第七十九話 決着
果たして――くず折れずに立ち続けるのはひとりだけ。
ここに勝敗は決し、当たり前に敗者は倒れ勝者だけが立つ。
立っているのはどちら? 雫か、理緒か。
いや、雫は既に脚が使い物にならない、立っていられるはずもない。ならば――
「……雫」
ならば残るは、決まっている。ただひとりだけ。黒羽 理緒、彼女の勝利で決着はついたのだった。
最後の交錯でも、やはり理緒が上回って雫の刀を弾き飛ばし――それで終わりだ。振り絞った力の全てを使いきり、雫は集中を切らして意識を失った。
とはいえこれは、言うなれば当然の帰結。特に予想外もなく、誰の意表を衝くこともなく、順当に雫は敗けたのだった。
「雫、あなたは……」
けれど、理緒の心に去来する感情は喜びではない。安堵でもなく、感慨すらない。
一筋、頬に伝うそれは、断じて喜びに類する感情から生じたものではありえない。ありえていいはずがないのだ。
「まだ、そんなことを……言っていたの? まだ、私を……助ける、だなんて……」
決死の戦いの最中。
あらゆるを捨て去る技法を用いてまで。
臓腑かき回し手足砕いた相手に。
心底の内では妹を恐れていた臆病な姉に。
そんな、助けるだなんて――なんて馬鹿な子。なんて、愛おしい。
「私は、一体……なにを。何故、こんな……」
何故、姉たる自分が妹を害すのだ。自分を助けようと必死で叫ぶ妹を、どうして切り捨てたのだ。
それが許される理由なんて、この世のどこにもありはしないというのに。そんな姉は、いてはいけないというのに。
今までの自分の行動が信じられない。呆れるほどに馬鹿げていて、思い出すに恥ずかしい。謝りたくなる。
理緒は憑き物が落ちたように、いや、落とすようにして涙をぽろぽろと零す。もう他になにをすればいいのか、理緒にはわからなかった。
彼女の深奥、本質に関わる懊悩は、別の声で一時中断される。
「やーれやれ、負けか。負け、負け……やっぱり、負けちまったかよ。だいぶいけそうだったが、やっぱ地力の差はでかいかぁ……あー畜生」
気配もなくいつの間に羽織が歩み寄っていた。放心気味の理緒には構わず、そのまま倒れ伏す雫の容態を観察し、ゆっくりと担ぐ。
重々しい一拍を置いて、羽織はもはや興味なさげに告げる。酷く気だるげ、温度なく。
「お前の勝ちだよ、黒羽 理緒。約束通り、一条の場所を教えてやる」
「え……」
あぁ。そういえば、そういう話だった。
理緒の呆けた様子に付き合わず、さっさと終わらせたいのか遊びなく羽織は指を指す。
「あっちのほうに歩いていけ。拓けた場所にあたりゃ一条がいるはずだ」
だいぶ雑で信用ならない言だが、羽織は珍しく表情を弛緩させていない。茶化すような雰囲気がない。というか、なんだか気落ちしている風にも見える。雫が負けたのが、悔しいのだろうか。
よくわからない。羽織に対する考察など、他人である理緒にはできない。そもそも意味がない。理緒は指差す方角に目を向けるようにして、羽織の表情から顔を逸らす。羽織の不明などよりもずっと明確なものがこの先に。彼女の積年望む最強が……。
少し前までなら、一も二もなくそちらに心の全てが持っていかれたのだろう。だが、今は少しだけ、まだこの場に懸念が残る。ぽつりと不安がもたげる。
「雫は、その……」
「死なせやしねえよ、なんのために浴衣様にまで残ってもらったと思ってやがる。あぁ、“魂魄賛歌”にも副作用とかはねえから、心配は要らん」
まるで弱弱しい声の調子に、羽織は事実だけ述べてやる。別に安心させてやろうとか、そういう意図はない。ただ、鬱陶しいのだ、こういう輩は。
だから、もうとっとと行けよ。隠さずにその感情を乗せて言葉を続ける。
「で、行かねえのか? 一条のとこに」
「……行くわよ。私には、もうそれしかないもの。でも、あなたはどうするの?」
私を打倒しなくてもいいの?
