第五十三話 姉妹
「いきなりに、なっちゃったかしら」
あの総会から数えて五日後の、とあるオープンカフェのテラス。
そこに向き合って座るふたりの少女の姿があった。
「そんなことはありませんよ、理緒姉ぇ。私は待ち焦がれていましたから」
「それでも謝るわ。ごめんなさいね雫、こちらも立て込んでいて満足に時間もとれないのよ」
ただ妹に会うだけの時間さえもね、と理緒は上品な苦笑を浮かべた。
あの再会の日の口約束――あとで連絡をいれるから。
その約束はまっとうされ、つい数時間前に連絡がはいり、このカフェで待ち合わせたというわけだ。
雫は緊張に渇いたノドを潤すように、注文しておいた紅茶を一口いただく。ここのカフェは紅茶が美味いと有名らしいので、とりあえず雫はそれを注文してみたのだった。
そういう情報には目もくれず、一顧だにせず、理緒はおそらくいつも通りにコーヒーを選んでいて――雫はなんとなく微笑みを浮かべる。
「構いませんよ、理緒姉ぇ。理緒姉ぇはもう総帥なんですから、忙しくて当然です」
「そう、よかった――でも、雫、昔から何遍も言ってるじゃない、私に敬語はやめてって」
「えっ、あ……すみませ――ごめん」
咄嗟にでかかった言葉、直して言うと理緒は花咲くように華麗な笑みを見せる。
「いいのよ」
どうにも、昔から理緒と喋る時には変な緊張があって、雫はついつい敬語になってしまう癖があった。
隔たりを感じるわけではない、親愛を思っていないのではない。ただ、雫にとっては尊敬すべき相手なので、自然と敬意を払ってしまうのだ。そして理緒は、そういうのを苦手としていた。
というわけで何度も敬語はやめてと言われていたのだが、久しい再会だったために思わず口からでていたのである。
バツが悪そうに紅茶のカップを指でいじりながら、雫はとりあえず口を開く。今日は話をするために来たのだから、口ごもっていても仕方が無い。
「それで、あの……で、えっと、あー、うん。むぅ……なにから話せばいいんだ?」
「ゆっくりと話しなさい、焦っても仕方がないわ」
言うと、理緒は演出的にゆったりとした仕草でコーヒーをすする。
余裕をもって対話をしましょう。そう語りかけるように。
雫はうーと恥ずかしげに唸ってから、倣ってまた紅茶に手をつけた。
言葉は考え練って口から出さなければ、指向性なく霧散するだけ。そんなことさえつい忘れていた。やはり、まだどこか緊張しているらしい。
それを見取って、理緒はあまり成長していない妹分に懐古を深めつつ、こちらから話を振ることにした。
「そうね……じゃあ、雫の近況を聞いていいかしら?」
「近況? 私の?」
「そう、どうやら条家の人と親しいようだけれど――よくそんなコネをもてたものね」
「あぁ、そのことだったら……その」
呼吸ひとつぶん言いよどむ。
自分の失態を敬愛すべき姉に伝えるのは、なんというか、嫌だ。人並みの見栄をもってそう思うが、澄んだ瞳にまっすぐ見つめられると、観念せざるをえない。嘘も誤魔化しも、心の奥底さえも見透かされている気がするほどの鋭い眼光。雫は苦々しい口調で、まずは自分の大失敗から切り出すことにした。
――それから、雫は少しずつ言葉を増やしながら今まであったことを語り始めた。
もちろん全てを言葉にするには時間が足りなかったし、その前に雫の話術も足りなくて概要をなぞる程度だったが、理緒は何度も頷いたり相槌を打ったりしてくれて、話し易くはあった。
そうこうしていると、話が少し偏ってきた。雫本人に自覚はなかったが、理緒はやや笑みが揺れていた。
偏った内容、それは――
「本当にあいつはいつもいつも私ばかりに苦労を負わせて自分ばかり楽をしてくれる! いい大人があれでいいのか!?」
羽織への愚痴。
日々積もり積もった鬱憤の限りを晴らすべく、雫の舌はいつも以上に働き、そして加速していた。
「しかもあいつ、人を助けないのを信条としてるって、どんな最悪な信念を掲げてるんだ! まあ何か昔にあったのだろうな、とは思うがそれにしたって――!」
「あー、それで雫、彼のことが嫌いなのはわかったけれど……」
随分と困り顔で理緒は口を挟む。
流石に再会して愚痴を聞くだけというのは、なんだか締まらないだろう。
「……あ」
言われて気づいたというか、我に返った雫。
めっちゃ焦りだす。
「すっ、すすす、すみません! 私ばかり変なことを話して!」
「ふふ、いいのよ、それだけ今が充実しているということでしょう?」
「充実って、今の話を聞いて何故そこに行き着くんですか……」
