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第五十五話 試合







 

 音も無く、気配を極限まで殺して――一条の屋敷に忍び込む、ひとりの影があった。

 誰にも気づかれぬよう、誰にも気取られぬよう、あるいは痕跡すら残さぬよう。

 恐る恐る、慎重かつ大胆に、ゆっくり少しずつ、でも確かに歩を進める。一歩ごとに神経をすり減らし、一歩ごとに精神を磨耗させつつ最奥の一室を目指す。

 その日の一条家は平常時よりも一層厳重に警戒を敷かれており、侵入者は随分と苦労を重ねて進んでいた。

 何故、厳重なのか――今日は件の事件における終幕の日。そう、“黒羽”の総帥が――条家十門に謝罪に訪れる日なのである。

 条家十門と“黒羽”機関という退魔師四大機関とさえ呼ばれる最高位の組織のトップ会談。世の魔益師たちの注目を集める、なんとも甚大な事件である。

 それを見届けるために、侵入者は家宅侵入に及んでいるわけだ。

 まあ誰もの注目の的たる会談の内容よりも、侵入者的には別のところに思惑があるのだが。

 彼としては、嫌な予感があって、この場においてなにがしか事件が起こる危惧をしていたのだ。

 とはいえ予感が的中しようと介入して止めようとは思わない。それはでしゃばり過ぎだ。単純に観測しておきたかった、黒羽総帥の読めない思考を、見定めたかった。というか変に介入なんぞすれば、暗殺未遂とか濡れ衣着せられ条家が貶められる可能性が高い。理緒なら、それくらいのことは言い通すだろう。

 というわけで。

 抜き足差し足忍び足、侵入者は――ぶっちゃけ誰もの予想通りに羽織は――一条の屋敷を誰にも気づかれずに歩んでいた。


「げへへ、条家十門の警備も甘ェなァ」


 物凄く悪役の顔をしつつ、顎元の汗をぬぐう仕草なんかしちゃって、なんとも楽しそうな羽織である。

 最近、羽織は一条家に侵入しても問題とはならない。これは家主が屋敷内の者にその旨を伝えており、自由に出入りする権利を半ば無理やりに得ているがためだ。

 それはそれで面倒なく楽でよいのだが、若干つまらないと羽織は感じていた。

 覗き見、盗み聞きのスリルが失われて、つまらないのだ。

 ――趣味は必死の命乞いを踏みにじること。特技は覗き見と盗み聞き、である。

 特技を存分に楽しむためには、侵入が許される場所へ出向いても意味がない。そういう意味では、この厳重な警戒は楽しかった。

 流石に今日のように重要な日では、羽織でも立ち入りを許されるわけがない。であるからして、不法侵入なのだ。

 不法侵入、その単語も中々わくわくする。足取りも軽くなるというものだ。いや、侵入中に足取り軽くしてはいけないだろうから、それも堪えているのだが。

 そんなこんな。そうしてこうして。

 遠回りに遠回りを重ねて、羽織はたどり着く。通常なら五分そこそこで着くはずの部屋まで、優に三十分はかかってしまったけれど――ようやく行き着いた。

 一条家の屋敷に複数存在する客間、その中でも最上の部類にあたる屋敷でもっとも奥に位置する一室に。


「さて」


 ぼすっ、と渇いた音を鳴らして指で障子に穴を開ける。

 そしてその穴に顔を近づけ、室内を覗き見る。なんとも古典的な盗み見の方法である。

 中を覗けば、そこにはどこの部屋とも大して変わらない古式ゆかしい和室が広がっていて、まあなんとなく、頑張って比較すれば高級感を感じないこともない。そういう審美眼は羽織にはなかった。

 かこん、とでも鹿威しが響けば酷く似合っていただろうが、生憎とここは最奥の一室であり、外界とは離れていたのでそれはありえなかった。

 ともあれ室内には目当ての人物たち――既に、一条と理緒の姿があった。

 











