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第四十七話 総帥






「!」


 唐突過ぎる事態に、音が死んだ。

 誰も息を呑み、唖然と呆然に震え、現状の不可解に意味を辿ることで精一杯。

 ――マッドの胸から刃が生えている。何者かが突き刺した死の刃。

 羽織でさえもその刃を気取ることができず、何時の間に突き刺したのかわからなかった。振り向いた先には何もおらず、つまりが声を放った直後にマッドの背後にまで回ったということになる。

 一体、誰だ。誰がこんな無気配を実現できる? 誰があんな高速を発現できる? 誰が誰が、誰が?

 羽織の不可解は口にだされることはなく、それよりも違う声のほうが早かった。


「ぁ……え? はか、せ?」


 酷く感情的な声で、そして表情で、リクスが呆然と呟く。

 どう、なったという。世界はどうなっているのだろう。

 今なにが起こり、今なにがあり、今なにをしている。

 なにもかもが理解したくないとばかりに、脳が把握を拒んでいる。

 わからない、わからない、わからない。

 わからない!

 これまでの人生と同じく、リクスは処理限界を超えてもう否認を繰り返すことしかできない。

 と、娘の声に衝き動かされたのか、マッドは赤く胸を染めながらも何故か落ち着き払って首を回し、背後から己を貫く相手に視線を向ける。ぼやけた視界に殺し手の顔を写し、得心いったように微笑を浮かべる。


「あぁ、君かい――“黒羽総帥”黒羽(くろば) 理緒(りお)

「ええ、お久しぶりね、マッド博士。そして、さようなら」


 その。

 その少女は。

 マッドを背後から刺し貫いたその少女は。

 不吉なほどに黒い――いや、カラスの濡れ羽色の――コートを纏った妙齢の美女だった。

 茶の髪の毛は艶やかで、さらさらと流れる河川のよう。顔のパーツは巧みに整えられ鋭い秀麗さを魅せ、物腰はなにかの達人のように毅然としていた。

 深く混沌としてあらゆる光を埋もらせるグレーの瞳が印象的な、どことなく不吉さを他者に振り撒くような少女である。それなのにしかし、どこか人を惹き付ける歪な美をもっているのだから性質が悪い。

 マッドは血に呂律を揺らしながらも、前提たる疑問をぶつける。


「一体これは……どういう、つもりだい、なぜ私を斬り……殺す……?」

「あら、決まっているでしょう」


 身に纏うコートをまさにカラスの羽のごとく翻し、少女は厳然と言う。

 言祝ぐように、呪詛のように、矛盾のように。


「マッド博士、あなたを裏切り者として処断します」

「うらぎり?」


 ひゅーひゅーと気管から空気が通過する音が、やけに耳に残る。マッドは刃を身に沈められ、返答さえも心もとない。思考もおそらく常時の半分も回っていまい。


「あなたの創った人形が、先日私に牙を向きました。無論に殺してしまったけれど、人形に意志はない。ならばあなたの指示によるものであるという推測がたつわ」

「なんの、ことだい……わた、しは、知らない……よ」


 死に瀕した男の言葉を、けれどカラスのような少女は切り捨てる。まるで取り合いもせず、切り伏せる。


「知らない? そんな言い訳は通用しません。ここで断罪します」

「……そう、か。私を消すための……小細工かい」


 マッドは減速を続ける脳みそを必死に動かし、その答えへとようやっと辿り着く。

 自分が邪魔になったので、適当な理由をつけて処分しようとしている。なんとも単純なことではないか。

 少女は悪びれも隠し立てすらせずに頷く。


「正直に白状すれば、そうね。あなたは前々から気にいらなかったし、ここで正式に抹消させてもらうわ」

「そんなに、私が嫌いかね、天才紛い」

「なにを馬鹿な、私は天才です。

 そしてそれ故に、私は天才を名乗る凡才が嫌いなのよ。喚いちゃって苛々する。嘯いちゃってムカムカする。言い張っちゃって沸々する。天才という存在を軽々しく語らないで欲しいわ。天才とは、私のことを指してのみ言う」

