第二十七話 飛来去器
飛来去器……ブーメランのこと。
浴衣の携帯電話、その短縮ダイヤル一番目の相手へと電話をかける。
『はい、もしもし浴衣様。どうなさいましたか?』
羽織はワンコール目で即座に出た。朗らかでいて素早い対応、使用人モード全開である。
そうやって対応が優しげであればあるほどに、落差が恐ろしい。雫は戦々恐々の体で控えめに訂正する。
「悪いが、浴衣ではなく私だ」
『……その男とも女ともつかない不躾な声は、雫か?』
スイッチが切り替わったように、声音が激変した。一瞬前とは別人のような不機嫌を振りまく声である。
というか私は正真正銘、女だ。という突っ込みはおいといて。
「ああ、私だ」
『てめえ、なんで浴衣様のケータイ使ってやがる』
「説明は後だ――浴衣が誘拐された」
『なに……』
また、声が変わる。忙しい声帯である。
硬質で冷え切った鋼を連想させる、静かなのに恐ろしく感情の篭った声で、羽織は問う。
『どういうことだ。一から十まで説明してみろ、さもなきゃお前から殺すぞ』
「待て! 今、私に死なれては話が聞けなくなるぞ」
『……なんだ、拷問がご所望か。早く言えよ』
慌てていたせいで言葉を間違えた。今の羽織は、浴衣の心配のせいで機嫌が最高に悪くなっている。曖昧な言葉や、はぐらかすような言葉はアウトだ。
すぐに雫は否定を口にする。
「違う! 私は今、浴衣を攫った奴のひとりと交戦している! それで、」
『はん、負けそうだってか?』
言葉を先回りされた。いくら機嫌を損ねていようとも、その思考力に衰えはないらしい。
雫は我が意を得たりと、電話に向かって大きく頷いていた。……些かの悔しさには、今回はお引取り願った。
「ああ、知恵を貸して欲しい」
『まあ、敵がいたんじゃゆっくり説明もできない……か。仕方ねえ、手ェ貸してやっから質問にいくつか答えろ』
浴衣や静乃関連となると、こうも協力を得やすい人材もいない。少しだけ苦笑を零して、雫は電話に意識を集中した。
羽織は用意していたようにすらすらと言葉を並べたてる。
『能力は? どんな現象が起こった。
敵の性格は? どんな口調で、どんなことを喋った。
現場の状況は? どんな場所で、どんな経緯でそこにいる。
ただし主観は交えるな』
ある程度は予想の範疇の質問。雫は順繰り答えていく。
「能力は、おそらく“銃器の作製”だと思う」
『おそらく? 思う? それは敵がわざわざ教えてくれたのか? それともお前の推論か? どっちにしろ勝手に鵜呑むなよ。おれが判断する』
「むぅ……」
わかっていたことだが、一切信用されていなかった。
文句を言ってもきかないだろうから、観念して能力による現象と思しき事実をできるだけ客観的に説明することにした。
「いきなりブーメランが飛んできて、私の周囲を一回りした。その通った箇所――軌跡から小型自動拳銃が現れて発砲、消失した」
間。
間。
間。
『……ふん、聞いた限りでは、まあ能力は“銃器の作製”で間違いないだろうな』
「ほらみろ!」
『はい、次、性格とか現場の状況を言え』
「…………」
急いでいるのだ、羽織に突っ込んでいる暇はない。雫は自分に言い聞かせ、説明にのみ専心しようとする。感情を交えず淡々と語る。
「敵の姿は一切不明。性格も口調もわからん。ずっと遠距離から攻められてるからな。
現場は工場跡地だ。特別珍しいこともない、ドラム缶とかタイヤとかが沢山並んでるだけの場所だ。だからか、人気は全くない。銃声が鳴ってもなんの騒ぎにもなっていないことから、そういう戦い易い場所に誘導されたのは確実だろうな」
聞き終えてすぐ、羽織の声音が呆れに染まる。
『って、そこまでわかってんなら、なんでおれにアドバイスなんて求めてんだよ。能力さえわかりゃあ、あとの対処なんてすぐに二、三思いつくだろうがよ』
「ぐっ」
いつもの責めるような口調ではなく、単純に物凄く当然のように言われて、雫は余計に凹んだ。
はあー、と羽織は大きくため息一発。
『相手は遠距離攻撃を前提にお前をそこに誘導した。ついでに遠距離攻撃するような奴だ、結構に気の長い輩と推測できる。長丁場に自信アリってことだな。
――お前、足止めされてんな?』
「っ」
何故わかる。
『そういうことなら、敵さんはお前が隠れてる間は攻撃してこねえだろうよ。あんま気ィ張りすぎるなよ。神経すり減らし過ぎて自滅なんてオチは笑えねえからな。急かさずおれの話を聞け』
