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第八十一話 暗躍者








 その病室のネームプレートには「上条」と書かれていた。

 まあ、少女は“黒羽”総帥ではなくなったのだから、もう黒羽ではだめか。羽織はそんなどうでもいいことを考えた。

 ここはとある病院。白くて薬臭いその廊下にて、羽織ともうひとりはやって来ていた。

 隣のもうひとり――加瀬 雫は落ち着かないようで、胸に手をあてて瞑目している。なにごとか呟いている。そんなにビビることかよ。羽織は面倒なのでさっさと扉に手を伸ばす。


「あっ、おい、まだ心の準備が――」


 無視。ノック。すぐに反応。


「どちら様かしら?」

「っ」


 声が返って、雫は思わずびしっと背筋を正す。なにやってんだこいつは。呆れながら羽織が名乗る。


「おれおれ、おれだ」

「……詐欺は御免だけれど?」

「えー、おれだって。おれ、あのおれ、そのおれ、このおれー」

「戯け、遊ぶな! すっ、すみません理緒姉ぇ。私です、私と羽織です」


 なんか遊びだした羽織に喝を一発。すぐに謝罪と名乗りをドアの向こうに正しく告げる。

 くすりと笑んだ声は気のせいか、ともあれすぐに病室の主は返事を送る。


「ええ、開いているわ、入って」

「失礼します」

「邪魔するぞ」


 遠慮気味に、無遠慮に、入室するふたりを待っていたのは――ベッドに腰掛ける黒髪の少女、黒羽――否、上条 理緒である。

 無理のない穏やかな笑顔で、理緒は歓迎を示す。


「雫、会いたかったわ、本当に……本当に。色々と言いたいことがあるのだけど、ともかく元気そうでよかった。そして――」


 視線を横へ。へらへら笑う覇気ない男へ。


「来ると、思っていたわ、羽織」

「おう」


 一瞬で微笑みの温度は低下する。羽織の会いに来た理由は、雫のそれとは違い決して暖かなものではないから。

 冷え込むふたりに、雫は意図して頓着せずに自然に話そうとして――驚愕。


「りっ、理緒姉ぇ……その目……」

「ん、ああ。この左目のこと? これなら、元の持ち主に返しただけよ」


 ――とある男は生まれながらに片目がなかった。

 彼の親は隻眼では気味悪がられると思ったらしく、彼に精巧な義眼を与えた。

 そうして義眼の赤子は、すくすくと育ち、やがて大人になった。

 彼はひょんなことから魔益師という存在を知り、果ては自身までもその存在へと変貌した。

 魔益師としての彼の魂魄能力は“視力の拡大”――視ることができる可能性を拡大する能力であった。生まれつき片目のない彼にとって、なんとも皮肉な能力であると苦笑したものだ。

 だが苦笑はしてもこれが正しかったのだと、彼は思った。なぜなら彼の具象武具は、なんと義眼だったのだ。

 彼はその時に理解した。

 己が眼球は、ここにあったのだと。生まれた時から、眼球は眼窩ではなく魂魄にあったのだ。奇妙なまでにしっくりとそう実感できた。

 だが。

 そうなると、両親が自分のためを思って授けてくれた――その時には大事な親の形見となっていた義眼を、取り去らなければならないことになる。

 彼は苦悩して、懊悩して、最終的に。

 ヤケクソとばかりに、ひとつの眼窩に魂の眼球と両親の義眼を同時に入れ込んだ。

 すると。

 不思議なことに、義眼に魂が宿った。

 それは媒介技法という現象。

 彼は知る由もないが、しかしともかく彼はそのことに酷く喜んだ。

 そんな男――理緒は、彼からその魂を奪っていたのだ。

 それを返却しただけ――眼帯をした左目を指して、笑った。


「他の武具も返そうと思っていたのだけどね、奪われてしまったわ」


 もはや理緒に力など必要ないから。

 消えた執着の後には、深い罪悪感が多方面から襲ってきたから。

 男には丁寧に謝罪を述べたが、無論に許してなどくれるはずもなく。返却など自己満足でしかない。それでもよかった。ただ、謝意を伝えたかっただけ。


「…………」


 それに関して、雫はなにも言えない。沈黙してしまう。理緒が間違いを犯したのは本当、責められることをしたのも事実。ではこれから理緒はどうやって生きていくのか――どうであれ雫は助けるつもりだが、どうするかは本人が決めることである。

 気まずげに黙るなら、こっちを先に話す。羽織はずいと前にでて、わざわざ今日来た理由を告げる。


「上条、お前に聞いておくことがひとつ――いや、ふたつある」

「……遺魂能力について、ね」

「ああ。それと一条が聞いたっていうジャックとの会話について、聞きに来た」

「いや、私はそんなことより理緒姉ぇのことが――」


 復帰した雫が声を挟むが、押し退ける。


「そりゃ後にしろ。おれの話終わったら幾らでもなんでも話せ」

「む、勝手だぞ」

「じゃあお前の話は数分で終わるのか? おれが話す暇を残して話すのか? ああ?」

「それは……わからん」

「はい黙ってようか、雫ちゃん」

「むぅ」


 確かに雫と理緒が本格的に話し始めると大分、時間を食いそう。順番として後に回らないと羽織が来た意味がなくなるかもしれない。

 羽織の話す内容にも、少しだけ興味があるというのもあり、雫はそこで押し黙る。

 よしよしと頷き、今度こそ羽織は理緒に向き直る。


「で、遺魂能力、ありゃなんだ?」

「曖昧な質問ね。まあ、曖昧にしか聞けないか」


 んー、と理緒は顎に指をあてて思案顔。


「語る側からしてもどう話せばいいか……そうね、まずはあの女について、かしら」

「女?」

「あれは、二年ほど前かしらね。雫と別れ、悪夢から逃れようと彷徨っていた頃」




 ――ひとりの女と出会った。

 出会った、と言っても顔をあわせたわけではなく、突然に声だけがこちらに届いてきた。声の艶から女だとはわかったが、他にはなにもわからない。そもそも声だけが聞こえるという時点でおかしい。どういう理屈だ、女の能力であろうか。