「今回の件につきましては、こちらに全面的な非があります。我が“黒羽”は肥大化を重ね、構成員が個人によって把握できないほどにまで数を増やしてしまっていますので、その思惑まで見抜くに至りませんでした。あの男の危険性にいち早く気が付いていればと、今になって悔いるばかりです。

 まだ総帥に着任してから間もない、というのは言い訳にもなりますまい。このような不祥事の責は私にあります、伏して謝罪を――申し訳ありませんでした」

「顔を上げられよ、黒羽殿。なにも全面的に非があるとは、こちらも思ってはいない」


 会談がはじまって早々――理緒の付き人や一条に付いていた十条が退室してすぐに――理緒は口上を述べ立てながら深く頭を下げた。

 その主目的、というか今回、黒羽 理緒が一条の屋敷に訪れた理由なのだから、当たり前だが。

 一条の予測よりもずっと潔く、礼の整った謝罪であって些か面食らう。

 もう少し――もう少し傲慢にくると構えていたのだが。というと言葉は悪いか。ともかく思った以上に礼儀正しくて対応想定に誤差が生じる。

 一条の“黒羽”のイメージは支部長の蘇芳という男だったのだが、総帥ともなればやはり儀礼を重んじるものなのか?

 ある種、当然とはいえ、何度か繰り返したイメージトレーニングが全て無駄になってしまった。

 しかしこの流れに――想定外の流れに進んでも、一条には特に問題とならなかった。

 何故なら饒舌に、しかし腰を低くして恭しく語る理緒を相手に、一条はおよそ口を開く機会に恵まれなかったのだから。

 それほど理緒の舌は滑らかで、よく回る。

 まあ、謝罪とは、受け取る側にすることなど端からほとんど存在しないので、このように黙して聞き手を務めるという状況は当初の目的からズレたというほどでもなかろう。

 ズレた、というならば。

 理緒の放った、その一言からだろう。


「……今、なんと?」


 一条は、思わず聞き返してしまう。

 長らく謝辞ばかりを受け取って、頷くくらいしかしていなかった一条から、会談がはじまってほとんどはじめて能動的な発言だった。

 理緒はなんのこともなく、その美貌から浮かべるとろけるような笑みで繰り返した。波紋を、広げていく。


「だから、試合をしましょう。我ら“黒羽”と、あなたたち条家の者による、親善試合よ」


 どういう会話の繋がりで、このような帰結に至ったのか。

 一条は一瞬、思い出せなかった。

 見抜いたというわけでもなかろうが、理緒はそれをまた口にする。


「どうやら“黒羽”と条家はあまり仲がよくないと思われがちらしいわ。でも、こちらとしては退魔師機関として最古最上位たる条家に目の敵にされてはたまったものではないのよ。今回の件でさらに溝は深まってしまったし、どうにか仲直り――ならぬ、縁結びと言えばいいかしら? 互いを知り、親愛を深めたいのよ。そのためのレクリエーション、そのための――」

「親善試合、か」

「その通りよ、仲良くしましょう」


 にっこりと華々しくも、なおかつどこか蠱惑的に微笑む。

 困惑する一条に、理緒は言い募る。言葉を重ね、誠意を重ねる。


「退魔師集団なんて、結局は武芸くらいしか誇るべきものはないわけでしょう? ならばそれをコミュニケーションの手段として用いるのも、またありでしょう?

 勿論、あまり本気でやっては親善でもなくなってしまうのだから、若輩同士という枠組みにするわ」

「ふむ」


 一条はわざと指を顎にあて、考えるポーズをとる。

 なにも悪い提案ではない。話を聞くうちにそう思った。

 条家内でも“黒羽”に悪印象を抱く者も少なくない。というか、一条もちょっと苦手意識がある。

 それが今回の事件でさらに悪化して、表面化して、傾向としてはよろしくない。

 退魔師機関――それも四大機関とまで評される機関同士がいがみ合っていては、人類という巨視からすれば危険極まりない。理性的に考えれば、究極的に俯瞰すれば、退魔師の敵は魔害物だけのはずであり、身内同士争うなど無駄過ぎる。