そんなズレた問いかけに、鼻で笑う。
「阿呆、おれは既にリタイアだって言ってんだろ。それに、このボケを九条様ンとこに連れてかねえとな。ここまでズタボロじゃあ、浴衣様でも完治は厳しいだろうしな。応急処置はしてもらうが」
じゃないと死ぬ。
そのひとことに、理緒はびくりと肩を震わせた。失言だったかと、羽織は面倒そうに頭を掻いてため息。面倒な輩をさらに面倒にするのは気が進まない。
だと、言うのに。
理緒はおずおずと会話をやめず繋ぐ。言の葉を連ねて、問いを編む。
「羽織、あなたは……雫の願いを、知っていたの? あの技法の根源となる、彼女の動機のことを」
「ん、ああ、てめえを助けるため、だろ? たく、そこで勝つためだの倒すためだのにしときゃ勝てたかもしれんのに、甘い奴だよ本当」
「……私は、」
「あ?」
「私は、じゃあ、そんな雫を……」
「ああ、そうだな、そんな健気な妹をバッサリ斬り捨てたな」
「!」
「手足砕いて達磨にして、中身まで掻き回して、精神的にも姉と戦うなんて負荷を与えて……」
そこまで言って、羽織は舌打ち。自嘲気味に頭を振る。
「ああ、いや、わり……今のは八つ当たりだな」
「いえ、正しいわよ。胸が痛むほどに、正しい。私は、姉失格ね……」
「この馬鹿がどう思ってるかはわかんねえがな」
「私が私を赦せない」
「あ、そう」
本当に面倒臭い。流石は雫の姉だ。
こっちだって少しは気落ちしてんのに、なんでこいつ一人で悲劇ぶってんだ。うぜえ。
もうこっちから無理にでも切り上げる。付き合ってられない。
「こっちはもう行くからな。一応、重傷者負ぶってんでな。お前はお前で早く行けよ、あんま時間かけてると八割切って負けちまうぞ」
「羽織、最後に、ひとつだけ」
「……絶対最後だぞ」
「私は、この黒羽 理緒は、あなたの見立ての上で一条に――あの最強に勝てるのかしら?」
「あ? んなもん決まってんじゃねぇか。十中八九、間違いなく――」
羽織は至極呆気なく、その結論を告げた。
暖かな熱が、自分を覆っている。
なんだか深い安心感のあるその感触は、決して柔らかいとか心地よいとか、そういうものはない。ただただ強靭で大きい。まどろみのような安らぎではなく、大事な武器を手に持っているような安心感。
ああ、それは……。
「……ん」
「おう、起きたかよ」
「はお、り……? ああ、羽織か……何故、貴様が――」
言葉の途中で脳が覚醒しだしたか、慌てて言葉が跳ね上がる。
「そうだ! どうなった、理緒姉ぇは? 決着は? 私は――っ」
「たく、ボケが。暴れんな、お前、だいぶ怪我ひどいんだぞ。すぐ浴衣様ンとこ連れてくから大人しくしてろ」
雫が大規模な攻撃にでた段階で、羽織は浴衣をだいぶ離れた位置にまで退避させていた。条やリクスもそっちに置いといて、自分だけは決着を見納めるために残っていたのだ。そのため雫が倒れてすぐに回収できたのであり、こうして担いで浴衣のもとへ向かっているのだ。
つまりが、
「負けだよ、負け。お前は、完膚なきまで負けちまったんだよ」
「!! ……あぁ、そうか、私は……負け、負け……負けたのか。くそ、また私は……私という奴はっ!」
羽織からは雫の表情は見えないが、それでも強い失意と自責の念を感じ取る。背に滴る熱くて冷たい感触に、羽織は何も言ってやれない。
自身の全霊、それ以上を振り絞っても、雫は理緒には勝てなかったのだ。彼女との約束を、果たせなかったのだ。それがどれだけ悔しくて、遣る瀬無くて、悲しいことか。
ああ、やはり加瀬 雫はよわっちい。止めると言っておいて少しの役にもたてず、ただただ大声で喚き散らしただけ。意味もなく、役にも立てず、煩わせただけ。なんて愚かな女だろう、駄目駄目雑魚雑魚、惰弱――不様。
「結局……私はなにもできない理緒姉ぇの枷でしか、ないんだな」
「んなこたねぇよ」
否定。それだけは、否定する。
「お前は上手くやったよ、おれよりずっとずっとマシな結果を残したよ。ああ、本当にずるい……ずるいってんだ、羨ましいなボケ。そんな戦果上々でなに落ち込んでんだ、あてつけかよコン畜生」
「え?」
「……なんでもねえ。お前もう黙れ、これ以上身体に負担かけんな」
「いや待て羽織、今なんと……」
「次、口開いたら気絶させて運ぶからな」
「……はぁ」
そんなに聞かれたくないなら、最初から言わなければいいのに。
いや、それほど強く抱いた感情で、だから封じることさえできなかったから漏れでたのだろうか。
やはり雫には、羽織の発言の真意はさっぱり不明であったが。手持ちの情報では、羽織はわけがわからない。なにか昔に、あったのだろうか。ではなにが。羽織がここまで悔恨する過去とは……一体?
思案は懸念に止む。不意と思い出す、自分の敗北の次を。雫が負け、理緒がこの場にいないという現状が示すことに思い至ったのだ。
「なあ、羽織。貴様の見立てではどうなんだ、理緒姉ぇは――その、一条様に勝てるのか?」
「……喋んなってのに。しかも姉妹揃って同じ問い投げやがってよ」
間を置いて、ため息。最近、雫のボケがなんだか言うことを聞かなくなってきた。どうしてくれようか生意気な。
まあ、気にするなと言っても無理なことか。この長かった戦争試合、その幕引き。リタイアした身でも今一番気になる用件と言ってもいい。
「どうなんだ?」
「だから、んなの決まってるっての。理緒は一条に――」