「たったそれだけの……ために、私の子供たちについては、諦めるの……かい?」

「ええ、あれはもう必要ないわ。だって、あの子たちみんな、あなたの命令でしか動かないのだもの。そんな命令にラグのある兵隊なんて使えないわ。それに一度の戦闘ごとに数時間の調整を要するだなんて、ロスも大きい。

 全く。大量に資金を投資したのに、とんだ無駄骨よ」


 それに、マッド個人が兵隊を大量に保持してしまっては、本当に造反される恐れもあるから、ね。理緒は言った。


「ああ、それと勝手に条家に挑みかかったのも、頂けないわね。

 条家との戦争はいい。けれどね、それはもう少し形と時機を気にして欲しいわ。勝手に変な風に引き金を引かれると困るのよ。仕掛けるのは我らではなく、できれば向こうであって欲しい。そのほうが、こちらの士気は上がるもの。だというのに、こちらから仕掛けるだなんて、思慮が足りないわ」


 言っている内に思い出したのか、ここでようやく理緒は羽織たちに視線を向ける。


「ごめんなさいね。でも、この馬鹿が勝手にやったことよ? 我ら“黒羽”はこれを処断するのだから、それで許して欲しいわ、条家の方々」

「お前が、“黒羽”の――トップ、総帥なのか?」


 いきなり蚊帳の外に追い込まれ、どうなにを言えば戸惑う中で、それでも羽織が辛うじて声を発する。

 存在自体を圧迫せんとする震えをきたすほどの威圧感。

 本当の意味での突然の登場。

 羽織でさえも気付けなかったマッドへの一撃。

 驚愕しうる点は、問いただしたい事柄は無数にあったが、どれも返答を期待できない。ならばと単純なものから会話を広げることにする。


「あら? あなた、なかなか強そうね」


 羽織に話しかけられ、理緒は少しだけ笑みを浮かべてそんなことを言い、次に質問に答える。


「ええそうよ、私の名は黒羽 理緒。以後お見知りおきをお願いするわ」


 同性の浴衣でさえうっとりとしてしまう至上の微笑み。

 まるで散り落ちる最後の花弁に感じる切なげな美しさ。少女の外見年齢を考えれば、それは不相応に過ぎる妖艶さだった。

 とはいえ羽織はそんなものに心を動かされることもなく、単純に返答がきたのをいいことにさらに言葉を――本当に訊きたいことは二言目に、なにより気楽に――投げかけてみる。


「ヒトガタを処分すると言ったな。じゃあいま存在するヒトガタどもは、どうすんだ?」

「勿論、全員処分しますから、安心してくれていいわ。……ああ、九条家にあった人形も、既に回収しましたので」

「! なにっ!? てめ、九条様をどうした!」

「なにも。彼女、その少女は我々の身内ですと言ったら、すぐに返してくれたわ」

「っ」


 自分がいないから――九条家には言葉を疑うような人間が不在してしまっている。

 おそらくは、それがその少女のためになると考え、九条様は引渡したに決まっている。

 ……いや、だが下手に抵抗しても不味かったのだろうから、それはそれでいい。羽織の守るべきは、あくまで九条 静乃と浴衣のみ。

 理緒は続ける。


「あなたたちが倒してくれたのでしょう? 地下で気絶していた人形も、下の階で倒れていた人形も――全て処分は完了し、もう残るはその人形だけよ」

「! 下の階だと」

「ええ。ああ、そういえば条家の方が複製者の人形を殺さずに、紛い物どもと延々戦っていたわね。殺せばすぐでしょうに、理解に苦しむわ」

「……」


 そうか。紛い物が消えたのは、複製者が死んだからだったか。一刀は、八坂は、殺さず苦労を背負っていたか。


「下の――戦ってたふたりはどうした?」

「へたり込んでいるわ。私に少しだけ敵意の視線を送っていたようだけど、声にだすほどの体力は残っていなかったようね。軟弱貧弱で、少し笑えたわ」


 くすくす、と思い出したように嘲りの笑みをたたえる。

 そこでゴフッとマッドが血塊を吐き出そうとし、喉に詰まって苦しげな呼吸だけを響かせる。

 ああすっかり忘れていたと理緒は笑みの色を変え苦笑。


「ごめんなさいね、私はひとつのことに集中すると他を忘れる性質なの。苦しかったわね、すぐ楽にしてあげるわ」

「く、くく! くはは! はははははははははははははははははははは!!」


 突如マッドは破裂したように大爆笑を張り上げる。


「いいだろう私は死のう。ここで無様に死に果てよう! 