 無益、である。

 仲良くできるなら、仲良くすべきなのだ。

 手を繋ぐことができるのなら、手を繋ぐべきなのだ。

 少なくとも、理性で判断するのなら。人類という視点で臨むなら。

 個人の考えは、ともかく。

 だから一条は組織の長として――退魔師機関の長として、答える。


「よかろう」


 まあ、個人的にも面白そうだと思ったし、三条の気が晴れ、九条の負い目が少しでも解消されれば儲けもの。

 その程度の判断だった。

 だが、次の言葉は流石に予想外だった。

 驚くほど、予想外だった。


「では――あなたもでてくれないかしら?」

「何?」

「一条殿、あなたも若輩と言っていい年齢よね、だから、あなたも試合にでてくれないかしら――相手は無論に若輩な私よ」

「それは……」


 一条も戦闘者。戦闘による高揚、喜悦を覚えないでもない。強い者との手合わせに魂が震えないわけでもない。

 ゆえに一瞬、心躍る提案ではあったが。


「できない。上に立つ者として、そう軽々に動くわけにはいかない」


 やはり一条は――個人としてよりも、条家十門盟主一条として、答えた。

 それはできないと、否であると、できるわけのない話だと。

 というか、条家の盟主と“黒羽”の総帥が刃を交えるなど、そんなのは親善となるわけがない。最強を決め付ける、一大決戦に発展したほうがまだ自然だ。

 そのようなことがわからないわけでもあるまいに、それでも理緒は眉を曇らせ、不満げに口を尖らせる。


「あら、どうしてもかしら?」

「提案は面白かったのだがな」

「本当に、どうしても?」

「……ああ」


 頑として否。どう言おうとも巌のように不動を貫くのだろう。

 理緒はそれを感じ取り、重々しいため息を吐き出した。

 だがそれは、諦めのため息というよりは、オモチャを買ってもらえなかった子供のそれのようで。


「そう。じゃあ仕様がないわ――」

「っ!?」

「――ね!」


 ずだん、と重い震脚が畳を砕く。

 その震脚の運動量総てを刃に乗せた、ひたすら直線的な刃が閃いた。

 いきなりの不意打ち。驚き瞠目する一条だったが、その身は稼動していた。考えるより先に、即応していた。

 一条は傍に置いておいた宝刀に手を伸ばし魂を宿す、媒介武具へと昇華――この間、コンマ数秒。

 同時に腕は動いており、身体は捻っており、襲う斬撃に向けて手のうちの刀を向けていた。抜刀していた。

 撃音。

 その悲鳴のような衝突音は一条の宝刀が、確かに理緒の即時具象化した剣の一撃を防いだ証明。

 全動作をなし終えても一秒さえ経過させずに、一条が理緒の斬人を受け止めきった証左。

 その事実を視認し理解すると、理緒の顔に亀裂が走る。それが笑みだと、一条には気付けなかった。


「流石」

「……なんのつもりだ、黒羽殿」


 いつでも能力を発動できる状態を維持し、一条は鋭刃のような眼光で理緒を見貫く。

 戸惑いや、怒り、その他諸々の感情を全て押し殺し――ひたすらに平静に、冷静に、一条は問いを発する。


「この攻撃は、一体なんのつもりだと訊いている」


 くすり。

 一条の強烈無類の威圧を間近で――鍔競り合った状態で受けて。

 なお、理緒は笑った。

 どこまでも魅惑的で魅力的、誰もが魅了されかねない、極上の笑みを浮かべていた。


「いえね、私との対決を拒まれてしまった腹いせに、抗争でも引き起こそうかと思ってね」

「なっ……にを」


 言っている。

 不動を貫いていた一条の表情が、不可解に歪む。それが可笑しいのか、理緒はまたくすりと笑う。

 妖艶で、どこまでも魅力的な笑みは――だが不吉を孕むカラスの囀りにも似ていた。

 一条は余計に困惑を強める。そのような笑顔でもって、その程度のことを理由に、抗争を引き起こすだと?

