第五十四話 独り言
とあるオープンカフェのテラス。
ひとりの少女が去って、ひとりの少女が残りうな垂れていた。
どれほどの時間、そうしていただろうか。いつまでも顔を俯かせている少女は、このまま永遠とそうしているのではないかと錯覚を起こしそうだった。
と。
不意に。
「このカフェ、もう修復してオープンしてんのかよ……」
「!」
不意に声が降ってきた。雫は驚いて顔を上げる。
先ほどまで理緒の座っていた椅子には、だらしない笑みを浮かべるひとりの男――羽織が代わりに居座っていた。
雫は一切の気配を勘ぐらせず居た男にほんの刹那だけ驚いて、すぐに冷めて視線を横に向けた。
「何故、貴様がここにいる」
「さてな」
「喋る気はないか……」
別にいつものことか。雫はもう深い諦めのようにそう思う。
というか羽織はなにをしに来たというのか。用があるならそれを申し出るはずだが、何故か沈黙していた。口を閉ざして、頬杖をついて、ただ雫を眺めているようだった。
なにがしたいのだか。
まあ、でも。ちょうどいい。
「理緒姉ぇが何故、私を連れて行かなかったのか。そして何故、戻ってきてくれなかったのか、ようやく今日知った」
溢れる想いは、腹に抱えるよりは吐き出したほうが良いと、浴衣に聞いた。
だから、それを信じて、吐き出しておこう。
鬱憤を、憂さを、後悔を――ここにぶちまけておこう。
「あそこまでの感情を秘めていただなんて、私はちっとも知らなかった。妹なのに、理緒姉ぇのことをまるきり理解していなかった……」
とはいえ。
これは、独り言だけど。
「理緒姉ぇが自分の姿を見せたくないと言ったのもわかる、私だってあんな理緒姉ぇの姿は見ていたくない。正直、逃げ出したくなった。目を背けて、背を向けて――逃げ出したくなった」
あくまで、独り言だけど。
「姉から逃げ出したいだなんて、本当に駄目な妹だよ、私は」
断じて、独り言だけど。
「なんで、私は気づいてあげることができなかったんだ、なんで、私は受け止めてあげることができなかったんだ。なんでっ、私は理緒姉ぇの枷でしかないんだ……!」
それでも――独り言を聞かれるというのも、今はきっと悪くない。
ぶちまけるだけぶちまけて、雫は少しだけ気が晴れて、少しだけ落ち着いた。
そこで羽織の存在を思い出し、警戒しつつも様子を伺う。
一応はその独り言を耳にとめてはいたらしく、羽織は平坦な目のままで一言。
「知るか」
「…………」
なんともあっさり突っぱねられ、雫としては空回りの気分である。
いや、違うのか
これは当初からの、羽織の姿勢だ。寸分違わぬ羽織という人間のスタイルだ。
おれに助けを求めるな――てめえでなんとかしな。
言葉で、態度で、常に言い続けていたことだ。
今回もまた、雫は弱音を吐いて――慰めてもらいたかったのだろうか? 励ましてもらいたかったのだろうか?