 ははっ、だが私は帰ってくるぞ。冥府の底より蘇ってくるぞ。

 私は私の死をもって、死という全てを解き明かす。解き明かし、そしてやがて――そこから脱する法を、蘇る法を見出す。必ず、必ずまたここに立つ!

 私はたとえ死してでも夢を諦めない!

 私は――」


「私は“生”を支配する!!」


 胸を突き刺されているというに、死を目前としているというに。

 マッドはそれでも高らかに、挑発的に、自己中心的に宣言をやめない。愉悦と愉悦に満ち満ちた相貌のままに、自らを殺す少女に笑いかける。

 それが心底不愉快で、到底に理解できなくて、理緒はうざったそうに吐き捨てる。


「……うるさいわね、死になさい」


 突き刺した刃をなんの躊躇いもなく捻り、傷口に空気をいれ、そして引き抜く。

 ぶしゅ、という嫌に生々しい音が響き、支えを失ったマッドの肉体は崩れ落ち、そして倒れ伏した。

 最期の最期まで狂的で、最期の最期まで夢を求めて、狂科学者マッドは――死んだのだ。


「……?」


 羽織がほんの微かだけ眉を反応させるが、声とでるより先に、事実を認識したリクスの感情が決壊する。


「ぅ、うわぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 無理やりに起き上がり、我が身をなにも考慮せずに大砲を具象化。


「なっ、アホか、ナイフ背中にブッ刺さったまんまだぞ!」


 羽織が思わず声を上げるも、聞き入れることなどありえない。

 双眸を怒りで満たし、引き金を噛み砕くように全力で引く。グチャグチャな感情に押され射出される爆轟弾頭。全てをカラスの死のためだけに、魔益を練りに練りこんだ決死の一撃。

