幕間(理緒)
――そして長き戦いの終幕がここに。
様々な魔益師たちの能力がぶつかり合い、無数の武具が火花を散らし、数多の魂が巡ったこの戦争。その完結、全ての収斂の果て。
両軍代表――どちらかが敗北した時点で全体の勝敗を決するふたりが、遂に遂に相対する。
条家十門盟主、一条。
黒羽総帥、黒羽 理緒。
森の一角にてふたりはある意味で運命的に、そしてなによりも必然的に出会う。決着をつけるために、因縁を晴らすために――互いを目視し、視線を絡める。
理緒はもはや我慢の限度ができず、内に燃える業火を吐き出すようにして口を開く。
「ようやく、ようやくあなたとこうして対することができた――条家盟主にして最強、我が全ての因たる存在、一条!」
「黒羽、理緒……」
「その通りよ。私はあなたの死神、最強の打倒者、新たなる最強、黒羽 理緒!」
理緒の一条に向ける思い、それはもはや憎悪。
お前さえいなければ。お前さえ存在しなければ、私はあの男の妄執の玩具になどならずに済んだのだと、そんな八つ当たりに等しい思いが止まらないのだ。黒羽 源五郎への迸るほどの憎悪が、超過して一条にまで飛び火している。
もうどこにもいない男への黒い炎は、目の前の一条へと自然に流れて燃え続ける。
「私は、私はあなたを倒すためだけに生きてきた! あなたを倒すためだけに妹さえも叩き斬った! ただあなたを倒すために!」
「そうか」
反して、一条は静寂したまま小さく返す。最終決戦だというのに、なんとも低温である。
それがまた理緒の気に障り、マグマの噴出を後押しする。
「っ! ああ、そう、私はやはりあなたにとってはただの羽虫か。私の憎悪など、とるに足らないか!」
「…………」
涙を流すように憎悪を叫ぶ少女のことを、一条は静かに悟る。
これが本当の理緒という少女の姿。泰然とした態度など偽り、艶笑してみせた姿など仮面、内に潜むこの烈火こそが理緒という少女の真実なのだろう。屋敷で出会った姿からは想像もつかない、これほどの憤怒と怨讐を抱えていたなんて。
だがその姿は哀れでしかなく、泣きじゃくる子供のよう。憎しみも恨み絶望も、ただ彼女自身を焼き、苦しめているだけだ。過剰な憎悪に、身を喰われている。魂を蝕まれている。
一条はこれまでの憤りを忘れ、彼女に同情のような心持ちを抱いてしまう。理緒を構成する感情の一端は、一条にも理解できることでもあったから。
羽織の話では、彼女を救えたかもしれないという加瀬 雫は敗北したという。ならば、もはや理緒を止めてやれるのは――向かい合うことができるのは、一条だけだろう。
だって、理緒にはもう妹への愛と、一条への憎悪しか魂に残っていないから。そのふたつだけで、彼女は走り続けていたのだろうから。
ならば止めてやろう。この魂に賭けて、必ずその憎悪の空振りを断ち斬ってやる。
お前はもう――
「……もういい」
「なに?」
「もうそれ以上喋るな」
「っ!」
一条の一言に、理緒は激憤が弾け飛びそうになったが――瞑目。
落ち着けと呪文のように胸中で呟いた。大丈夫だと暗示のように胸中で囁いた。
自己を律する言霊は、爆発しそうな感情さえも抑え込み、包み隠す――隠し切れなかった。
「いいでしょう、私だって我慢はもう沢山! 終わりにしましょう、なにもかも! 全部全部、あなたにぶちまけてやる! それで私は私に帰るの! 雫にごめんって言うの! 貴様を、倒して!!」
「いいだろう――後先なく全力でかかって来い。案ずるな、我が全霊を賭して相手をしよう。黒羽 理緒、お前はもう眠れ」
一条は、その魂の武具を抜き放った。
一条の抜刀の後は、もう我武者羅だった。理緒は無我夢中で一条という存在をこの世から消し去らんと咆哮し、獣の如く襲い掛かる。
能力の出し惜しみなんてしない。理緒は全身全霊全て振り絞って挑みかかる。六の能力を全解放。
「ァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
指輪が転倒を誘発し、歪みが空間ごと喰らい、その間に加速し接近、極限まで振動した刃を振りかぶる。
だが、左目は視る。
「え――?」
――キン。
鳴り響く音と同時に、全てが斬り裂かれるという理不尽を。
転倒の因果も、空間の歪曲も、守護の火炎も――全部、加速する前に斬り捨てられた。
直後、
「――ぁ」
七千を超える斬撃が理緒を叩きのめした。
理緒は一条に勝てるのか?