 そんな――条家と“黒羽”の抗争なんて、それがどれほど世界に多大な影響を、否、被害をもたらすか、まさか理解していないはずもなかろうに。

 こんな気まぐれのように、気ままのような横暴で下す決断ではない。

 一条は不可解に襲われ、理緒の放つ怪しげな雰囲気に呑まれてしまう。いくら強靭なる魂を保持していようと、理解不能というものは恐怖を誘う。意味のわからない行動言動には、困惑を感じて対処に迷う。

 このような不吉な存在、一条は生まれて初めて相対した。

 なんだこの不吉は――まるで、カラスのような、不吉だ。

 数秒前とは、数分前とは、拒絶の前とは――確実に変貌している。

 変貌し、露出している。

 己を。

 己の欲求を。

 黒羽 理緒という本質を。

 あからさまに一条へと伝えていた。

 寸刻前なぞ、ちゃちなお芝居だとでもいうように。黒羽 理緒は、そのカラスのような不吉な笑みを露にしていた。


「私たち“黒羽”は、既に条家十門を超越しているはずよ。最強の退魔師集団のはずよ。なのに歴史だ、伝統だなんだのって古臭いことを馬鹿みたいに吠えちゃって」


 心底呆れかえる。言葉ではなくそう告げて、理緒は息を呑み口を使えないでいる一条へと顔を近づける。

 鍔競り合いながら、もう鼻と鼻が触れ合いそうなほど近づいて、理緒は熱い息を吐き出す。


「だから、わからせてあげるのよ、最強はいずこに存在するのかを。最強者が、どこの誰なのかを!」

「――そんなくだらないことのために、世界に混乱をきたすつもりかッ」


 転瞬。

 一条は近すぎる顔をさらに近づけて――がつん! と額に額をぶつけた、吼えた。

 ようやく動き出した口からは、常時からは考えられないほど激しい怒気を放っていた。不吉さえも吹き飛ばほど、カラスの嘶きをもかき消すほどの、怒り。

 許せなかった。

 組織の統括でありながら、自分の欲望に従って勝手を振舞うその姿が。

 大勢を巻き込むことを理解しながら、それを苦にもしないその態度が。

 長き歴史を積み上げてきた条家十門の誇りをあざ笑う、そのカラスが。

 一条という男の生き様として、一条という立場として、一条というひとりの人間として――ただ許せなかった。

 怒る一条に、だが理緒は気圧されも感化もされず、艶笑を浮かべ続ける。絶え間なく艶で笑む。


「あら、怒りっぽい。でも、もう開幕の鐘は鳴り響いているのよ? 我ら“黒羽”は今日この日のために戦力を集結し、私の合図があれば即座に条家に襲い掛かる」

「奇襲を……仕掛けるつもりか。それではたとえ万が一勝利を収めたとて、他の機関からの謗りは免れまい――果て無き汚名を背負うことになるのだぞ」

「馬鹿ね、歴史は勝者がつくるものって、知らないの?」


「ひとりも残さないわよ、誰一人生き残りは許さないわ――全て遍く余さず皆殺し尽くす」


 一条も、二条も、三条も、四条も、五条も、六条も、七条も、八条も、九条も、十条も、それ以外も。

 傍系直系区別なく、退魔師治癒師関係なく、それが使用人であれたまたま訪れていた客人であれ遠慮なく。

 ――みぃんな、殺す。


「であれば、誰が私たちの奇襲を証明するのかしら? 条家十門が“黒羽”にいきなり刃を向けてきたと私が証言して、誰が否定するのかしら?」

「貴様……ッ」

「まあ、わだかまりは残るでしょうけれど――疑う輩はキリもなく際限もなく沸いてくるでしょうけれど。でも、その時に“黒羽”の権勢に逆らえる者なぞいなくなっている――何故って、条家十門を下した真の最強者なのだから」

