいなんていうか……ショボくない?」
「俺は釣りで待つ時間が好きだからな」
えー、と不満を顔に出す由理。
聞けば、もっとバケツがすぐ埋まるくらいどばどば釣れるようなものだと考えていたらしい。
どうやら楽しみ方が真逆なようだ。
「ふんふんいいもん、こうなったら花鳥風月の心というのを学ぶ機会にしてやるもん!」
俺はその言葉を聞き流しつつ、餌をつけると釣り針を川に放った。
後は待つのみ。駆け引きはしない。
川のせせらぎ、鳥のさえずり、そういったものを聞き、木漏れ日や葉の揺れなどを眺める。
由理も始めはじっと俺の真似をしていたのだが、3分もすると飽きてきたらしい。
しきりに俺を呼び始めた。
「なんだ」
「この状態はいつまで続くの」
「むろん、釣竿に動きがあるまでだ」
「え、もしかしてかからなければ日が暮れるまでこうする感じ?」
露骨に嫌な顔をする由理。釣りとはそういうものではなかろうか、という抗議をするよりはやく、今は日が沈む頃には7時だよ、と二の矢をつがれる。
そこまでいったところで由理は、はた、と何かに気づいた顔をした。
「いやん、もしかして空君たらこのままここで野宿で『今夜は二人きりだぜ』なんてそんなイベント用意していた感じ!? あ、でも寝袋とかテントとか、石とかあるし今暑いからこのままワイルドスリープでもいいかなぁ、空君ってば大胆!」
まくしたてる由理が何を言っていたか半分以上は聞き取れなかったが、ともかくここで野宿をするのだと勘違いしているらしい。
「野宿はせんぞ」
「んもー、そんなこといってー! こういう状況なったらそういうイベントあったっていいじゃない! 攻略対象キャラを攻略後に二人っきりで釣りいったのに相手が釣竿眺めてるなんて状況認められません! 断固抗議するよ!」
「何の話だ」
「今の私と空君の状況! こう『夜に男は狼となってガバッと私を、キャー!』展開が致命的に足りないよ空君は!」
何の話だ。あまりに感情的すぎて意味が取れん。
釣りは魚がかかるまでおとなしく待つものだとわからんのだろうか。
「イベント、期待してたのにィ! 自然と一体になります、みたいな空気! 老荘かぶれにでもなったの空君!」
無為自然の境地は荘子のほうが近い、それに、花鳥風月を学ぶと意気込んでいたのにこれである。
もう少し静かに、この空間に身をゆだねるということはできないのか。
なおまくしたてられるが、どうやら何に不満なのか見えてきた。
俺が釣竿を眺めるばかりで、相手をされないのが不満らしい。
「由理、釣りに必要なのはなんだと思う」
「忍耐……ハッ、そういってまた放置するプレイつもりなんだね!? この策士!」
「おお、まず安座して我が論を聞け」
「いつも以上に古めかしいその言葉は何なの!?」
「昔、渭水の畔で釣り糸を垂らしたまま動かない男がいた。彼は魚を釣るでもなく、日が昇ってから暮れるまでずっと釣り糸を垂らしていた。ある日、彼の近くに周の文王がやってきた。人目に非凡な人物だと見抜いた文王は、彼の釣りを妨げず、自身も日が暮れるまで側に立っていた。やがて、男が帰り支度をすると初めて声をかけ、その見識に惚れぬいてあなたこそわが大公(父)の望んでいた人物だ、と彼を伴い周に帰り、やがて周王国八百年の基礎を築いたのだ」
「私も太公望の話を知っているけど、それって賢人の迎え方じゃなかったっけ」
俺は頭を振って、賢人を迎えるも釣りをするも、慌てず騒がず忍耐を持つことが肝要なのだ、と返した。
「なんか、変な理屈うまくなったね、空君」
「どういうことだ」
「素直で初々しかった私の彼氏がどこぞの誰かの影響を受けてそれっぽいこじつけ話をするまでになるなんて……」
心外だ、俺は釣りの心構えを少しばかり壮大に語ったに過ぎない。
釣竿が動くまで無為に過ごす。それが俺の楽しみ方なのだ。
しかし、由理は違うらしい。ふと、退屈か、と尋ねると、肯定された。
手近な石に腰を下ろし、膝を抱えてうつむいた状態で、俺に聞く。
「空君はさ、私といるの嫌いなの?」
珍しく、暗い。どこか真剣な様子だ。
「私と一緒にいるときだって意識してる感じじゃないし、釣りに来たら釣竿しか見ないし」
どこか苛立ったように由理は続ける。視界の端で、釣竿が動くのが見えた。
俺は、まだ何も言わない。
「私は、いつも意識してるんだよ? 何を話そっかとか、今日どうしよっかとか今何考えてるんだろ、とか」
「…………」
「空君は、そういう事ってないの?」
「ああ」
短く答えると、由理は諦めたように、それじゃ負担だったんだね、と言った。