だとしたら、知らん。自分でなんとかしろ。悲劇のヒロイン振れば誰でも優しい言葉をかけてくれると思うな。どんな悲劇に遭遇しようと、立つのは自分の足でしかない。辛い事実に立ち止まっても、それで再び踏み出す足は――自分のもの以外にありえない。
頼るな縋るな祈るな阿呆――おそらく羽織は、そう無言で告げていた。
雫は痛感して、だが素直に殊勝になることもできず、子供のように口を尖らせてブーたれる。
「弱音ばかりで悪かったな、私は貴様のように強くはないんだ」
「……別に、おれは強かねぇがな」
「?」
また謙遜された。
意外に羽織は褒められると謙遜する。毎度、毎回、いつも。
強いと言われて、そんなことはないと固辞する。羽織の七不思議――たぶん少し考えれば七つくらいあるだろう、と雫は思う。たぶん――の内のひとつだ。
ふと、なんとなし思ったことを、雫は言ってみる。
「……なあ、羽織」
「なんだよ」
「貴様なら、理緒姉ぇに勝てるか?」
強い者たちというのは、下から見上げる者から見れば結局、一緒くただ。無論に強い者内で序列が存在し、確かな実力差があったりするのだろうけれど、下からは同一に強いということしかわからないのだ。強さの機微まで、下からでは見分けられない。
だから、雫の思う強い者――理緒や羽織では、どちらが強いのだろうか。本当になんとなく訊いてみた。
羽織は頭を指でちょいちょいと掻きながら、ため息を吐き出す。
「そりゃわかんねえよ」
「わからない、のか?」
「ああ。
だが、まあ、たとえばあいつの魂魄能力がお前の言うように“振動の支配”だけだってんなら――まあ勝負に絶対はねえからたぶんと枕詞をつけるが――勝てるだろうぜ」
雫が言うには、上条 理緒の魂魄能力は“振動の支配”というものらしい。それは雫が保証した。
そして、羽織は理緒の一太刀を浴びている。あの時には無論に全力であろうはずはないが、それでも平常時の一撃と言えるだろう。その平常時の一撃は問題なく受け流せる。
振動という工夫が多彩であろう能力で、まだまだ余力はあるだろうから確定できやしないが、それでも勝ち目はそこまで悪くない。それが羽織の戦巧者としての結論だった。
「だが、あいつは“視覚の拡大”という能力を併用した」
「……ああ」
「だから、わからん。まずもってなんで能力を複数扱えてんのかがわからんし、それが媒介技法であったのも解せない。他にも別の能力が行使できるのでは、という疑念も取り払えないし、それじゃあ実力の底なんざわかりようもない」
――だから、わからん。と羽織は繰り返した。
雫は考え込むように顎に手を置いて、本当に少し考え込んでから羽織に問いをぶつける。
「能力を複数扱うなんてこと、できるものなのか?」
「実例を見てんだろが。……まあ、それでなくても複数の能力を使う事例なら、おれは一応は二パターン知ってる」
存外簡単に言われて、雫は目を丸める。
構わずに、羽織はどうしてなのか丁寧に説明を加えてくれた。
「ひとつは条家の混血。だが、これは逆を言えば条家内でのみ起こる現象だ、条家と無関係な奴らには意味をなさない」
「もうひとつは?」
羽織は口を開き、また閉じ、それから答えた。
「……そういう魂魄の形をしていた場合だ」
「?」
「あー、たとえば……“魂魄の簒奪”とかだ」
「ああ、そういうことか……」
他者の魂魄能力を奪うだとか、真似るだとか――そういう能力の場合ということ。魂の形は複雑怪奇、千差万別。ありえないことではない。
「そういう能力者なら、おれも一度見たことがある。だが、そういう特異で脅威な能力者ってのは噂になるもんだ。複数能力だなんて、珍しいを通り越して化物の領域といっても過大じゃねえしな」
「……」
雫は、そんな能力者の話など聞いたことなど一度もないが。羽織とは情報網が違うということだろう。
「だが、そういう系統の噂で理緒なんて名前は聞かない――てーか、あいつは違うんだろ? 妹」
「ああ、理緒姉ぇの能力は、間違いなく“振動の支配”だった。十年も昔から、私は知っている」
「だからおかしいんだよ。なんであいつは複数の能力を使用しやがった?」
「私が知るものかよ」
「特におかしいのは、あいつが媒介武具を使っていた点だ。魂魄能力による複数能力ならば、そりゃおかしいだろ。いや理論的には不可能じゃねえんだろうが、現実的には不可能で差し支えねえ程度の無茶だ」
「ん……むぅ……」
羽織の説明を聞き、雫もまたさらに悩みこんでしまう。
もとから不可解だったが、詳しく説明されると余計に不思議さが増す。謎が複雑になっていく。
本当に一体どういうわけだ。雫は頭を抱える。
「……もしかして、媒介技法は奪うことができるのではないのか?」
思いつきのように、雫は言ってみた。
だがすぐ後悔する。悩み過ぎて変なことを口走ってしまった。阿呆なことを言うなと羽織に叱られると思った。
だが。
「それは、おれも大昔に考えたことがあるな」
「え?」
媒介技法は具象武具と違って実在の物質。故に一般的な武器と同じく、奪いとれば誰でも使用できるのではないか?