「ッ――!」


 連ねられた言葉に、流水のように次々と語られる恐ろしい悪意に、一条はほとんど沸騰しそうだった。

 感情を逆なでする言葉に自制心を削られ、侮辱と嘲笑に満ちた笑声に理性を奪われ――破れかぶれで理緒を、黒羽総帥を討ち殺してしまいそうだった。

 それでも耐えるのは、やはり一条の立場ゆえであり、相手の立ち位置ゆえだ。

 ここで一条が攻撃してしまえば、本当に抗争が引き起こされる。真実の意味で、条家が刃を向けたことになる。

 必死で歯噛み言葉を噛み殺す一条を、理緒は包み込むように顔を綻ばせる。優しく優しく、毒を注ぐ。


「大丈夫よ、心配しないで、人の世は――あなたたちが絶えても私たちが守るから」

「貴様ッ、ふざけたことを――!」


 ――フスマが吹き飛んだ。


 唐突に物凄い音がして一条の激昂は遮られ、羽織の潜んでいる方とは逆側のフスマが吹き飛んだ。

 否、フスマを押し退け吹き飛ばし、客間に高速で飛来する物体があったのだ。

 一条も理緒も咄嗟に後ろに跳んで離れ、その高速の飛来物を避ける。

 一条は、避けたことを後悔した。


「! 十条!」

「ぃ……じょ……さ……」


 飛来物は、飛来し、今や畳に死体のように転がるのは――十条家当主、その人だった。ボロボロ傷だらけで、死に体の、十条だった。

 一条は即座に理緒のことなど忘却し、十条に駆け寄る。声を張り上げる。


「十条、十条!」

「――」


 返事がない。まさか――

 最悪がよぎり、一条はより一層強く名を呼ぶ、叫ぶ。


「十条! 十条十条! 十条 道重(みちしげ)――シゲじいッ!」


 シゲじい。

 それは、一条が幼き頃に呼称していた、十条へのあだ名。

 本当の孫のように育ててくれた十条への、親愛の証。

 それを耳にし、充分に親しかったことを理解しておきながら――理緒は、どこまでも冷めたままに言う。


「あら気の早い。誰かが勝手にはじめちゃったのかしらね」

「き――ッ!」


 なにかが、音を立てて切れた。

 一条にとって、最も親しい人物を死に体にまで痛めつけ、なおかつ嘲笑われて――“一条家当主”を続けていられるほどに、一条はまだ成熟も枯渇もしていなかった。

 感情のタガは、あっさり振り切れた。

 

「さまァァァァァァァァァアアア!!」


 怒りに任せて一条は能力を発揮し――

 理緒は、防ぐも避けるもなく――もろ手を挙げて、無抵抗に斬撃をその身で受け止めた。

 斬、と袈裟懸けに理緒の身体に斬痕が刻まれた――斬撃が、結果した。


「?」


 無抵抗?

 何故、無抵抗だというか?

 一条は連続に斬撃を放てるというのに、再びの理解不能に手を止めてしまった。

 だから、どうにか理緒は死を免れた、生き延びた。とはいえたった一撃でさえ斬痕は深く、毒々しく輝く血を噴出し流している。

 だというに。


「ふ――ふふふ、ふく、はははっ」


 あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!

 と、理緒は気でも触れたかのように笑い声を上げる。大きな口を開けて、呵呵大笑を響かせる。

 その風情はまさに凄絶――凄惨。

 一歩間違えれば上半身が斜めに滑り落ちてしまいそうなほど斬撃は深刻だというに、理緒は楽しげに大笑いをあげていた。こみ上げる歓喜の衝動を笑い声に変えてぶちまけ続ける。