 それに対するは実に煩わしげ、面倒そうなため息だった。


「はぁ、あなたもうるさいわ」


 理緒はマッドを刺し殺した西洋剣を小さく振り被り、迫る弾丸を――

 いとも容易くふたつに分かち斬る。


「な――っ」


 そして真っ二つになった弾丸は理緒の斜め後ろに逸れ、すぐに無意味に爆散した。

 爆風が理緒のコートを揺らすが、それ以外に理緒に影響など皆無。リクスの能力など、黒羽 理緒には無意味なだけだと告げるように。

 そのままがくんと前のめりに倒れるようにして理緒は移動開始。


「あなたも追わせてあげる――等しく、死になさい」


 そして言い終える頃には、既にその身はリクスの正面。

 高速移動! 数十メートルの距離を消し去ったような高速移動! 羽織は再びの驚愕と、それから現象の何故に思考を即座走らせる。

 反射的に敵の能力を分析しだすのは羽織の経験豊富さのための癖。だが今回はその癖のせいで、その時の浴衣の強行を止めることができなかった。


「だっ、ダメです!」


 浴衣が、両手を一杯に広げてリクスを庇うように前に立つ。理緒の剣からリクスを守るように立ち塞がる。

 感情的で無謀――なにより無駄過ぎる行動に、理緒は片眉を跳ね上げる。


「あら、九条の姫君、邪魔をするの?」

「しっ、します! リクスちゃんはわたしの友達ですっ」

「ゆ、浴衣……」

「――そう」


 理緒は実につまらなさそうに目を細める。凍りついたような瞳に、宿る感情は一体なにか。


「じゃあ仕方ないわね」


 諦めの嘆息。

 とともに放たれるなんの慈悲もない斬人の刃。

 面倒だからまとめて裁断してしまえ。そんな軽くさっぱりとした思考で、斬撃を振り下ろす。

 風を裂き、リクスを浴衣の華奢な肢体ごと叩き斬らんと肉薄し――

 そこで、


「――あら、また庇うの、面倒ね」

「後ろの奴は知らん。だが、浴衣様を攻撃するのは許さない」


 羽織が、その腕で刃を止めていた。


「ていうか、てめえこんな形で条家との抗争はしたくねえんじゃなかったのか。条家の人間に斬りかかってどうするよ」

「あら? 私は警告を発した。それでも退かないということは、自殺志願なのかと思ったわ」

「嫌な理屈を捏ねやがって、ブッ飛ばすぞ、てめえ」

「お褒めの言葉と受け取っておこうかしら。

 それにしても、ふうん。私の剣を防ぐだなんて、その羽織りがあなたの具象武具というわけね。……いえ、媒介武具かしら」

「この感じ……振動か」


 羽織は自分の情報については黙秘しつつ、相手の能力について見立てを述べる。

 触れる羽織りが、ガリガリと削られていく感触。刀身が常に視認できないほど細かく高速で振動しており、その超振動により物体を切削、剣の破壊力を向上させている。

 俗に言うところの振動剣という奴か。

 理緒は殊更に隠すでもなく、やれやれと肩を落とす。羽織に斬りつけながら肩を落とすなんて、割と器用な少女である。


「まあ、触れられちゃったらバレるか」


 ほぼ肯定の台詞を漏らし、理緒は剣を引く。これ以上、鍔競っても益はなしと判断したらしい。

 軽く後方に跳躍し距離を置いて、それから興味深そうに羽織を観察者の目で眺める。見抜くような、見定めるような、そんな眼光だった。


「強い人は自分の強さを隠す。そして、上手く隠せる人ほど――強い。

 あなたは全然強さを見せていない。だけどにおいでわかる、なにより私の刃で貫けぬほどの強靭な意志力で確信した――あなたは強い。そこまで隠すのが上手いとなると相当に強い――そうでしょう?」