「……わかった」
『あー、ただしお前がもしも足止め倒せて、そのまま追っかけれんなら追っかけて欲しいからな、あんまゆったりはすんなよ』
「どっちだ!」
羽織は丸無視。自分の話を勝手に進める。
『そういや、ちなみにお前はどういう戦法をとった? まさかなにもせずに泣きついてきたわけじゃあねえだろうが』
「あっ、当たり前だ! 私だって少しは考えるぞ!」
『だから、まずお前の浅知恵を聞かせろ。なにやって失敗した』
「浅知恵だと!」
『失敗したんだろ? なら浅知恵だ、ボケ』
「っ!」
こういう時は、毎回言い返すことができない。元より口下手で、悔しいという気持ちばかりが先行してしまって上手く言葉が出てこないのだ。
そんな自分を恥じ入るようにして、声を低めて先ほどの件を話す。
「ブーメランが帰還するところを狙って、その射線に向けて風を放った。そこに、ブーメランを投げた魔益師がいると思ったからな」
『ふん。思った通りの浅知恵だな。及第点もやれん』
ばっさりと切り捨て、羽織はすぐに話を変える。
『まあいい、策を授けてやる』
「……よくもまあ、こんな短時間で策が出来上がるものだな」
『褒め称えていいぜ? っと、その前にわかってなさそうだから相手の能力について解説しておくが……』
「は? わかってるぞ。“銃器の作製”なのだろう?」
『黙って聞け。
……お前、“武具認識”って知ってるか?』
「あっ、ああ、それは勿論知っているさ。能力への認識と同じで、具象武具にも認識によって特殊な現象が起こりうるという奴だろう?」
認識による拡大解釈は、具象武具にも起こりうる。
その武具への認識により――つまり、その形のもつ役割がこうであると本人が強く認識することで――通常の用途ではなくなったり、常識を覆すような動きをするのだ。
例を挙げれば、質量操作や形質操作なんてのも可能。羽織ほどの達人ならば、少し集中すれば自身の具象武具の重さは自由だし、形も自在。
また、本人が意識していない場合は、もっとも振り回しやすい重さで、もっとも手に馴染む形となる。だから雫の刀はあの重さであの長さ、つまり最も振り回しやすい形質をしているし、条のグローブも彼の性質を反映しているのだ。
それが認識の一種であるところの――“武具認識”という現象である。
知っているなら話は早い。羽織は続ける。
『じゃあ、ブーメランの認識ってなんだと思う?』
「え? それは――」
『ブーメランという形とその存在に関する知識――つまり武具認識として、ブーメランのそれはおそらく“投げたら必ず手元に戻ってくる”だろう。あとたぶん、折り返し地点も操作可能だ。でなけりゃ、てめえを囲うような銃器の連続作製――つまりはブーメランが囲うように軌道を描いて飛来した説明ができない』
「たっ、確かに……」
あんなに都合よく自分が銃器に包囲されるなど、思えば不自然だ。不自然には原因があるもので、それが武具認識だったのか。
『で、ここでもうひとつの事実が浮き上がるな?』
「なんのことだ?」
『少しは頭を使えや! ボケがっ』
真っ当に叱られた。
正論なので、言い返せない。雫は聞いている内に、自分で考えるのをやめていたことに気付いた。
改めないとな、少し反省。
羽織は叱った勢いのまま、怒鳴るようにまくしたてる。
『さっき言っただろうが! ブーメランの武具認識は、“投げたら必ず手元に戻ってくる”だって! わかるか!? “手元”に、戻ってくんだ! ってことは、別に投擲場所と回収場所は別でもいいってことだ』
「それは、つまり」
『てめえ自分で言っただろ? 帰還するブーメランの斜線に向けて風を放っても、手ごたえはなかったって。つまり、これがカラクリの正体だ。
狙撃手は動かずどこかに潜伏して狙い撃つ――その固定観念を捨てて考えろ。ブーメランは確かに狙撃手の手元に帰っている――もう少し常識捨てて考えろ。
導き出される答えは?』
「敵は、移動している……?」
『そうだ。相手は動き回ってる。お前に捕捉されないためにな』
「なる、ほど」
なまじ敵の位置の手がかり――ブーメランの帰還先――があったがために、そちらに踊らされ、答を早まり誤った。
確かにただのブーメランならば、投げたら投げた地点に戻ってくるものだ。だが、具象武具たるブーメランであれば、認識によっては投げた地点にではなく“投げた本人の手元”に戻ってくるのだ。たとえ本人が動き回っていようとも、ブーメランはその認識に従って物理的な不可能を無視してでも手元へと帰る。