 笑って笑って、一分ほどでどうにか息を整えて、それから理緒は芝居がかったように声を行き渡らせる。


「見たわね、聞いたわね――“ハロルド”」

「ええ、確かにこの目で、この耳で」


 と、どこからともなく返事が聞こえる。

 どこから――それは一条のすぐ傍。血にまみれ、倒れ伏し、息も絶え絶え死に体だった十条の口から。

 その血にまみれ、倒れ伏し、息も絶え絶え死に体だった十条が――ひょいと、なんとも支障なく起き上がった。


「え?」


 虚飾虚栄もなく、素で驚いてしまった。間抜けな声を漏らし、間抜け面を晒してしまった。

 一条のパニックは、本日最高潮にまで跳ね上がる。

 驚きに絶句の上、さらには硬直する一条に向けて十条――の姿をした男が、肩を竦める。


「あまり驚かないでください。こういうことですよ、一条殿」


 つつ、と男は“自分の首もとのなにもないはずの空間を掴み、なにかを引き抜く仕草をした”。するとその指先は――“ただ見えなかっただけの”鍼が握られており、その鍼は首から引き抜かれたらしい。

 すると一瞬。

 本当に一瞬で――十条だった姿は歪み、そして全くの別人へと変じていた。


「わたしの名はハロルド、ハロルド・ティターン。その魂魄能力は――“魂魄の変装”」

「!」

「この鍼の具象武具を刺した対象を、一度でも視認したことのある人物へと変装させる――有り体にいって、魂魄を他者のものに装う能力ですよ。魂を偽装すると、肉体のほうもつられてその姿を模倣する――面白い能力でしょう?」


 唖然。

 奇怪な能力に、脳の処理がついていかない。

 だが、驚異の自制心でもって一条は平静を取り戻すために必死に熱を吐き出そうと呼吸を繰り返す。

 頭を稼動させ、現状を整理し、どう言葉をかたどるか思考する。

 結果――最初に口から放ったのは、悔やみの一言だった。


「奇襲は、偽りか」

「奇襲? なんの話をしているのかしら?」


 偽りを伝え平静を奪い、不可解によって思考をかき乱し、親しいものの深手を演出することで――一条を逆上させ先に手をださせた。

 一条を加害者にして、自分を被害者に仕立て上げたのだ。

 いつのまに理緒の手からは具象化していたはずの剣すら姿を消し、両手まで挙げて――完全に無防備無抵抗の状態で、理緒は薄笑いを浮かべていた。

 その様を見取り、一条はギリと奥歯を砕かん勢いで噛み締める。


「……カラスに、化かされたか」


 思考は結論した。

 これは――黒羽 理緒の謀だ。

 目的は、今のやりとりでわかっている。だから、後は逆算していくだけで結論はでる。

 目的とは条家に対する勝利――最強の称号。

 そのための方法は明快、抗争を引き起こせばいい。己が優位、上位であることを信じているなら、戦う場さえ整えばいいと思うはずだ。

 だが、それをどのような形にして企画するかが重要で、おそらくは最も苦労し熟考した部分だろう。

 誘拐事件の結末でこうして一条とサシで対面できる機会ができたのは、理緒にとって幸運だった。

 まあ代わりに、策は一から練り直さなければならなくなったが。まさか一条と会談できるなどとは想定もしていなかったので、その際の思考実験は一度も試みてはいなかったのだ。

 猶予も一週間だけで、理緒としてはやや突貫作業で継ぎ接ぎの多い筋書きとなってしまったが――上手く事は運ばれた。

 一条は、まんまと騙された。

 さらに計略は畳み掛けるように土台を固める。


「ああ、そうそう。そこのハロルドはね、私の付き人でもあるのだけど――ソウルケージのスパイでもあるのよ」

「スパイだと?」


 ソウルケージ――条家や“黒羽”に並ぶ四大機関の一。そのスパイ、だと。

 それを知りつつ登用している?