「んなわけねえだろ」

「あら。んー、確かに全然強く感じ取れないと不安ね。私の感覚のほうが間違っている可能性もある。じゃあ、」

「!?」


 じわりと理緒の右の眼球が赤に染まり始めた。まるで眼球に血が流れ込んでいくようにして、速やかに瞳の色彩が真紅へと変わり果てる。

 羽織は何度目かになる驚きを声と発する。


「それっ――は、具象武具……いや、義眼の媒介武具だと?」

「へえ、一目で看破とは、鋭いわね」


 だが。

 羽織はその賞賛された鋭い感性でもって、だがと思い悩むこととなる。現状のおかしさにどうも答えが見出せない。

 あの義眼は間違いなく媒介武具――だが、理緒という少女の持つ剣もまた、具象武具だ。それは気配で経験で把握できる。確信できる。

 しかして当然の話。

 具象武具は、媒介武具は、魂魄能力は、ひとりにつきひとつのはずなのに。

 なのに。


「どういう、ことだ……?」

「さあ、どういうことかしらね。

 ん、やっぱり、あなた随分と強いわね。それに、なにか普通じゃないものが視える、なにかしらこれ」

「! その目の能力かっ」

「そ、“視力の拡大”。これは視力の可能性の拡大と言ったほうが、わかりやすいかしら?」

「可能性……魂魄が、視えているのか?」

「……本当に察しのいい人ね。戦闘経験も生半可じゃないことがわかるわ。正直、敵に回したくない」


 この世には目には見えないものが溢れかえっている。

 空気であったり、音であったり、感情であったり。

 その目には見えない――視力では捉えられないような有象無象のなにもかもを、視ることができる可能性。それを拡大する能力。

 おそらくは単純に視力を引き上げたり、動体視力なんかも上昇しているのだろうけど。

 ふぅと理緒は肩を落とす。リクスを抹殺しようにも、浴衣が邪魔で、それで羽織が邪魔立てする。容易には突破できそうにないことは理緒の瞳が教えてくれている。

 あまり時間に余裕のある身でもなし――


「ま、仕方ないわね、あなたに免じて、その人形は捨て置くわ。ただし、そちらで処理してちょうだい。こちらはもう関与しないから」

「ああ」

「あと、どうせなら名前を聞いておこうかしら?」

「……羽織だ。姓はなく、ただの羽織」

「羽織、羽織ね。わかったわ、覚えておきましょう。また会いましょう、羽織」


 黒羽総帥に名を覚えられる――正直、勘弁願いたかったが、断れるような問いではなかった。否認を許すほどに、理緒の威圧は生易しいものではないのだ。

 だが、ともかくこれで退いてくれそうだ。これ以上、暴れることもなく帰ってくれそうだ。

 理緒は羽織の期待通りにその他を圧する雰囲気を減退させ縮退させ、全身から力を抜き去るような息を吐き出す。


「ふぅ――さて、公人としてのお話はこれで全部終わったわね」

「?」


 言うとゆっくりと振り返り、理緒はその視線をただひとりに定める。

 否、ずっとずっと、現れた当初から理緒の意識はほとんどそのひとりに釘付けであった。

 理緒はこれまでの雰囲気を一掃するような、華やかでいて優しい笑顔を浮かべ、この世のなにより愛おしい言葉を紡ぐ。



「久しぶりね、雫」

「りお……姉ぇ?」



 !?

 驚天動地。

 今回、最大級の仰天発言。

 ふたりは今なにを言った? なにを、なにを?

