幕間(リクス)
――彼の話になった途端、やけに饒舌になった。
いつの間にか浴衣の向かいに座らされ、いつの間にかはじまっていた雑談の中で、リクスはそんなことを思った。
雑談とはいうものの、リクスは生来の無口さから口を挟むことも話題を振ることもなく、完全に聞き役に回っていた。
それでいてリクスはこれで中々律儀な少女らしく、話を聞き流すようなことはせずにしっかりと耳を傾けてくれるので、話す浴衣もやりやすかった。
そうしてお喋りを続けていると、浴衣の話の内容がどうにもひとつに偏ってきたのだ。
流石に敵地に軟禁されているのだ、気丈を装っても口数はおそらく普段の半分ていどだっただろう。リクスはそう推察する。
だったのに彼――羽織りを纏った、現在の父の最高の興味対象、名前はそのまま羽織だったか――の話を語りだすと、浴衣の口は止まらなかった。
一緒に散歩に行ったとか、彼は縁側でボーっとしてることが多いとか、鍛錬の時は結構厳しいとか、でもやっぱり最終的には甘いのだとか。
軟禁という状況を忘却してしまっているのではないかとさえ思う。話し相手が誘拐犯だと、もう覚えていないんじゃないだろうかとも思う。
それほど、少女は嬉しそうに幸せそうに彼のことを喋る。なんのこともない他愛ない事柄を談笑する。歌うように羽織について様々言い募る。
「…………」
それを聞いて、聞き流さずに聞き入って、だからリクスはああと思う。
ああ、失敗したと――リクスは思う。心底後悔する。
向かいになんて座らなければよかったと、話なんて聞かなければよかったと。自分の軽率さを呪った。
もしも会話なんて始めずにいれば、こうしてこんな遠い劣等感に苛まされずに済んだだろうに。
――その笑顔は、まるで輝き照らす太陽のようで。
リクスにとって、眩くて仕方がない。穢れも邪気も、一点の曇りさえも見あたらない光。
いつか望んだ、今は遠く、もう手の届くことのない陽の光。
本当に、本当になんて純白なのだろう。真っ白で、純粋で、美しい輝きなのだろう。
自分のような存在が、手を触れていいわけがない。自分のような人間から外れかけた者が、直視できるような光ではない。
自然と、リクスは俯いていた。
目を合わせたくない。その姿を見たくない。なによりも――自分の無様を見てほしくない。
だと、いうのに。
「あれ……どうしたんですか、リクスちゃん」
なんとも心配そうに、浴衣は落ち込んだ顔を覗きこむ。
「顔色、悪そうですよ? なにか気に障りましたか?」
――そういう引け目のような感情を敏感に見抜くのは、羽織が似たような目をすることが稀にあるから。
無感情に近いリクスの小さすぎる感情機微にも、浴衣はなんとなく気付けた。
ポーカーフェイスを自認するリクスは内心かなり驚いたが、それも押さえ込んでなるだけ平静を努め首を振る。抑揚なく、淡々と否定する。
「別に。そんなことはない」
「本当ですか? 本当に、本当ですか? 無理してないですか?」
しつこいほど言うのも、羽織がいつだって本音を語ってくれないからだ。
こうしてしつこく問う時、浴衣は酷く悲しげな顔をする。自分にも語れないようなほどの何かを、抱え込んでいることへの心配。そしてそれを聞くに値しない自分という存在の弱さ。それにあまりしつこいと嫌われてしまうのではないか。様々な要因で端整な顔立ちを悲壮に彩るのだ。
こうなってくると、羽織と近しい理由で浴衣を直視できないリクスは、同じ思考を浮かべることとなる。
つまり。
――自分のせいでこの輝かしい少女の表情を曇らせるなんて、我慢ならない。
リクスは全力を尽くしていつもの無表情を自身に貼り付ける。いつもなら少しの手間もかからないはずが、今はちょっと手間取った。
「本当。本当に、なんでもない。ただ……浴衣が幸せそうだと、そう感じただけだから」
「そう、見えますか?」
リクスは静かに首肯。
魂の底からうらやましく思えるほど――幸せそうだった。
浴衣は瑞々しい頬を仄かに赤らめて、恥ずかしそうにはにかむ。
「そう見えるなら、それはやっぱり羽織さまのお陰、です」
そんな照れた表情を見て自然と「ああ、可愛らしいな」と、リクスはここ十年ほど一度として感じたことのない感情を浮かべた。
いや、違うのか。
感じたことがないなんて、それはありえなくて。
単に封じ込めて見て見ぬ振りをしていただけだ。感情はいつでもそこにあって、しかし父に付き合うためにそれをないこととして扱った。
父の道に同行することを自分の意志で選んで、それからずっと人間ではなく人形であろうとした。
熱なく、意思なく、心ない人形。
誰かの糸に操られなければ動けない。誰かの意図が働かなければ動けない。どこまでも他者に依存する、自律稼働しない御人形。
だというのに、浴衣の姿を見ているとどうしても。
どうしても、思い出す。
自分にも、確かそんな風に誰かに幸せを語りかけたことがあったような気がすると。
もう随分と昔、忘れかけてしまうほどの過去に、自分も幸せでたまらなかった時期があったと。
そんな風に、いつかの過去を振り返ってしまう。
今まで必死に目を背けていたのに。どうにかこうにか背を向けて歩いていたというのに。
強烈な光が射し込んだせいで――それこそ目を閉じるだけでは足りないほどの光輝が目の前にあって――咄嗟に後ろを、過去を向いてしまった。
狙いすましたように、浴衣が言う。
リクスの思考を見透かしたわけではないのだろうが、それでも滲み出てきた表情から感じ取ったのか、どこか真摯に。
「なにかあるんなら、話してください。悩みとか、嫌なこと、辛いこととかは誰かに話すとすっきりするって、羽織さまも言ってましたから」
なにより話さないでいると、その辛いことに内側から食い破られてしまう。心が――破綻してしまう。羽織の言葉だったが、それをそのまま使わせてもらった。
途端にリクスはなんだか泣きそうにまで表情をクシャクシャにして、また俯く。長く綺麗な金髪が垂れ、表情が見えないほどに伏せる。
「……。」
優しくも軟らかい陽光の日差しを前に、凍えて機能しなくなったはずの心はほとんど強制的に暖かく溶けていくのがわかる。
優しくされると、甘えてしまう。弱い自分は、甘えてしまう。優しい言葉に甘えて、今更になって泣きたくなる
リクスはどうにか涙ばかりは堪えて、深い懺悔めいた面持ちで口を開いていた。
「――浴衣」
「はい」
いつものように、優しい優しい笑顔で応える。嬉しそうに、でもどこか心配そうな浴衣の笑みは、儚くも華やかで、やっぱり日向のようだった。
リクスはかなり躊躇っていたが、笑みに後押しされ、どうにかその言葉を口にできた。
「……私の話を、聞いて欲しい」