ブーメランの帰還位置を、投げた地点と考えるか、それとも投げた手元と考えるか。そういう認識の小さなズレが、現象に大きな違いをもたらしたのだ。
その場にいるわけでもなく、少ない説明をうけただけでよくもまあそこまで頭が回るものだと、雫は普通に感心してしまった。
で、こっからが本題だ。雫の感嘆符に少しも心動かさずに、羽織は一気に作戦を告げる。
『それを踏まえて策ると……そうだな、風でブーメランをあらぬ方向に誘導するとか、ブーメラン自体を刀で叩き落すとか考えられるが、それじゃあ結局は手元に戻る。時間稼ぎにしかならねえ。逃げるだけでいいんならそれもアリだが、今回は追撃が目的だ。敵は即行でぶっ潰すべきだ。
というわけで即殺するためにゃ、ブーメランを無視する――お前の案を採用する』
「え?」
まさか自分の考えに肯定的な言葉を聞けるとは思ってなかったので、雫は呆気にとられる。
羽織は誤魔化すように、少々乱暴っぽく言い捨てる。
『単純だが、一番手っ取り早いしな。けどお前、風で攻撃したらしいが、そりゃ真っ直ぐすぎる。そうじゃなくて、てめえが走れ。
ブーメランなんだから、一度投げたら帰還する。つまり敵が自分のいる場所までの道筋を勝手に教えてくれるってこった。それに乗っからねえ手はねえ。その上ブーメランを追い抜けば、相手の手元に武具はねえってことだ、そこをぶっ倒せ。
あー、ただし追っかけてる時には銃を作ってくるだろうからな、ブーメランに警戒はしとけ』
「警戒って……アバウトな」
『てめえ、だから風使いだろうが! 風使いなら、風で知覚しろ!』
「ど、どうやって」
『アホ! バカ! マヌケ! お前は風を単なる刃物としか考えてねえのか!? 便利な能力なのに、なんでお前はそうも思慮不足なんだよ……』
「いっ、いや……私は後方から風の刃を放っていれば、それでいいとずっと言われてきたからな」
言い訳のような雫の言葉に、何故か羽織は大きく反応。少しだけ声を落として問う。
『……誰がそんなこと言ったんだ』
いきなりトーンが変じた羽織に、少々のいぶかしみをもって雫は答える。
「? 昔、私が組んでいた退魔師としての師のような人だが?」
『師、ねえ。お前、そいつに嫌われてたんじゃねえの? お前の能力を指して、後ろから風の刃だけ放ってればいいって、どう考えても馬鹿かお前を強くしたくなかったのどっちかだろ』
「なんだと!? 侮辱か!」
『事実だ。たくよぉ、攻撃法の工夫は割と多彩なくせして、用途は一切考えてねえのはそれが原因か……。
って、んなこと今はどうでもいい。とにかく、お前は風がただの人斬り包丁じゃねえってことを学べ、認識しろ。“風の制御”だぜ? 発するばっかが能じゃねえだろ、風を知覚しろ』
「……ぅ。どっ、努力はする。が、その感覚がイマイチわからない」
遊び方がわからず仲間はずれになってしまった子供のように、雫は声を落とした。
マジに言っているらしく、それに苛立って羽織は強く舌打ちする。若干自棄になりながらも、まくし立てる。
『意識を研ぎ澄ませろ、魂を刃だと思え。そしてその刃には新たな感覚器官が付属してんだ。
目を瞑っても、耳を塞いでも、鼻がつぶれても、口が閉じても、身体がなくても――そうじゃないなんかで世界を知覚できる。それがお前だけに風がくれる、第六の感だ』
「抽象的だな。いや、貴様の意見では、魂とはもとよりそういうものか」
『そーだ。だから言う言葉もアバウトだ。そうだな……考えるな、感じろって奴か』
「できるかっ! ひと昔前のバトル漫画じゃあるまいに」
『あァ? 努力すんだろ?』
「うっ」
痛いところを突かれた。
怯んだ隙に、羽織は力強く言い聞かせる。魂を揺さぶるように、断定してやる。
『いいか、それはお前にとってできてしかるべきだ。できないほうがおかしいことだ、それをまずは自覚しろ』
「そっ、そうなのか……」
羽織の言葉、これは新たなる認識を追加する際の常套甘言である。
なのだが、雫はそれを知らないらしい。素直に頷く。
羽織もあえてなにも言わなかった。
まあ、丸め込むための甘言ではあるが、それでも嘘というわけではない。
なにせ雫は風を御する魔益師。
風を御するということは、周囲の風の流れで感覚的になにかが空気中を動いたと知覚することができるはずだ。専門でもなければ完璧でもないだろうが、その知覚力は通常の魔益師のそれを軽く凌駕するといえる。