 羽織の驚倒など気にもせず、視界にもいれず、ふたりはぎこちなくも笑んでいた。


「ええ、私よ。ずっと連絡もとらずにごめんね」

「そんなこと、どうでもいい! 無事で、なによりですっ。

 ――だけど、理緒姉ぇどういうことです!? 理緒姉ぇが、黒羽総帥だなんて……」

「つい先日から、ね。安心しなさい、あの男の首はちゃんととったわ」

「!」


 目を限界にまで見開く。姉の言葉の真意に、まさかと心が騒ぎ立つ。驚きに声さえ外にだせなかった。

 理緒は目を細めてまた愛おしそうに雫を見やって、それから謝罪。


「ごめんなさいね雫、私も少し忙しい。あとで連絡をいれるから、話はその時にして頂戴」

「なっ――待て、待ってくれっ!」


 雫は言い募るも、理緒はもう振り返らずに颯爽と去っていってしまった。

 その背中は、どこまでも懐かしく久しいそれだったけれど、どこかに異なる何かを感じさせた。


「理緒、姉ぇ……」


 昔からの呼び名だけが、雫の心にいつまでも反響した。







 去っていく黒の背中を見据えながら、羽織は眼光を尖らせる。声だけを別方向へととばす。


「――おい、こりゃお前の仕込みかよ」

「おや気付いていたか」


 くく、とまるでマッドサイエンティストのように笑うのはジャック。

 数時間前に羽織とこのビル内で出くわした、マッドを極度に嫌悪する“黒羽”所属という少年。


「といっても、仕込んだのは黒羽 理緒その人さ。僕は単純にその裏方仕事をこなしていただけにすぎないよ。

 まああの男を殺すという話だったから、喜んで手伝ったんだけどね」


 マッドの動向や能力について調べ上げ、羽織を導き場を引っかき回し、理緒を呼び出し決着のタイミングでの登場。

 全ての労を羽織たちに押し付け、最小の動きだけでヒトガタの処分とマッドの殺害をなしてのけたのだ。

 なんとも厭らしい。


「けっ、見事に踊らされたってわけかい」

「いやいや想像以上の働きではあったさ、すごいすごい」


 全く熱のない褒め言葉に羽織はジト目を作るが、ジャックに効果はなかった。

 それどころかこちらの心が乱されている気がする。ペースを奪われ、通常を踏みにじられているような感覚。

 どうにも得体の知れない、底の知れない少年だ。

 傍にあるだけなのに、どこか心がざわめいて不安が募る。この変わらぬ嫌味な笑みが気に障る。

 全てを手のひらに収めていた、真実の黒幕。

 手のひらで踊るのは構いやしないが、それでも癪な感はある。意趣返しではないが、どうにかしてその仮面のような笑みを引き剥がしてやりたいと思った。

 やや考え――あぁ、と。

 その方法を思いついた。羽織は事のついでのように言う。


「そういえばお前――もしかしてマッドの血縁か?」

「何故?」


 底冷えするほどに凍えた拒絶の色。能面のように、表情は滑り落ちていた。

 羽織は少し唇の端を吊り上げる。


「雰囲気と言動とを統合した勘」

「勘かい、くく、ああ、勘かぁ、勘ね」


 くく、と笑みをノドで殺そうとするも殺しきれず、地底より這い寄る魔性の声のように響く。

 ただ笑うだけで人の心を掻き乱す不気味。羽織は思わず小剣を手元に転移していた。

 気にも留めずジャックは答える。別段に意を込めず、なるだけ他人事のように、無関心を装って。


「まあその通りだよ、アレは僕の不肖の愚父さ。ああ、わかってると思うけど謙遜じゃなく本音での不肖であり、愚父さ」


 では、リクスの兄だか弟だかにあたるわけか。当然のどうでもいいことを片隅で思う。


「この髪は染めた、この瞳はカラーコンタクト。ともかくあの男と自分が同じ血を流しているのが嫌で嫌で堪らなかった。堪らなく嫌だった。だからあの男と僕は違うと叫びたかったのさ。

 まあ、一番忌むべきこの血だけは変えることができずにいるのだけれどね」


 本当に、忌まわしい限りだよ。

 衒いも誇張もない真っ直ぐな悪意にして敵意。マッドへの、純然たる憎悪がヒシヒシと感ぜられた。

 羽織は一応、常識的なことを言ってみる。


「で、父親だってのに、そんなにも憎んでるのか――殺したいほどに」

「そうだけど、なにか問題があるかい?」


 常識的な問いに、非常識的な答え。

 それだけでジャックの意志の堅固さは伝わった。

 流石に親子、そういうところは似通っている。言えば、怒り出すのだろうが。


「特にはないがな、てめえの事情で踊らされたのは不愉快だったから細かいとこつついてみただけだ」

「だからあれは総帥の発案だって。それにちゃんと謝るって言ってるじゃないか。そんなにネチネチと責めないでくれよ、君みたいな人間にマークされるのは勘弁願いたいよ。僕は裏方なんだから、裏方になんて気にせずに役者は踊っていてくれよ」


 ジャックはそれにさあ、と頭を雑に掻きながらどこか面倒そうに言う。


「あまりボクなんか裏方に構ってないで、もっと主演を警戒しておきなよ」

「あ?」

「向けるべき視線を、警戒を間違えている君にまたひとつ忠告だ」


 忠告――先ほど廊下で出会った時にも聞かされた戒めの言葉。


「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物となることのないように気をつけなくてはならない。

 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ――と、これはニーチェの言葉だけれどね」


 楽しげに言葉を並べたて、ジャックは微笑のままに言う。


「黒羽 理緒、彼女は間違いなく怪物だし深淵だよ。

 だから、君はもっと彼女を注目すべきだ。注視し、警戒するべきだ。ちゃんと気をつけながら、ね」


 でないと、痛い目みるぜ?

 ニヤリと歳相応に子供っぽく笑い、そうしてジャックも理緒に追従して背を向けた。

 正直、ジャックのどこか無意識に感ずる邪悪さは羽織をして危険と言える。マッドと似た、しかしマッドとはまた異なる危険のにおい。できるのならば、金輪際の接点を皆無にしたい。殺すのさえ嫌だが――それを押してでもこの場で仕留めておくべきなのではないか、そこまで危惧を抱くも、それを実行するわけにはいかない。

 黒羽総帥に付き従う少年。そしてその総帥がその場にいるのだから、殺してしまえば条家十門に非が及ぶのは確定的。

 羽織は歯がゆげにその背中を睨み続けるしかできなかった。


「……なにが忠告だ」


 怪物? 深遠?

 それに則ればまあ確かに怪物は黒羽 理緒かもしれないが。

 だが――


「深淵は、どう考えたっててめえだろうが」






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