 こちらの複数の疑問を差し置いて、女は言った。


「成したいことがあるのかしら」


 邪悪な声で、蠱惑的な声音で。


「成したいことのために、全てを切り捨てる覚悟はあるのかしら」


 理緒は疑惑と疑問、疑心で一杯になった頭で、しかしその問いかけには是を返していた。

 当時の彼女にとっては、そんなの返すまでもない当然だったから。既に全て切り捨てた後だったから。

 姿知れぬ女は、怪しく笑った。冷え冷えとした、とても笑声とは思えぬ声で。


「じゃあ、それ、あげるわぁ」

「え?」


 不意に目の前になにかが落ちる。咄嗟に理緒はそれを掴んで――見ればそれは腕輪。五つの欠片に輪を通しただけという簡素だが奇妙なデザインをした腕輪であった。

 一体これはなんだ、問う前に声は言う。


「それは魂を学習する欠片。所詮、欠片でしかないから、魂全てを学習なんてしない、具象化なんてありえない。でもぉ、欠片でも為せることはあるのよぉ?」

「なにを、言っている」

「そぉねぇ、媒介武具を騙すくらいは可能、かしらねぇ」

「武具を、騙す?」

「そぉ、騙すの。自分はあなたの魂よ、って。人の媒介武具を――使う。ふふ」


 なにが楽しいのか、愉快そうに見えない女は続ける。


「それを使えばぁ、あなたは自分以外の魂を御せるってことよぉ」

「っ! 複数の能力行使……」

「そうよぉ、きっとあなたの力添えになるでしょお。成したいことを、成し遂げられるでしょお?」

「何故こんなものを私に寄越すのかしら、あなたは――誰?」

「好きに想像するといいわぁ。ああ、でも、あなたを選んだ理由はぁ、あなたの魂が、酷く歪んでいるからよぉ。歪んで、腐って、臭ぁい。ふふ、とっても素敵よぉ」


 抱きしめたくなる。抱きしめて、絞め殺したくなる。

 それだけ言い残すと、もう女の気配は消失する。姿はなくとも感じた気配が失せ、そこにはもはや理緒だけだった。




「私の話せるのは、これくらいよ。あの腕輪がなんだったのかは、終ぞわからなかったわ。勿論、あの女のこともね」

「……そうか。姿知れぬ女に、学習する欠片。そうか……」


 話を聞き終えて、羽織はひとり呟きながら思考を回す。

 まさか、という思い。

 バカな、という焦り。

 しかし、という迷い。

 巡り、巡り、苦々しく笑う。そして深いため息をひとつ零す。


「上条、助かった。雫、後は好きにしろ。おれは帰る」

「えっ……あ、おい! 羽織?」


 雫が声をかけるが、聞いた風もなくとっとと退室、行ってしまう。

 今の不明点ばかりの話に、なにか気に掛かることでもあったのか。思い当たることでもあったのか。羽織は当初あったはずの余裕が失せている。

 どうしたというんだ一体。なにをそんなに張り詰める。問うことなどできず、扉は荒々しく閉ざされた。

 ――必然、病室には雫と理緒だけ。

 それに気付くと、雫は羽織への思案が立ち消え、なんだか酷く緊張してしまう。

 なにを話せばいいのか、なにを語ればいいのか。

 悩む雫を微笑ましげに理緒は眺めていて、沈黙が続く。理緒にとって、別になにを喋らずともただ雫がいるだけで、それだけでよかったのだ。

 あーだの、うーだの、雫は呻き続け。


「りっ、理緒姉ぇ」


 どれほどか経ち、ようやく意を決したらしい。呼びかける。


「なにかしら」


 理緒は柔らかに受け止め、先を促す。雫はまた一度黙り、息を吸い、言葉を吐く。


「理緒姉ぇ、私は……私は、あなたを助けることが、できたでしょうか」

「あら? くすっ、くすくす……」

「え、あの?」


 そこでどうして笑う。雫は神妙に固めていた雰囲気を崩し、困惑してしまう。

 戸惑う雫の頬に、理緒は笑んだままそっと手を添える。視線を合わせて、今ある気持ちを真っ直ぐ伝える。そう、いつもの雫のように。


「雫、ありがとう」

「え」

「私を負かしてくれて、私を止めてくれて、ありがとう」

「そんなっ、私はあなたを負かせてなど……っ!」


 そうだ、理緒を打倒してのけたのは一条だ。止めたのもまた、一条ではないか。 

 雫は、結果だけ見ればなにもできていない。理緒のために戦っても、結局は全て他人に任せて終わっただけじゃないか。

 だが、当の理緒は微笑のままに首を振る。


「いいえ、あなたは私に間違いなく勝ったわ。私のはじめての敗北相手は、加瀬 雫、あなたよ」


 一条は二番目ね、と理緒はまた楽しそうに笑った。


「ほら、だからそんな泣きそうな顔しないで。勝者なら、もっともっと笑いなさいな」


 理緒は、優しく優しく雫を抱きしめる。そして、囁くようにもう一度、大事な妹に本音を贈る。


「雫、私を救ってくれて、ありがとう」

「ぅっ、ぅぅ……理緒姉ぇ!」

「勝って泣く子があるかしら。まったく、あなたは本当に困った妹ね……」


 ――こうして姉妹のわかれた道は、ようやっとここに交わり収まったのだった。





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