第四十五話 流れ弾
唐突いきなりに。
暴れまわっていた紛い物が――消失した。
前兆も予兆もなく、跡形も足跡もなく、すっかりと消えて失せた。
本当にいきなりで、春も羽織も傍で見ていたマッドまでも一瞬呆気にとられ意味を解せないでいた。
いち早く理解に至ったのは、下の階でヒトガタと交戦していた者がいることを知っていた羽織。
――あいつら、やったか。
それは好機以外のなにものでもなく、羽織はすぐに雫に声を送る。
送る言葉はただ一言――作戦決行。
同時、羽織は思い切り後方へ跳躍。それからナイフを手元に四本転移し握る。春に見せ付けるように、警戒心を煽るように。さらにわざわざ声をかける。
「惚けてんなよ、残るはてめえだけだ、ぶち殺してやるよ」
春は紛い物の消失の何故に終ぞ答えを見出せなかったが、羽織の挑発に乗る形で棚上げする。
彼は不思議なことを不思議なものであると納得できるタイプの人種だった。単純とも言う。
「そりゃこっちのセリフだ、バカ織!」
「勝手に略すな、春バカが!」
羽織はナイフを振り被り、そこで停止。
怪訝に思う春だが、先の隙に距離を置かれていて攻め込むのは数歩かかる。牽制も放てない。ここで前に出ては走った状態を狙われる。様子見がせいぜい。
羽織は投擲一歩手前の姿勢を微塵も動じさせず、やや声を低める。
「おれは、確かに地力でてめえにゃ勝てやしない――」
いきなり弱気なことを言われて戸惑う春――に短い呼気とともにナイフを投擲、転移。
だが騙まし討ちなど予測の内、春は笑ってやる余裕さえある。
「ハッ、毎度毎度バカの一つ覚えみてえに同じことしやがって! 一発芸じゃあ長くはやってけねえぞ大バカ織が! こんなもん、全部撃ち落してやるよ!」
そう、そう確かに春が万全の体勢で待ち構えたなら、それが羽織の投擲する刃だといえいくら軽器を転移しようが当たるまい。春の剣士としての業前は全ての刃を弾き、損傷には至ることはない。
そして、春はいま待ちの姿勢で正眼に構えている。襲い来るであろう鋭刃四本、全てを弾き飛ばすために。
構える。
「おれ、ひとりならな」
羽織は独りごちるも、春は無言で構える。
「戦場に立ったならその場の状況の全てを把握し、操り、掌握するべし――」
羽織の戯言で動揺しては致命。
惑わされず、戸惑いなく、どこまでも平静に待ち構え続ける。
待ち構える。
待ち構える。
待ち構える――が、いつまで経ってもナイフが来ない。
「ぁあ!? どこ狙ってやがんだてめえ! 的当てまで外れてちゃあ本格的に駄目やろ――がはっ!?」
そして、全く無警戒の春の背を、”打ち合わせ通りに風の刃が打ち据えた”。
無論。
羽織のナイフもまた、完璧に狙い通り――リクスの背に突き刺さる。
「ま、流れ弾ってあるよね」
そんな羽織の戯言が、五人が入り乱れた乱戦の締めくくりを飾った。
やったことは簡単だ。
タイミングを見計らって羽織はリクスを狙いナイフを転移し、同時に雫が春に向けて風の斬撃をぶちかます。
それだけだ。
羽織は声というか思考だけを特定の人物にのみ転移する技法をもっている。それを行使し雫に策を伝達。
タイミングを合わせて、羽織はリクスに、雫は春に向かって攻撃を交換しようと。
全く想定外の背面からの攻撃に、リクスといえど春といえど、流石に回避はできずに直撃することとなったのだ。
いや、本来ふたりの状態がもう少し他に思考を割けるほど余裕があったなら、不意に背後から飛んで来た攻撃にさえ対処はできただろう。
だが。
雫の風の斬撃をかわした直後の状態のリクスなら――
羽織のナイフへの警戒に全霊を注いだ状態の春なら――
不意を討てる。真後ろから。
今そうなったのがなによりの証明だった。
「……なんか、卑怯だ」
「はっ、乗ってから言うな」
「それは貴様が一方的に告げたからだろうが! 反論しようにも私の声は届かないし」
別にあのままでも勝てそうだったのにと、雫は些かならず不満げだ。
とはいえ確実でいて、さらに時間のかからない策。乗らないでいるほどに余力はなかったのも本音。
勝てそうと事実勝利するのでは全くもって別物。実はリクスはまだ隠し玉を用意していたかもしれないし、なんらかの要因で認識が変動し強化される可能性だって皆無ではない。
雫としては了承し、策に乗るのが最良だったのだ。たとえそれが卑怯な策略であろうとも。
負けて、浴衣を悲しませるわけにはいかないのだ。
――不意に、雫の声が鋭角へと尖る。
「――動くな」
向けた先は、いま地に手をつき立ち上がらんと力を込めるリクス。
「わかっている、あの一撃程度ではまだ動けるんだろう?」
「……。」
あの一撃ならば人体の行動継続は困難だろう。羽織が狙ったのだから、それは確信をもって頷ける。
だが、ヒトガタならばまだ可動域であろうと雫にはわかっていた。
「頭は悪いと自覚しているが、」
ヒトガタの耐久度なら、二度の戦いで経験済みだ。それはもう、身に染みるほど。
「経験を積んで学ばないほど――愚かではないつもりだ」
「――っ」
「現状の体勢から言って、私の一撃とお前が立ち上がるのでは――どう見積もっても私のほうが早い」
冷静に平静に、雫は断定的に述べる。そこに異論の余地はないと言わんばかりに。
そして、だから。
「――だから、動くな」
「?」
「お前は、浴衣の友達なのだろう?」
「!」
「であるならば、私としてもあまり斬りたくはない」
自分の考えは甘い。甘っちょろい。それこそ角砂糖のように甘いのだろう。
わかっている。
浴衣が友達と言ったから、なんだ? リクスが反撃に転じない根拠にはなっていない。ここで確実に動きを封じるべく攻撃を加えるべきだ。トドメを刺すのが嫌でも、動けなくするくらいはしておいて然るべきではないか。
なのに、雫はこのままにして放置しようとしている。背後から撃たれるのではないか、前を向いた途端に逆襲されるのではないか。不安は拭えないが、それで雫はそれでいいと思う。
一方そういうことに手厳しいタイプである羽織は、違う方向への驚きを隠せないでいた。
「……あれでも動けるのか」
「ふん、貴様にしては珍しく手温かったようだな」
「ち」
羽織は悪態を吐くでもなくそっぽ向き、それ以上は言及を控えた。
おそらくは羽織もできるだけ殺さないように攻撃したのだろう。それで、加減がわからなかった。
そういえば羽織はヒトガタと直接戦ったことはないのだ。雫は自分ばかり戦わされている事実にようやく気がついた。
視線に険をこめて非難を送るも、既に羽織は意識をこちらには残していなかった。
リクスは倒した、紛い物も討った。ならば残る敵手はただひとり。
雫も諦めて、最後残るマッドサイエンティストへと敵意を移す。
終局は、間近にまで迫っていた。
「今なら春にトドメを刺すのは楽勝――だが、くっ! 浴衣様の目さえなければ……っ!」
「なに邪悪なことを口走っているんだ、貴様は」