 違う。これは。


「二重スパイ、という奴か」

「察しのいい、鋭いのは眼光だけではないようね。でもね、ソウルケージはそこまで鋭くはないのよ。まだハロルドの二重スパイは気づかれていない――その報告は、ソウルケージに真実として伝わる」


 クク、と不気味に笑ってハロルドは理緒の言動を補足する。


「ちなみに、今日はソウルケージへの定期報告の日でしてな。実り有る報告ができそうですよ」


 すなわち――


「ソウルケージに届く報告は――これより世間に流布する今日この日の出来事は――そう、『条家盟主一条が、無抵抗の黒羽総帥を叩き斬って瀕死にまで追いやった』となるのよ」


 ああ、そうだろう。わかっていたとも。そのように脚色され、真実を嘘で着飾るであろうと。

 わかっていても、一条にはハロルドの報告を遮ることはできない。

 そして当事者たち――条家十門と“黒羽”機関――からの発言であれば自己言及であり、信憑性がイマイチであったそれが――第三者により語られ強固な事実として世間に認識される。

“黒羽”が正当な理由で、正義に則り、正規の手続きで条家十門を叩けるのだ。


 抗争を、報復行為という大義名分のもと引き起こせるのだ。


 不幸なことに条家と“黒羽”の不仲は周知の事実で、このような事件もあまり不自然なく受け入れられてしまう公算が高い。

 些か驚かれるだろうが、そんなはずはないと口にする者はいようが、それでも最終的に納得できないほど理に反した筋書きではないのだ。

 それでなくても、この出来事を事実として広めたい“黒羽”は情報操作をしてくるだろうから、もう手遅れと言ってよかった。

 情報戦においては、その巨大さから条家よりも“黒羽”が随分と先んじているのだから。

 さて、と理緒は笑みを消して――毅然とした面持ちを表出する。総帥の立場に立つ人間として、声を鋭化硬化する。


「そう――条家はそういう意志をもって我が“黒羽”に対するのね。であるならば、いいでしょう、戦いましょうか。

 悪意には悪意をもって、敵意には敵意をもって、殺意には殺意をもって――返礼しましょう」

「ち」


 今までの全てをなかったかのように、ここで自軍の正当性を訴えだす。

 空々しいが、もはや理緒はその口上をなにがあっても覆すまい。事実を譲らず、絶対の真実のように振舞うのだろう。

 一条は再び沸き立ち湯立つ頭を統御し、自己を制御しようと努める。

 どうにかしなければ。このような状況、どうにかしなければ。

 もう抗争は回避できまい。そこは自分の失態だ。認めよう、己はまだまだ未熟だった。

 だが覆せぬ現実が迫ってきた時、考えるべきは後悔ではなく次どうすべきかである。

 だから――失態を少しでもすすぐためにも、どうにか世界への被害を最小に収める方法を編み出さねば。

 黒羽 理緒はその辺り、酷くどうでもよく考えているのだろうから。こちらがなにがしか提案しなければ、このまま全力の単なる武力衝突――どちらかが屍になるまで争い続ける最悪の戦争に至ってしまう。それは避けるべきだ。

 どうにか、なにかないか。様々なことを考えた、記憶を掘り返した、想像力をできる限り羽ばたかせた。

 静かに、言う。


「まあ――待て」

「なにかしら?」


 余裕綽々といった風情で、理緒は受け答えた。既に状況は完璧なのだから、一条がなにを言おうと足掻きに過ぎぬと知っているように。

 それでも一条は思案を続けながら、急遽言葉を作る。


「お前たちが欲しいのは、最強の称号なのだろう? ならば、なにも戦争などしなくてもいい」

「なんですって?」

「話を戻すようだが――試合をしよう。ルールを設定し、命を殺さず、敵手の討伐を忘れずに――戦争などではない、試合でもって雌雄を決するのでは、どうか」


 無駄に全戦力を投入して被害を増さないように。抗争のみに集中して魔害物の討伐を捨て置くことのないように。

 抗争などという野蛮なそれではなく――正式な試合としよう。

 一条のその提案に、一瞬だけ理緒は呆気にとられたように目を広げ、すぐに吟味しだす。


「……確かに。確かに、全戦力でもって“黒羽”と条家が争えば、世界には甚大な被害を与えることになるわね。魔害物を野放しにするのも、戦力を無駄に消耗するのもこちらとしても本意ではないわ。勿論、そちらも嫌のようね――だからこそ、試合という形式をとるというわけか」