羽織への愚痴が大半を占めていたはずで、いやまあ浴衣や条と仲良くなったくだりも入っていたわけだし……そこを拾ったのだろうか? そういうことにしておこう。
で、自分ばかりではなく。
「理緒姉ぇは、どうなんです? 近頃の、ことについて」
「…………」
いつの間に“黒羽”に戻ったのか、どうして“黒羽”に戻ったのか――そして、黒羽総帥という立場について。
訊きたいことは山ほどあった。
今度は雫がまっすぐ真摯に理緒の宝石のような瞳を凝視した。昔の姉と、今の姉を照らし合わせるように。
理緒は逡巡のように一瞬だけ目を逸らし――すぐに戻して視線を交錯させる。口を開く。
「五年前、雫と別れてから、私はまた“黒羽”の手の届かない地を求めて彷徨ったわ」
「――っ」
なぜ私も連れて行ってくれなかったのですかっ。
開きかけた口。雫は閉ざす、話を聞く。
「でも、やっぱりそんな場所はなくてね。“黒羽”は思ったよりもずっと巨大な組織で、どこにだって支部があった。当時は随分と困ったものだわ」
「……海外、とかは?」
「海外にも“黒羽”は進出しているわよ? まあ確かに日本よりはずっと手薄なのだけれど。
でも。
結局――頭に残る悪夢が消えないのよ」
どこにいこうと、どこにあろうと、どうしようと。
脳裏に刻まれた思想は寸分も色褪せず、常に理緒の頭のなかで喚き立てる。
――強くあれ、最強であれ、条家十門を打倒せよ。
エンドレスリピートで脳内に再生される声。無限に繰り返される悪意の叫び。目覚めても醒めることのない、悪夢。
幼少より理緒に植えつけられた、思想を強要する、呪いである。
「雫を連れていかなったのはね、そういうことなの――もしも、私が……」
もしも私がこの強烈な思想の呪いに抗い切れなくなった時、その時は――そんな姿を雫には見せたくはなかった。
「…………」
「そして私は、どうなのかしらね。今の私はどうなのかしら」
この身を蝕む呪いに、果たして打ち勝てているのかいないのか。自分でさえ、わからない。
「そんな! 理緒姉ぇがそんなものに負けるわけがない!」
雫は叫ぶが、理緒は平静にコーヒーで舌を湿す。
「いいえ、私は客観的に見て、既に呪いに呑み込まれている。だから雫に自分から会いにいこうとはしなかったの」
結局は、またこうしてまみえてるわけなんだけどね。
くすりと自嘲的に笑んで、理緒は胸元に手を置く。自らの身体が、自らのものであることを、確かめるように。
「自分では、これが私の意志だって思うけど……客観的に自己を眺めると、やっぱり呪いに打ち負けた少女に思える」
「うそ、だ。理緒姉ぇは誰よりも強い、あんな男の思想に負けるわけが……」
「……」
幼き日からあったことだが、雫は理緒を少々神聖視し過ぎだ。それが、理緒にはほんの少しだけ重い。
気づかれないように小さく息を吐き出し、理緒はバッサリ告げる。
「――雫と別れてから四年で、呪いに耐え切れなくなった私は“黒羽”に帰順した」
「!」
「呪いを解く方法を模索するために、“黒羽”へ戻ったのよ。
まあ勿論、そんなに可愛い服従は示さなかったし、あの男には敵意の眼差しを向けてやったわ」
あの男――黒羽 源五郎。理緒は、その名を口にすることさえ忌み嫌っている。
「それでもやっぱり、あの男にとって私はお気に入りらしくてね。数年の失踪なんて意にもかえさず、以前と全く変わりなく教育を突きつけてきた。少し、笑っちゃったわよ」
本当にくすくすと理緒は乾ききった笑声を上げ、転瞬、奈落へと落ちた。
「――そして私は力を蓄え、時期を見定め、つい先日あの男に挑戦し――殺したわ」
「ッッ!」
至極あっさりと、いっそ冷め切った調子で、理緒は言い放った。
聞いていたこととはいえ、それを本人の口から話されると雫の中にあった一抹の否定の思いは粉々に砕かれる。信じていた最後の部分を、手のひらから零してしまう。
ショックを受ける雫に、理緒は酷く優しい口調で、内にある毒を吐き出す。
「“黒羽”に戻ったのは、それが目的だったのだから。
あの男さえ殺せば――私は、この呪いから解放されるんじゃないかって、淡い期待を抱いたのよ」
「そんな……理緒、姉ぇ……」
「悲しむのかしら? あの男の死を、あなたは悲しむの? 雫」
棘を生やした声に、雫は即座に否定を上げる。
「違う! 違うぞ! あんな男はどうでもいい! そうじゃなく、理緒姉ぇが人を殺したということが、悲しいんだ……。あんなどうでもいい男を理緒姉ぇがわざわざ殺す価値なんて……!」
「価値?」
ぐにゃりと、理緒の笑みが歪んだ。
それは地獄のような、燃え滾る憎悪の相。
「価値、価値! 価値ですって!?
