幕間(理緒)
――勝て。
黒羽 理緒の脳内に響く暗い声。
上条 理緒の魂魄に映し出される禍々しい文字。
ただ一言。ただ二音。
勝てと。
ただ勝てと。
ひたすらに勝てと。
勝てと、勝てと、勝てと。
勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て勝て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克て克てカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテカテ
――勝て!
ただそれだけが永遠に響き渡る。
ただそれだけが永劫に魂を支配する。
ただそれだけが延々と魂魄で喚き散す。
目を閉じても逃れられない。耳を塞いでも染み込んでくる。背を向けても振り切れない。
永遠、永劫、延々――理緒の魂を苛ます。
それは苦しくて、それは悔やしくて、それは狂いそうになる。
強固清廉な理緒の魂でさえ歪ませ、思考をくすませ、意志を汚す。それほどの感情の奔流であり、負の濁流。
――と、不意に言葉は途切れる。不愉快な合唱がやむ。
何故――思うよりも早く、次に黒い人影が現れる。顔は見えない、姿は歪んでいる、声は濁っている。
だが、わかる――それは黒羽 源五郎の幻影。
幻影は言う。熱のない声で、感情のない音で、ただ振動を響かせる。
――お前は天才だ。
「私は天才だ」
――お前は最強だ。
「私は最強だ」
――お前は一条に、勝つ。
「私は、一条に勝つ」
自然と理緒の口は復唱していた。
幼い頃から幾度も、幾百幾千、幾億も繰り返したその言葉を、口が勝手に自動的に動いていた。
それは呪いの言葉――理緒のやるべき事を指定するための言葉。
それは束縛の呪詛――理緒の在るべき姿を強制するための呪詛。
それは絶望の呪縛――理緒の運命を一本道に陥れるための呪縛。
わかっているのに、繰り返され続けているのに、それでも抗えない言霊。
いつものように復唱した理緒に、幻影は笑い――その手を伸ばして頭を撫でた。
死にたくなるほどの嫌悪感に、理緒は跳ね起きた。
悪夢に脳が沸騰しそうで、身体中を虫が這い回っているような怖気の走る不快感に叫びそうになる。
血のように激しく汗を流し、息も絶え絶え、なによりも頭に残る感触が嫌で嫌で堪らなかった。
うざったそうに身をくるむ毛布を突き飛ばし、少しでも開放感を得ようとするも無駄。魂の底から滲み出る拘束感は僅かも解けない、囚われた閉塞感は微かも晴れない。
胸元に手をあてて、せめて乱れる呼気を整えようと精神を落ち着かせる。
「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ」
目を閉じる。
すると全ての感覚と自らの意志を切り離せる気がした。
まとわりつく嫌な汗の感触も、胃が誰かに握りつぶされたような吐き気も、脳内で荒れ狂う感情も。
全て、他人事のように思える気がした。
そして暗闇の中で自己を律する――落ち着けと呪文のように胸中で呟いた。大丈夫だと暗示のように胸中で囁いた。
それは雫にも教えたおまじない。己を己たらしめるための、おまじない。
「ふぅー」
最後に大きく息を吐き出して、理緒は目を開く。
開いた先もまた暗闇で、ああ寝室であると今更になって認識した。落ち着けて、ようやく自分がベッドの上で悪夢から覚めたのだと理解した。
同時に、また同じことを繰り返したのかとため息を吐き出してしまう。
それは夜毎繰り返す悪夢。理緒を壊そうと毎夜襲う悪夢。
精神を貶め、心をひしゃかせ、魂を狂わす。
そんな呪い。
毎日毎日、三百六十五日、何年間も――本当に間断なく、理緒の精神を染め上げようと呪い続ける。
さしもの強靭な魂を持つ理緒とはいえ、ここまで長期的な責め苦を受け続けて正常を保っていられるわけもない。
どれほどの激甚な苦痛よりも、あるていど軽度でも終わりの見えない痛みのほうが――耐え切るのは至難なのだ。
もうどれほど耐えてきたか、もうどれほど忍んできたか、もうどれほど我慢してきたか。
それでも終わらない。終わらない。終わらない。いつまでも――終わらない。
しかし理緒は、その終わらせ方を知っていた。否、はじめから隠れることなく目の前にあり続けた。
優れた拷問とは、苦痛とともに終わらせ方を被拷問者に伝えるものだ。挫けたほうがマシであると誘惑するために、取りやめる条件を決めておくものである。
そうすると選択肢が生まれる。
信念を折り曲げて、苦痛を終わらせるのか。
信念を押し通して、延々と苦痛の内に沈むか。
とはいえ、こんなものは選択肢と言うには全く理不尽だ。後者を選んでも、また同じ選択肢が繰り返されるだけなのだから。前者を選ばない限り、その選択は無限に続くだけなのだから。
どんなに精神が強くたって、所詮は人。いつまでも否を続けてはいられない。無限という概念と、本気で見詰め合える有限者など存在するはずがないのだ。
ほんの少し手を汚すだけで、このくびきから解き放たれるのなら――
たったひとつの行動で、あの穏やかな日を取り戻せるのなら――
そうして理緒はほんの少しだけ、仄かに、ささやかに――狂ってしまった。
「もうすぐだから、もう明日だから――」
それでも狂人は常人のように囁いた。誰にともなく、ただ誓いのように。
ぎゅっと白い拳を握り締めて、ささやかな狂人は胸にしまってある決意を確かめるように目を閉じた。
まぶたの裏に映るのは――
「待っていてね……雫」
夜は、なお色濃く闇色を落としこんで輝きを覆う。
朝日はまだか――理緒はその時だけを遠く待ち焦がれていた。