そういう考えはその昔、羽織にもあった。
雫は驚きのあまり二の句も継げないでいた。まさか単なる思い付きが肯定されるとは。
「だが、おれには無理だった。そもそもからして媒介技法ってのは裏技なんだ、本気で使い手は少ない。まず出会う確率が極小だ」
羽織でさえも、条家十門当主を除けば、媒介技法の担い手など春原 春と藤原 圭也、それと他には四、五人くらいしか知らない、出くわしたことがない。
その連中にしたって、修得は偶然というか奇跡的な幸運に恵まれただけのケースが多い。たとえば春だが、本人は羽織に知り合うまで媒介技法の存在さえ知りはしなかったのだ。ただなんとなく知らぬ間に、それを体現していただけ。
「だから、そう軽々に試そうにも試せねえ」
試す相手が、そもそもいないのだから。
試す相手がいなくては、確証のない推測しか重ねられない。
「ただ、具象武具と違って媒介武具は担い手の手から離れても能力を維持できる性質はある。それは証明済みだ」
自ら試したのだから、それは確実。
「だったら!」
「だが、おれは媒介技法を使用する手練とやりあったことがあるが、そいつはおれの手に武具が渡れば即座に解除し具象化をしてきた。おれでもそうするだろうぜ」
「あっ、そうか」
もしも理緒が媒介武具を他者から奪い取っているのなら、その媒介武具の所有者が媒介を解くだろう。いや、協力関係にあるのならまた別なのだろうが……にしてもその可能性は普通に考えて薄いだろう。
一応は頭の隅に置くとして、それより現実的な推測を羽織は提示する。
「……だが、ひとつ試してない事例がある」
「担い手が、媒介技法を解除せずに――する暇もなく死んだ場合、か」
「ああ」
頷いて、羽織は苦虫を噛み締めたような顔をする。
「そうなるとどうなるか、本当に予測くらいしかできねえ。だが、予測でいいんならこの方法が一番可能性として高い。
いや、まあどんな手法にせよ、黒羽――上条? ややこしいな、クソ」
「上条だ、上条。黒羽なんて、理緒姉ぇには似合わない」
「……上条は上条で不遜さが気になるんだが……もういい。とりあえず黒羽総帥は、他者の媒介技法を自分のものにする方法を編み出したと考えるのがやっぱ妥当だろうぜ。厄介極まるな」
と、そこまで言ってから、羽織はハッとしたように目を広げる。
「――てーか、そんな理論はどうでもいいんだよ。なにどうでもいい話させてんだよ、ゴラ」
「え?」
「おれがあいつに勝てるのか、ってのもどうでもいい――どうでもよくねえのは、関係あんのは、お前だろ?」
「それは……」
「お前だ。お前が、加瀬 雫が勝たなきゃ意味がねえ」
羽織はビシッと指を突きつける。一気に言葉を叩きつける。
「あーゆー手合いはな、一発ぶん殴ってやんねぇとわかんねえんだよ。それに、一回も負けたことがねぇんだろ? そら性格も捻じ曲がるわ」
「貴様、聞いていたのか」
「趣味は必死の命乞いを踏みにじること。特技は覗き見と盗み聞きだ」
「相も変わらず最悪だなっ!」
「人の趣味をとやかく言うな。――って、だからンなことは関係ねぇ」
「いや! 貴様の悪趣味はここで正しておかねばなるまい!」
「聞きたくねえのはわかるが、突っ込みで話を伸ばすな」
「っ」
図星。
怯んだ隙に核心を突く。およそ雫が最も恐れている言葉をなんの遠慮もなく言い放つ。
「一回も負けたことねえ姉貴を、お前の手で倒せ――お前が、負かしてやれ」
それは雫にとって、まったく現実感のない言葉だった。