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幕間(リクス)




 ある日ある時ある場所で――



 リスクの物語は、そんなにも劇的ではなかった。

 どころかいっそそれは平凡で、平均で、平素な物語。

 どこにでもありえそうなことで、誰にでも起こり得ること。いかにも驚くような点も、別に取り上げるほどに興味深い点もない。

 ただ――登場人物が狂っていた。平凡や平均や平素との違いは、ただそこだけ。その一点のみだった。



 ある日ある時ある場所で――

 ――リクスの母親は、事故死した。

 


 はじまりはそれだけだった。そんな些細で、別に魔益師とか魔害物とかそういうのとも無関係によくある話だ。

 よくあるし、よく聞くし、よく忘れられる。そんな、他人から見れば瑣末でつまらない、今日日ニュースでも取り扱わないような小さな事件。

 だが、そんな瑣末でつまらない小さな事件で、父とリクスと弟の日常は砕け散った。

 一家のいつも通りは跡形もなく、四散した。

 優しい母だった。優しくて暖かい、まるで太陽みたいな人だった。

 リクスは今でも覚えている。幼き日に撫でてくれた、あの柔らかな手のひらの感触を。眩いほどに輝いた、あの無垢で無謬な笑みを。

 そんな優しい人だったから、あの父を支えることができた。父の狂気を宥め、癒し、弱めることができた。

 元より危うい精神の持ち主たる父。どこか正常とは外れ、健常とは言い難い理性の持ち主だったが、母を前にした時だけは安らいだ表情を垣間見せていたように思う。

 だから、その内包された狂気を繋ぎとめる理性の糸――危うい精神を危ういままに留めていた唯一の支えである母を失い。

 必然的に、当然のように、全く矛盾なく――父は壊れた。

 半壊が、全壊になった。致命的だった欠陥が、完膚なきまで決壊した。

 

「え、まっ、待ってください。えっと……あの人がリクスちゃんのち、父親なんですか?」


 驚き慌てる浴衣に、リクスは遠くを眺めるようにして頷く。


「そう。あの人は、私の実の父」


 浴衣の思った通り、リクスはどこまでも普通の人間なのだ。

 まあ、魔益師ではあるし、マッドの改造強化処理を受けているが、それでも根底的にはどこにでもいる月並みな人の子。父がいて、母がいて、そうして生まれた平凡な少女でしかないのだ。

 リクスは未だ呆気にとられている浴衣を微笑ましく思いつつ、懐古の念を深める。あの時分に、心だけが立ち返る。


「父は壊れ――そして夢をもつようになった」

「夢、ですか?」

「そう、それが“生”を支配すること」


 妻がいないなんて嫌だ。そんなの絶対に嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ――だから、妻を生き返らせよう。

 だがそれだけでは駄目だと、足りないとマッドは判断した。

 生き返らせて、また死んでしまったら堪らない。自分が死んでしまっても随分不味い。だから強欲傲慢に、死なぬ術をも欲した。

 過去何時何時でも、未来何処何処でも、誰もが求めてやまない根本的願望と言っていいそれを魂の底から欲した、否、必要とした。

 欲望ではなく、欲求。なければならないという必須だ。いや、それとも強迫観念と言ったほうが正しいかもしれない。

 目指さなければならない、自己という存在を賭してでもなさなければならない――そんな自己への命令。

 なにを切り捨てても、なにを踏みにじろうとも、なにを捧げようとも叶えなければならない――そんな、血まみれの夢。

 そう、マッドにとって夢とは、全ての優先順位の上にくる。

 夢のためならば、時間も労力も、魂も、娘さえも――残さず捧げてしまって惜しくはない。

 