どこか遠いところにいるような表情は、正直に言えば俺を狼狽えさせた。
「こんなにつきまとわれて厄介だったよね」
そう重ねる。怒りや憎しみなどは感じられない。寂しさと、そしてわずかながらな清々しさ。
不思議な感覚だった、由理がどこか遠い場所に行ってしまうのではないか、とそう思える。
木の枝に止まっていた鳥が、羽ばたく音がする。
「違う」
それは俺自身に向けた言葉でもあった。由理がどこかに行ってしまう感覚を否定しなければならなかった。
由理に何が違うの、と反応されたが、構わずに続ける。
「違うぞ。厄介だと思ったらそう言っている。嫌いだと思ったらそれも言っているし、とうに避けている」
目を見開いてこちらを見据える由理。
「俺にとっては由理が近くにいるのは自然な事だ。逆にいなくなれば意識する。少なくとも今の状態は、俺にとっては自然で快適なのだ」
「それって本当に? 私がいて嫌じゃない?」
疑うように、重ねて聞いてくる。だから、力を込めて言った。そうだ、と。
先ほども言った。俺はいやであったらそう伝えると。
「それなら空君は、もっと俺といてくれ、って言ってくれたっていいじゃない。それだけでずっと違うのに」
「自然に過ぎて、そういう言葉は浮かばなかった。すまん」
「私ね、時々不安になるんだよ? 空君はちゃんと私の事が好きなのかなって。だって一方通行みたいじゃない。私が話しかけて、抱き着いて、なんか返すだけで、隣を歩くだけで他に何もしてこないんだもん。空君がそういう人じゃないってのはわかってる、ううん、頭では分かってるけど、でももっと私がしているみたいにしてほしいって思うの!」
「由理のしているみたいに?」
「そうだよ、もっと私に好きだって言ってほしいし、抱きしめてほしいし、その……キ――とかだって」
「キ、なんだ?」
「ともかく! そういうアレコレしてほしいの!」
好意は日常的に囁いたり言葉にするものなのだろうか、少なくとも俺は自然にふるまう方がいいのではないかと考えている。
「だーかーらー! そこを改めて言ってもらえたりするのが嬉しいんだよ!? 私の事、好きなんだよね!?」
「もちろん好きだ、異性として、恋人として。ライクではなくラブの方として」
面と向かって言うと、今度は由理が押し黙ってしまった。
先ほどまであれほどなんやかんやとまくしたてていたというのに、不思議なものだ。
ややあって。
「あーうーあー。うん、そう、やっぱり時々でいいかな」
「日常的がいいのかどっちだ」
「いつも言われるのも捨てがたいけど、空君みたいな人には日常的に言われるよりたまに言われた方が……でもでも、うーん」
「どっちなのだ」
「これ難しい問題なの! 複雑で微妙なバランスの上に立ってる問題なんだよ!」
つまりどちらがいいのか。微妙な問題だといわれても推しはかる材料が不足しすぎている。
「今までどおりでいいのか」
「それだと皆無じゃない! 私体感比一割増しで!」
「ふム、随分と緩やかなのだな」
「そうだよ、良く考えたら私って今までもさんざん我慢してきたんだもん。それこそ文王様より忍耐強く待ったよ?」
「どういうことだ」
「私も渭水の側に立ち続けたってこと」
渭水は言うまでもなく中国にある。俺の知る限り由理が行っていたなどという話は聞かない、何かの比喩だろうか。
「それで文王は見事に太公望の心を動かすことができたのでした。私ってホントすごいよね、忍耐力」
一人でうんうんうなずいている。機嫌が直ったのでまあ良いのだが。
「ともあれ由理が元の様子に戻ってよかった」
「なにそれ、まだよくありません。私の言った事を守ってくれないと」
「俺は今まで、あれを好意の示し方だと思っていたのだが」
「私はにはそれじゃ足りなかったの!」
「釣りの楽しみ方と同じだな」
「いきなり何それ」
「人それぞれということだ」
「あ、逃げたね! 十人十色説で逃げたね!」
「いや、そこからお互い歩み寄れるということだ、今日の俺達みたいに」
言うと、由理は夕暮れ時の空を見た。
ほのかに頬が赤く見える。
「皆そうなればいいのにね」
「何?」
「私たちみたいに世界中なれれば、平和になれるよ。あ、そんな壮大な話の前に空君は私をもっとハッピーにしなくちゃいけないけど」
「前者はともかく、後者はなんとかしてみせる」
真面目に言うと、由理が噴出した。
そして、柔らかな表情を浮かべる。
「期待してるよ!」
結局、釣竿には一匹もかかっていなかったが、今日はそれ以上の釣果を得たと思う。