そんなものがあの男にあるわけがない! あんなものはっ、あんなものっ! 死んで当然だ!! 価値がないから殺したのよ!!」
「りお……姉ぇ?」
「あの男の思想が私に刻まれている、そう思うだけで気が狂いそうになる! イカレて、誰も彼もを斬り殺したくなる! 頭が割れるような衝動に襲われて、なにもかもどうでもよくなるッ!」
「……っ」
そこまでの激情を抱えていた、のか。
人殺への忌避すら軽く超越する激動、性根の善良ささえ放り捨ててしまうほどの激怒。
それをずっと独りで、抱え込んでいたのか。誰にも話せず、相談できず、粛々と溜め込み続けていたというのか。
雫は理解した。姉が自分と離れ距離を置いた理由を、理解できてしまった。
雫にはない、強いられた感情。強固極まる呪縛。そしてそれに抗うための膨大な情動――源五郎への憤怒の感情。
その手で殺して尚、こうも理緒を首絞め苦しめ狂わせる。
「でも、ふふ、そんなことでこの衝動が霧散するだなんて、そんな都合よくいくはずもなかったわ」
圧倒されていると、ふいに理緒の怒りはなりを潜める。まるで仮面でも被ったかのように、表情も口調も正常に戻す。
自己制御のよくできた少女だった。しかし、雫にはその事がなんだか寂しかった。
正常のまま、平静のまま、仮面を装着したまま、理緒は続ける。
「やはりやるなら、条家十門盟主の打破……かしらね」
「な――」
絶句する雫に、理緒は可笑しそうに微笑む。
「このどうしようもない衝動から解かれるのなら――あの男への怒りを振り払えるなら、私は条家十門に戦いを挑むことさえ厭わないと思っている。
――そんなことを考えるだなんて、ほら、私は呪いに屈しているでしょう?」
そのような朗らかな笑顔で言うべき言葉では断じてなかった。
雫は絶句から立ち直ることもできずに、呆然としたまま理緒の声を耳に響かせる。
「これは本当に私が呪いのくびきから解き放たれたいと望む自己の願望なのか、それとも――それすら操られた恣意的な妄執なのか」
一体、どちらなのかしらね。全体、どうなのかしらね。
くすくす、くすくす。くすくす、くすくす。
不吉なほどに澄んだ笑み、戦慄をもたらすほどに純粋な声。透徹し過ぎて、人の枠から飛びぬけてしまったような――美しい笑顔だった。
雫は、気づけばカタカタと震えていた。怖気と寒気に一挙に襲われ、凍土に放り込まれたように震えていた。
恐ろしかった。姉が、途轍もなく恐ろしいなにかに変貌してしまったように思えて。恐ろしかった。
それでも心を奮い立たせて、雫は理緒に食って掛かる。
「むっ、無茶だ理緒姉ぇ! そんなっ、条家十門だぞ! 最強最古の退魔師集団、千年の歴史を残す不敗無敵の古強者たちなんだぞ!」
「不敗? それなら、私だってそうよ?」
「!」
まさかという思いに支配される――否、単純に、思い出す。
雫は恐る恐るといった風情で、理緒の顔色を伺い見る。
「理緒姉ぇは、その……」
「なにかしら?」
雫は意図的に間をおくようにして、気を静めるようにして、紅茶をあおる。
こと、とカップを受け皿に置く音が、嫌に大きく響いた。
その音が完全に消え去るのを待ってから、意を決して、問う。
「理緒姉ぇは――まだ、負けたことが、ないんですか?」
今までと同じように、雫の知りうる限りと同じように、未だ――無敗を貫いているのか?