「そんなのっ、そんなの間違ってますっ」


 夢なんて綺麗な言葉で誤魔化すな。

 浴衣は反射的に叫ぶが、リクスは自嘲気味に肩を竦めるだけ。


「誰も、正しいことをしようとなんてしていなかった。ただ、否定したかっただけ」


 もう二度とあの人の声が聞けないなんて。

 もう二度とあの人の笑顔が見れないなんて。

 もう二度とあの人の体温が感じ取れないなんて。


 そんなの嘘だと、否定したかった。


 それはリクスも同じで、だから彼女はマッドに同調し――いや、正確に言えばそれは誤り。

 リクスは死者の蘇生など、土台不可能だと諦観していた。マッドはその狂気ゆえに狂信しているが、狂うていないリクスにはどうしても信じられない。

 最初の頃こそ仄かな希望を抱いてもいたが、父が蘇生のために奔走し没頭し頑張っている様を見ている内に、逆に思い知らされた。


 ――あぁ、母はもう帰ってこないんだと。死者は死者で、蘇るはずがないのだと。そんな常識を思い知らされた。


 だからリクスはマッドの行い、ひいては自分の行いは全くの無駄であると感じながら人形のように父に従った。

 とりあえず否認したかった。否認するための理由が欲しかったのだ。父に追従することで――不可能と思っていながらも――それが理由になった。

 もしかしたら。ひょっとして。万が一。

 なんて、信じてもいない偽りの希望を掲げて叫び続けることができた。虚勢を張ることができていた。大丈夫、すぐに母は帰ってくると自分を騙し続けることが、できていた。

 とにもかくにも、とりあえずなんにしても――母の死を、信じたくなかった。どうしても、それだけは嫌だった。

 とはいえ父に従い続けても、それで生き返るはずがない。だからといって、従うのをやめてしまえば、それは母の死の肯定となる。

 どうすればいい、どうすればいい、どうすればいい。

 自問は永遠に頭の中で木霊し、いつまでたっても自答ができない。だから現状維持を惰性に続けた。今は悩んでいる最中だから、だから仕方がないと自分に言い訳して。

 父に従い――命令したのは父だから。悪いのは父だから――母を生き返らせるための活動に没頭した――母のためだから。これは全部母のための正しいことだから。

 リクスは、そうやって自分を偽り、果ては己の心をガランドウの人形にまでして否認を続けて生きてきた。



 ――全てにおいて否と言うことこそが、彼女にとっての人生だったのだ。



「――これが、私の話の全部」


 長年抱えてきた思いの全てを吐き出し、リクスはやや気持ちが楽になっている自分に気付く。

 こんな話をしたのは、浴衣がはじめてだ。父にも誰にも、そして自分で確認したことさえなかった。

 だから吐き出した言葉は自分にも意外なものがあったり、言うつもりのないことまで口走ってしまった。どうにも言語化に失敗してしまった部分も、沢山あっただろう。

 そこまで思考が回ると、楽になった心持ちがまた沈む。

 浴衣に、ちゃんと伝えることができただろうか。浴衣は、こんな自分をどう思うだろうか――失望か、同情か、激怒か。最悪、拒絶か。

 嫌な未来想像をしてしまい、リクスは失くしていたはずの感情が渦巻いて不安に呑まれそうになる。

 意図してなのか、そんなリクスの表情を窺うことはなく浴衣は下を向いて思案顔をしていた。

 それからちょうど百三十秒後に、ようやく言葉が決まったのか口を開く。――リクスにとっては、生涯で最も長い百三十秒だったのは言うまでもない――全てを聞き遂げた浴衣は、笑みではなく言う。


「……でも、でもそれじゃあ、悲しんであげることができません」

「ぇ?」


 悲しげに彩られた表情は既に涙を流しているようにも見え、決然と意志を強く燃やしているようにも感ぜられる。

 これは、なんという名の感情だろう。浴衣はきっと数多の感情をない交ぜににして、それをそのまま言葉としていた。


「死んでしまったことをちゃんと受け止めないと、死んだ人を弔ってあげることも、悼んであげることもできないじゃないですか。

 生き返るかもしれないから、死んでいないと自分に言い聞かせる。死を否定し続ける。でもそれじゃあ、誰が悲しんであげるんですか――泣いてあげるんですかっ」

「っ」


 感情的で恣意的で直情的。論理的説得力などどこにも皆無だというのに、どうしてこうも心揺さぶられる。リクスは不思議な感覚を持て余し、言葉を返すことができない。

 その間にも浴衣の言葉は続く。


「……昔、母様から聞いたことがあります」


 ――死んだ人はね、悲しんでくれた人の数だけ、天国で祝福をもらえるの。流してもらった涙の数だけ、来世で幸せになれるの。


「だから、思い切り泣いて天国の大事な人を幸せにしてあげなさいって。我慢なんかせず涙を流して来世でのその人の幸せを祈りなさいって。わたしはそう教わりました。

 リクスちゃんのお母さんは、これじゃあ誰にも悲しんでもらえません。天国でも来世でも……幸せに、なれません」

「……っ」

「わたしも、天国とか来世とかをまるきり信じているわけではないですけど、でも母様に聞かされたこのお話は信じたいです。だって、死んでしまった人の幸せを、願うことができますから」