その問いに対し、羽織はこう言った。
「――絶対勝てねえよ。千回やっても一条が勝つ。黒羽 理緒に勝ち目なんざ欠片もねぇ。あの程度で、一条に敵うわけがねぇ」
当初は複数の能力という不確定要素や充分に巧妙な隠蔽から、羽織としても計りきれていなかったが、それは今の雫との戦いで知れた。底が、知れた。
そして結論はなんの波乱も予想外もなく――一条の圧勝でしかない。雫と理緒の戦いよりもなお明確に断言できると、羽織は肩を竦めた。
「……そうか」
「ん、なんだ、意外に反発しねぇのか」
「ああ、私は理緒姉ぇとも一条様とも戦ったから……わかってしまったよ。否応なく、理解できてしまった」
理緒は確かに強かった。本当に、本当に強かった。
だけど――決して最強というほどには、辿り着いていなかった。
悲しげに目を伏せる雫とは逆に、けけと羽織は悪役っぽく笑う。
「ついでに盛大に毒盛っといたから、万に一つもないだろーな」
「毒?」
「ああ、お前じゃ絶対勝てないって言っといたから。あいつがおれを認めてれば認めてるほどに毒は回るだろうな」
言うまでもなく魔益師にとって認識はその強さに密接している。他者に勝てないと断言されて、自己の勝利の認識が揺らぐこともあろう。それが認めた人間の断言なら、なおさら。
雫は責めるに責められず――一応、羽織は条家側の魔益師。一条の有利になるよう働きかけることを叱るのは違うだろう――けれどやはり不満そうに唇を尖らせる。
「負けるとわかっている相手に、さらに鞭打つ必要があったのか?」
「あったんだよ」
言い切り、笑みを消失させる。なんとも言えない表情で、羽織は語る。
「……たぶんな、黒羽 理緒本人もわかってた。自分が一条に敵うはずがないと、わかってた。おれに問いかけたあの目は、全然希望なんざ抱いてなかったよ。だからいっそアッサリと切り捨ててやったんだよ」
「そんな……じゃあなんで、なんで理緒姉ぇは負けるとわかっていながら戦いを、戦争なんて仕掛けたっていうんだ」
「だから、それだ」
「なに?」
「負けたかったんだよ、あいつは」
一度も敗北したことのなかった少女。
勝ち続けて、負け方を見失って、負けが恐くなって、そんなのもう強さからくる勝利じゃない。ただ、負けてないだけだ。
そして敗北の恐怖は勝利する度に増大し、無敗の少女を苛ませる。未知である敗北というものが恐ろしい化け物のように膨らんでいったのだろう。どんな敵よりも恐ろしく、どんな強者よりもよっぽど脅威。
しかもその少女は、クソったれ男に要らん妄執まで植えられて――もう内面はグチャグチャだったのではないだろうか。
負けたくない性根のまま、最強に挑まねば苦しむだなんて、本当に馬鹿げた矛盾だ。
そりゃ矛盾打破のためにいっそ負けたくもなる。恐怖もあって心の一部しかそれを主張していなかったのだろうけど――それが雫との戦いで顔を出したのだ。
「誰かに自分を止めて欲しかったんだろうよ。間違った方向に進む自分の歩みを、自力で止まれない自分を、力ずくの無理にでも止めて欲しかった」
まあ、一種の覚悟ができたということなのだろう。
負ける覚悟、大嫌いな男の妄執に挑む覚悟、妹の想いに向き合う覚悟。いろんな覚悟を、雫と刃を交えてようやく決めることができたのだ。
「……そうか。じゃあ理緒姉ぇは、もうあの男の妄執から解放されたということなのか?」
「さあな。知らん。とりあえず勇気見せられて勇気が奮い立った、みたいな感じじゃねーの? どっちにしろ一条に負ければそれは消えるはずだろ」
それでも、それでも。
「私との戦いは、無駄ではなかったんだな」
それだけは、確実なのだ。
「ああ、それは……うん、よかった……よかった……ぁ」
「……はぁ、やれやれ。またかよ。泣くなら今度こそ髪に鼻水は垂らすなよ」
「泣いてなど……おらんわ、戯け」
「はいはい、そーですね」
ふたりは、もうあとはなにも会話せずゆっくりと歩いていった。
――上条 理緒は、人より過大評価される少女だった。
天才だと常に周りにもてはやされていた。無敗であることを神の如く賞賛された。
自分では別段、平凡な身だと思っていた彼女には、その号は重く苦しいだけのものだったけれど。
しかし、彼女は健気なまでに皆の期待に応えて、必死に必死で努力を積み重ねることで天才という存在に近付いていった。無敗を重ねていった。
分不相応なのは事実で、天才というには少女はか弱かったけれど、誰からも落胆されないように懸命にがんばった。