「私人としてではなく、組織を率いるものとしての判断を願いたい」


 先ほどの血迷った発言までも嘘であるならば、ここに乗らない手はないはず。

 一条の目論見は、成功した。


「いいでしょう。わかりました。その提案、“黒羽”の総帥として呑みましょう」

「ありがたい」

「――ただし」


 一条の礼を無視して、理緒はただしと条件を告げる。


「ただし、試合のルールについてはこちらで決めさせてもらうわ。今回、非があるのはそちらのはず。これくらいは了承してもらいたいわ」

「……いいだろう」


 これには、一条は頷く他なかった。








 あれから抗争――否、試合についてのルールやなにやらを決めるために言葉を交わし合い、一時間ほど後に理緒は去った。

 血を流し、苦痛もあろうに。よくも一時間もその場で話すことができたものだ。一条はその胆力だけは感嘆に値すると思った。

 去ったその背を眺めてから、一条はしばし逡巡する素振りを見せてから――短く声を発する。


「十条」

「はッ、ここに」


 気配無く、十条は敬意を払うように頭を垂れながら現れた。

 一瞬、その息災を安堵してから、厳しく命を飛ばす。


「すぐに総会を開く。通達と準備をしろ――此度の総会は強制招集だ、欠席は許さんと伝えておけ」

「御意」


 しゅん、とその身が消え去るように十条は急ぎその場を後にした。

 それから一条はどこへともなく大声を放る。


「――羽織も、九条のもとに戻ったほうがいいんじゃない?」

「わかってら」


 どたどた、と侵入時の繊細さはどこへやらとばかりに足音を高らかにし、羽織の気配は遠のいていった。

 これで、一条はひとりきりとなる。

 一条は瞑目し、念のためもう一度周囲の気配を探り――誰も近辺にはいないと確信をもってから肩の力を抜く。

 完全にひとりきりとなったことで、全力でため息を吐き出した。


「ふう」


 すぐに後悔の大波が押し寄せてくる。罪悪感が、身を押しつぶさんばかりの勢いで一条を責め立てる。

 顔を隠すように手のひらで覆う。


「はぁー……まずったなぁ、物凄っくまずったよなぁ」


 理緒の謀。

 父なら、祖父なら――他の歴代当主たちなら、きっと上手いことやり過ごしたに違いないだろうに。

 なのに自分は、あんな単純な手に引っかかるだなんて……。


「落ち込むなぁ、へこむなぁ、自信失くすなぁ」


 ともあれ試合は決定してしまった。戦は、もう確定してしまった。

 落ち込んでいる暇などない。

 壮大な戦争の予感を感じて、一条は立ち上がり、総会の間へと足を向けた。












 入れ変わり立ち変わる不定形――ハロルド・ティターン



 魂魄能力:“魂魄の変装”

 具象武具:鍼

 役割認識:間者

 能力内容:魂魄を他者のものに装う能力。これにより外見や仕草まで魂に引きづられる形で変質するため、その本人と誤認させる。変装を解くには武具である鍼を抜き取るか、魂魄を活性化――つまり魂魄能力の行使をしたら解ける。これは同時に他者の魂魄能力までは装えないということを意味する。彼は完全に役割として間者――スパイなのだ。認識的な話でこの能力は他人を騙すことに特化し、戦闘には用をなさない。

 基本的に彼はこの能力で自身をなんということのない平凡な魂魄に変装しており、彼が魔益師だとは気付けないし、彼であるということすらもわからない。これを利用して近付き、不意打ちすることも可能。

 その他:黒羽に所属しながら、実はソウルケージのスパイ――と思わせてソウルケージにスパイしてるって感じの二重スパイ。その能力で、色々と潜入とかが得意。

 下調べは入念に行うタイプで、今回もまた一条に最もショックを与える人物を調べ上げ、その結果として十条に変装した。










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