「それは……そんな」


 そんな風に考えたことなど一度もなかった。

 死した母のことなんて、考えたこともなかった。

 いつだって手前勝手好き勝手に自分のことしか考えてはいなかった。

 父のせいとは断らない自分のせいのことであり、母のためとは自分のための言い換えでしかなかった。

 本当の意味で母を思いやったことなど、自分にあったのだろうか? そう思い至ってしまえば、リクスは自分自身が空恐ろしくなった。自己中心的過ぎる己が、化物じみた風に思えた。

 ――しかし。

 それは確かにはっとさせられる指摘だが、考えさせられるような箴言だが――だがそれで納得できるほどにリクスは素直ではない。改心できるほどに、成熟してはいない。

 悲しむということから逃げ続けていたリクスが、それと対峙するにはその言葉では足りやしない。

 いつものように、否ばかりが口をつく。


「……母は、生き返るかも、しれないっ。だから悲しむ必要は、ない」


 どうにか必死に言葉を紡ぎ、リクスは子供のようにいやいや首を振る。


「リクス、ちゃん……」

「いやっ、これ以上なにも言わないで!」

「……。」


 少し前までは想像もつかないほどの取り乱しように、浴衣はこれ以上口を挟めなかった。

 そもそも人の心の奥底にまで届くほどに、浴衣は自分の言葉に影響力があるとは思っていない。

 他人の言葉が心の変容を促すことはあっても、結局その変容自体は当人の意志でしかない。

 自分でどうこうするしか、ないのだ。

 だから、そんな生き方はやめてほしいとか、もう母の死を認めて悲しんであげてほしいとか、そういうことは言わない。言いたくてたまらないけれど、言わない。言っても今以上に耳を塞いでしまうだけだろうから。心を閉ざしてしまうだけだろうから。

 せっかく心を開いてこんな弱音を吐いてくれたのに、傷に塩を塗るような真似をして心を閉ざされたくはない。せっかく――お友達になれたのだから。

 だが。

 言わないとすると、他に何を言えばいいのかわからなくなってしまう。

 何か言ってあげたい。こんなにも苦しそうで痛ましい少女に、慰めでも励ましでもなんでもいいから言葉をかけてあげたい。

 とはいえ何を言えばいいのか。

 この酷く純粋でどこまでも自己批判的な少女に、友達として何を言えばいいのか――浴衣は深い思案の海に沈む。





 


 不意に、気まずげな沈黙に満たされた空間に機械音が走る。

 それは部屋に置かれたテレビが起動する音で、画面に映るのはマッドサイエンティスト。

 通信用端末、らしい。

 マッドは前置きもなく話に入る。やや焦っているようだ。


『リクス、即刻そこから退避しなさい』

「……何故」

『どうやらその場所が羽織にバレてしまったようだからね、君ひとりでは羽織に奪還されてしまう。だから私の部屋にまで、九条 浴衣嬢をエスコートしてくれ』

「!」


 聞き慣れた名前が挙がり、会話を俯いて聞き流していた浴衣が顔を上げる。

 既に羽織が助けに来ているということを、浴衣はここではじめて知ったのだ。

 浴衣の歓喜を傍目に、リクスはあくまで言葉少なに淡々と――それは無感情を必死に繕っているように、浴衣には感じられた――疑問する。


「……何故、バレたの」

『どうやら手引きした者がいるようだね。

 監視カメラには上手く顔を映さないようにされていて確定はできないけれど……まあ手引きした者も大方予想はつくけど、そっちは後回しでいい。今は羽織に九条 浴衣を奪還されるのが一番不味い』


 そう、マッド側のビルには至るところに監視カメラが設置してあり、羽織も雫も常にマッドに観察されていたのだ。

 ……ちなみに、故に羽織の罵詈雑言はしっかりとマッドに届いていたりする。


『まあ、では頼んだよ、リスク。あ、エレベーターを使うんだよ?』


 返答も待たず、マッドはそそくさと映像を消した。

 慌しいが、それほど切羽詰っているのだろうか。リクスは思い、それと同時に浴衣に対して罪悪感が噴出する。

 マッドが焦っているということは、近くに羽織がいるということで。羽織が近くにいるということは、浴衣にとっては――


「大丈夫です。連れて行ってください、リクスちゃん」

「え?」

「わたしは、改めてマッドさん――リクスちゃんのお父さんとお話しがしたくなりましたから」


 なにか決意のように、浴衣は柔らかく微笑んだ。







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