いつしか彼女は、なにより失望というものが恐くなっていた。
失望から逃れるために、努力に努力を重ね、しかしその努力はひた隠して天才であると他者を、そして自己を偽った。
とはいえ努力だけでは乗り越えられない壁というものは、確かに存在して――彼女は周囲の人間から逃げるように、いや完全に逃避して、雫とふたりでフリーの退魔師を始めた。
それでも、過大評価はいつまでも彼女について回った。
どこで聞きつけたのか、客は天才にはちょうど良く、凡才には理不尽なまでの依頼内容を迫った。彼女はどうにかその依頼をこなしても、次の依頼がやってくる。
また、外だけでなく、内側にも、彼女に天才を求める者がいた。
誰あろう加瀬 雫である。
雫は無邪気なまでに理緒を尊敬した。偽りなどとは露ほども疑わず、天才を心底から尊敬していた。妹分の尊敬の眼差しにも、彼女は無理にでも応えて見せた。失望されたくはなかったのだ。
いつまでも、いつまでも、彼女は天才を装い続けた。頑張って無敗を維持し続けた。
どこか一条と似通った生涯――けれど最大にして最悪の差異は、
彼女は、決して天才なんかではなかったということ。
結局――天才などと呼ばれた少女は、彼女の思った通り天才などではなかった。
ただ、周囲の大人たちや大切な妹の期待に応えようと必死に努力する、頑張り屋の少女でしかなかった。
自分で自分のことを天才と称して強がって、自分に言い聞かせて、自分にプレッシャーをかけて。
だから瓦解し、だから崩壊し、だから遂には――妹からさえも逃避した。
「たぶん、本当に才があったのは、私ではなく雫のほう。
だからこそ、それを心の底で理解していたからこそ、彼女の尊敬の念は余計に私を苛んだ。
嫉妬して、いずれ私を超えていくのを恐れて……認識に要らないものを混ぜたりなんかして。ああ、私は、本当に矮小で、汚い女だな……」
斬撃に倒れ伏す刹那、少女が浮かべたのは、妹への懺悔だった。
戦争と自然に呼称されたこの大規模な試合――だが、決着は一瞬だった。
そのあまりにあっさりとした結末に、一条は不可解を顔に浮かべていた。地に倒れ伏す理緒に、思わず問いを投げかけていた。
「お前、どういう……」
「ふ、ふふふ」
「どういうことだ、何故本気でやらない?」
「あは。ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
気が違ったように呵呵大笑。
理緒は青空に向けて、虚しい笑い声を響かせる。
笑って笑って笑って――どれだけかして不意に笑みがやみ、嫌に冷え切った声が問いに答える。
「違うわ、本気よ。今の私には、これが精一杯」
「他の戦場で力を使い尽くしてきたということか?」
「そうじゃないわ。これが私の十全、全力――限界というだけ」
「馬鹿な。以前のお前はもっと……」
「もっと、強かった? そうね、焼け付く妄執が無限に等しい熱量で私を苛み――故に魂はその魔を強大に膨れ上がっていた。仮初めの最強を保持していたわ」
――けれど。
「もう、その原動力は残っていない。先ほど全部、風に吹かれて消えちゃったわ」
「……そう、か」
加瀬 雫は、姉を救済できていたのか。
それは……よかった。一条は素直にそう思った。この可哀相な少女にも救いがあったのだと、我が事のように喜んでやれた。
だから、一条からもそんな理緒にひとつ贈ろう。この言葉を、この解放を。
「お前の負けだ、黒羽 理緒。そして、お前達の負けだ、“黒羽”機関」
「ええ、そうね。負けね、これが……負けか。ふふ、あはは、何故かしら、あれほど拒んだこの屈辱が……今はなんだか心地いい」
はじめて敗北した少女は、屈辱や悲哀などよりも、強く強く――開放感を覚えていた。
妄執の呪い、無敗の戦歴――今までずっと理緒を縛っていたそれらの枷は、もう全部取っ払われた。随分と久しく、理緒は己を取り戻したのだった。
一条は、小さく笑う。
「もう案ずるな、悪夢は断った――あとは安らかに眠れ、黒羽 理緒」
「……それは、随分と魅力的なお話ね」
悪夢に苛まされ続けた理緒に、安眠などという言葉は確かに悲願であり希求する安楽ではある。
けれど理緒は、それよりも深く、もっと沈んでいきたかった。
「一条、頼みたいことがあるのだけど」
「……なんだ」
「私を、殺して欲しい」
「なんだと?」