理緒はどこまでも悪魔的で、だからこそうっとりするほど美しい笑みでもって、鷹揚にうなずく。
「ええ、勿論よ。私は今まで一度も、負けたことが――ないわ」
上条 理緒は――黒羽 理緒は――負けたことが、ない。
幼き日から今日この日まで、戦いという戦いにおいて――負けたことが、ない。
「そんな……ことが」
理緒が天才とされた所以。
誰の目からも才気を感じさせた理由。
恐るべき、怪物とまで言わしめた全ての原因。
その人生においてただの一度も敗北したことのない魔益師――それこそが天才、上条 理緒。
「そんなことが、ありえるのか? 負けないで生き続けられる人間が、ありえるのか?」
「それが私よ」
断言。
一切の曇りもない。
一点の迷いもない。
断言。
なんて自信の強度の高さか。それは確かに強い魔益師の断言だった。己を心底信仰する者の声だった。
「だからって――!」
それでも言い募る雫に、理緒は今度はあからさまなため息を吐き出し遮る。
「……あなたにはこの呪いの苦痛はわからないのよね、雫」
突き放すような言霊。
雫は、開いた口から――声を奏でられない。なにひとつとして、返す言葉が見当たらない。
目を伏せ、奥歯をきつく噛み締め、漏れ出る声はか細く弱い。
「それ、は……うん、わからないよ、理緒姉ぇ。私には、全然……わからないよ」
その痛みもわからぬのに、知ったような口をきくな。
その苦しみも知らずに、わかったような顔をするな。
お前は――何も理解できていない。
その通りだった。雫は黒羽 源五郎にその妄執を植えられることなく今までを過ごし、今を生きているのだから。
だから絶対に理緒に共感することはできない――否、きっと誰にだって、理緒の想いを解してやれる者はいないのだろう。
しかし、だけど、それでも。
「わからないけど――でも、私はあなたの妹だ」
それでも、雫はそこで立ち止まるわけにはいかなかった。
わからないし、知らないし、共感もできない
それでも、加瀬 雫が上条 理緒の妹であることは変わらない――絶対に、変わらない!
「私は、あなたを止めます」
そんなふざけた思想の元、理緒が戦うなんて間違ってる。
そんな腐った妄執のため、理緒が争うなんて見たくない。
だから。
「私が、理緒姉ぇの妄執を叩き斬る」
どうやって、とか。
そういう方法論はまた後だ。そうじゃない、これは決意、決断だ。
雫の魂をかけてでもなすべき、誓いだ。
「……やっぱり、そうよね」
もとより諦めていたという風情で、理緒は肩の力を抜いて脱力した。椅子の背もたれに体重を預けて天を仰いだ。
「あなたは、正しいことを正しい姿で成し遂げる真っ直ぐな子だものね」
私とは、違う……。
「え?」
小さく微かに、そんな羨望の囁きが聞こえた気がした。
気のせいだったのか、理緒は表情に一部の曇りも残さず立ち上がる。
「ではやってみなさい、雫。はじめて私の敵に回って、そしてはじめて私を負かしてみなさい――私を、止めて頂戴」
「必ず」
雫は同じく立ち上がり、絶対に退かないと瞳に意志をこめて理緒と視線を交わす。
理緒は、何故か心底うれしそうに無垢な微笑みを浮かべる。そこには妄執なぞ欠片も感じさせない、真実の理緒の笑みだった。
妹の成長が、妹の対立が、妹の想いが――きっと、なによりもうれしくてたまらないのだろう。
即座に表情を不敵に変換。あくまで敵として、妹に高圧的に笑いかけた。
「でも……こちらの意図は既に動き始めている、あなたに止められるかしら?」
「え?」
言葉の意味がわからず、雫はきょとんとしてしまう。
それ以上は理緒も語るつもりはないらしく、伝票をもって背を向けた。
「じゃあね、雫。また近いうちに、逢いましょう?」
雫は疑問を棚上げし、明確に首肯を返す。絶対に助けると、決意の炎を胸に灯して。
こうして――姉妹の道は、再びわかたれた。