「ああ、戦争の決着は今ので着いたわよ? 私の負け、“黒羽”の負け。もうそれはいいから、そんなのはどうでもいいから――ただのひとりの個人として、あなたに頼んでいるの」
私を殺して欲しいと。
一条は、先までの微笑を失して不可解と不快を浮かべる。
「……意味が、わからない。敗北の失態を拭うつもりか? 侘びのつもりか? 馬鹿馬鹿しい」
「違うわよ。ただ、私はね、私は、妄執にとりつかれ、爛れ、くすんでいるの。風がそれを吹き飛ばしてくれても、負けてその妄執が根本から失われたからといって、魂は既に腐敗している」
自虐的に自罰的に、自嘲する。彼女はもとの清廉さが故に、今の己を赦せない。歪にゆがんだ己が、どうしても受け入れられない。
「挙句、妹を斬りつけるだなんて、そんな姉はこの世に存在しちゃいけないのよ。そんな自分が、私はどうしても赦せない。死んで謝りたい。殺されて購いたい」
「…………戯け」
瞬間、沸騰。一条は思い切り激怒する。
牙を剥くように怒りの言葉を叩きつける。
「ふざけるなよ、戯けが! なにが死んで謝りたいだ! それで謝罪に、購いになるとでも思っているのか!? いいか、俺が断言してやる――そんなものはただの逃げだ!
己が赦せないだと? 当然だ! お前はそれだけのことをした!
己の信念を歪めた、嫌いな男であろうが人を殺した、妹を斬った。ああ、幾らでも赦せぬことがあるな、全部お前のせいだ! 自業自得、因果応報、悪因悪果、お前の道だ! なのに、その赦せない全てを放り出して、殺せだと。無責任にもほどがある!! もっと赦しを請え、赦されるようなことをしろ! そして謝り続けろ! 謝罪は一度済ませてお仕舞いじゃない! お前が赦されるその日まで、ずっとずっと謝り続けろ!!」
「……」
「なにより! 妹はどうする。加瀬 雫は、お前が死んだらどう思う!」
言葉を失くし、倒れ伏したままの理緒に一条は歩み寄り、刀を向ける。
そして一瞬だけ瞑目――失った家族と血族の者を思い、当時の慟哭を思い出し――魂から叫ぶ。
「お前は呪いを受けていたそうだな。ではこれは、俺からの呪いだ――赦されないお前でも、死んで悲しむ者はいる。努々それを忘れるな」
「あぁ、もう……。うまくは、いかないものね……」
「敗北とはそういうことだ。甘んじて受け入れろ」
一条は厳しく言い放ち、刀を鞘に収める。戦意を解く。絶対に、これ以後この女に刃を向けてなどやるものかと強く決意して。
こうして条家十門と“黒羽”機関の長かった戦争は終結し――条家の勝利と終わった。
「――そう、死なれては困るよ。死ぬ前に果たす務めがあるよねぇ」
だからこれは、蛇足極まりない幕間の幕間。
祭りの終わりに這い寄る――深淵の茶々いれ。
「というかさ、なにが殺されて購いたいだよ。意味がわからないね。だって総帥、あなたも人だろ? 人ならどうせいずれ死ぬのに、死ぬなんて当たり前のことなのに……なんでそんな誰でもできるような簡単なことが贖罪になるのさ。安易な道に逃げ出す典型的なお頭の足りない阿呆の妄言だね」
「! 誰だ」
突如現れた気配と声に、一条は驚愕と警戒心を同時に一点に向ける。
瞬間、虚空が形を成した。
なにもなかったはずのそこに、佇むのはひとりの少年。
艶のない黒塗りの髪は男にしては長めで、なんだか不自然にくすんでいた。その髪色の割に肌は陶磁器のように白く、東洋人のそれではない。中学生ほどの、白人だ。
一条は、彼のことを知らない。だがそれでいい。彼がここに現れた理由は――
「ジャック……ジャック・ノヴァ……?」
「はいそうですよ総帥。今日はちょっと総帥に申し上げたいことがありましてねぇ」
半身を起こして驚愕する、“黒羽”総帥なのだから。
どこかざわつく笑みを浮かべ、ジャックは容易く接近してくる。そこに警戒や敬意はない。なんとも厭らしいほどに自然と間合いに入り込む。
理緒はボロボロの身を無理にでも繕って、どうにか言葉を返す。
「後にしてくれないかしら。私はもう少しこうしていたいの」
「後にだって? 冗談はよしてくださいよ。“黒羽”の総帥は、いついかなる時であっても挑戦者が現れれば、それに応えなければならないんですよ? 後にするだなんて、そんな規約違反はよくないでしょう」
「! あなた……まさかっ」
「黒羽 理緒――総帥の座をかけて、今ここで僕と勝負しようか」
「貴様!」
流石に一条も黙っていられない。なにを言っているのだ、この少年は。既に負け、力を使い果たした少女に向かって、今すぐ戦えだと?
猛る一条にも、ジャックは敵意を返したりはしない。ただただ不思議そうに首を傾げる。
「ん、ああ、条家との合戦だっけ。それはもう僕ら“黒羽”の負けで終わったじゃないか。だって、我らが旗本たる黒羽 理緒はそちらの旗本一条に負けたじゃないか。ほら、お仕舞いお仕舞い。なんか他にありますか、一条殿?」
「そうではない! 貴様に誇りはないのか、傷つき倒れ伏した少女に向かって――」
「誇り? なにそれ。そんなワケのわからない概念なんかは演壇上で話してなよ。僕は、裏方だよ? そんな意味のわかんないものを持ち出されてもなぁ。
それにさ、これは僕たちの話じゃないか。“黒羽”の内部事情だよ。なぁに近くにいるからって関係者みたいに割り込んでるのさ、部外者は黙ってなよ。それとも一条さん、“黒羽”に入りたいのかい? それは大歓迎だけど?」
「っ! 貴様、侮辱するか!」
「一条、やめて。それになにを言っても無意味よ」
「黒羽殿……しかし」
「いいの。私も、正直重荷はおろしたい」
言い、今度はジャックに言葉を向ける。
「ジャック・ノヴァ、私の負けよ。あなたに総帥の座を譲りましょう」
「あっはは、素早い判断、感謝しますよ」
笑うジャックに、元総帥は最後の一刺しを忘れない。
「でも、あなたこれからどうする気? 総帥の座を護っていられるつもり? “黒羽”最強でいられるのかしら」
「僕は最強じゃなくて無敵だよ、何故って僕は誰も敵視しちゃいないからさ。それに続けられるかって心配は無用だよ、今日から古い慣習は全部破棄するから」
「……そういうこと」
ジャックの言葉の意味を理解し、一刺しがひらりと避けられたことを実感する。
「僕が総帥になった以上、“黒羽”機関は今日をもって大きく変化する。強い奴がトップだなんて、そんな古い順位づけはやめやめ。もっと効率的にいこう。どんな位置に立つことになったとしても、僕は裏方さ。他のみんなにがんばってもらおう」
「じゃあ、新総帥、私からもひとつ、いいかしら」
「ん、なにかな」
「私“黒羽”抜けるから」
「やっぱりそうなる? まあ、仕方がないねえ。引きとめてもどうせ意味ないだろうし……あぁ、でも」
すっと手を伸ばし、理緒の細い手首を掴む。握り締める。
「この腕輪は頂いておかないとね。ああ勿論、媒介武具もだよ」
「っ! 何故あなたが……これのことを知っている!」
理緒のする奇妙なブレスレット――腕輪。五つの石の欠片のようなものが装飾されただけの、簡素な腕輪である。
媒介武具でもないそれが一体なんなのだろうか。一条は不可解そうに話を静観する。ジャックの言うように、彼はこの場において干渉する権利などないのだから、せめて状況を眺めておきたかった。
していると、ジャックは微笑みとともに裾をまくって右腕を見せつける――理緒のする腕輪と同じものが、そこにはあった。
理緒は酷く驚きうろたえる。
「それはっ! まさか、あなたもあの女に……」
「その通り。どうやらあの女、これをばら撒いてなにやら実験のようなことをしてるらしいよ。まあ今はどうでもいい話だけど。ただ、力ならもらっておけば便利かなって思ってね」
言いながら、身動きできない理緒から腕輪を奪い取り――四つの媒介武具もまた奪う。
「うーん、義眼を奪うのはちょっとあれだなー。まあ、それは退職金代わりに遺しておくとしよう。優しさに感謝してくれてもいいよ?」
にこやかに言うジャックに、理緒はなにも言えずにただ過ぎ去るのを待つことしかできない。怪我はもとより――この少年の深く理解不能の底が、酷く恐ろしかったのだ。
――深淵は化け物さえも呑み込んで、より深く暗く暗黒を広げていく。
前振りがっつり、結末あっさり。