それを、たぶん雫は無意識でやっているのだろう。だが、それを意識的におこなえば、精度は著しく上昇するはずである。戦力が、一気に跳ね上がるはずだ。
とりあえず言うべきことは言ったので、後は雫次第。羽織は投げやりながらも一応最後に不備がないかを問う。
『これで話は終わるが……あと、なんか文句あっか?』
質問だろうが。雫は突っ込んだが、相手にされなかった。
ムカつきながらも、雫は一考。すぐに思いつく。
「そうだ、銃、拳銃だ。拳銃はどうすればいい? 拳銃なんてものが相手に回っては、回避できないぞ。貴様の策では一度は攻撃を受けることが必須のはずだ。その時に私はどうすればいい」
『ふん、“銃器の作製”か。そんなに速いか?』
「ああ、捉え切れない。一撃目は勘で、二撃目は雑な攻め方の隙をついてかわしてはみたが、次避けられる自信はあまりないな」
羽織は少しも考えず、断定的に告げる。
『風でなんとかしろ』
「……警戒ていどならまだしも、完全に命を張る状況ではやったこともない風では心もとないぞ」
『ち、しゃーねえ奴だな。
ならよ』
羽織は無問題だと言いたげに気安く、とある秘策を告げる。
『――そうすりゃ避けることくらいできんだろ』
「むぅ、本当か?」
『騙されたと思ってやってみろ。どうせ騙され慣れてるだろ?』
言い返せず、雫は口ごもった。
ブーメランの射手の視点から見れば唐突に、それでいて自然と平然と現れ出でた。まるで恐れていないという表情で、それが当然だとばかりに。
雫が矢面に立った。
射手が常人であれば、そこに一瞬の驚きと、些細な嘲り、それに膨大な警戒を抱くだろう。
遠距離狙撃を敢行されている最中で、なんの策もなく飛び出たのであれば単なる馬鹿だ。だが、戦士はそれを油断という。普通はなにか考えをもっての行動と推察する。
だが。
この射手の少女は、その全ての感情をもっていなかった。
ただ――
「標的視認、シュート」
機械のように脳に刻み込まれた戦闘パターンを反芻し、実行するのみ。
一度前と同じ速度で、二度前と同じ動作で、ブーメランは射出された。
標的は――まるで剣劇を始めるかのごとく、正眼に構えた。
飛去来器――飛来し飛び去る器械。
矢面に立ってすぐに、ブーメランは雫へと飛来、近接する。さきほどと完全に同じ軌道を通り、そのまま雫の横を通り過ぎて――そこに拳銃が作製、作製、作製される。
陣形もさっきと同じで、雫は銃器計八丁に囲まれる。その配置は同じで、しかし先ほどと変化がひとつだけあった。銃口が、全てバラバラの方角を示していたのだ。上向き、下向き、斜め向き。しゃがんでも跳躍しても、避けられないよう射線が工夫されていた。
そして一斉掃射。
人間生物には避けることなどできるはずのない弾丸が、雫へと殺到する。
だが。
刀を構えた雫の顔には、絶望の色はない。
「確かに――」
雫は思う。羽織の言葉の通りだと。
銃から発砲された弾丸は速い。避けようにも避けきれないほどに、恐ろしいほどに速い。人類にとって、速いと知覚できないほどに速い。
だが――しかし。
一条の斬撃は、もっと速い。
もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと。
もっと――速い。
羽織は言った。
『相手の攻撃を、一条の放つ斬撃だと思え。相手の存在を、一条だと思え』
経験した者にしかわからない、速度域。一度その身で体感したものを、思い出すようにして相手を見る。
つい昨日の戦闘だ。あの圧倒感だ。容易に思い起こせる。というか、あんな鮮烈な体験を忘れられるはずもない。
だからこそ、一条の斬撃とこの弾丸を比較することが、雫にはできる。比較してしまえば、弾丸は随分と遅く感じるのだった。
つまり、あの神速を経験したことのある雫にとっては。
あの神速の斬撃と比べてしまうことができる雫にとっては。
「この程度の高速、どうということはない!」
比較対象がどうかと思うが、確かに速度だけを見れば弾丸は一条の斬撃よりも遥かに遅い。ノロマと言ってもいい。
ならば避けられる。雫はその認識でもって、襲う八発の銃弾を全て避け切る!
――実はこの時、雫は無意識に風を使って弾丸の軌道を知覚していた。知覚しどこに身体を置けばいいのかを演算していた。このように認識と風が上手いこと相まったからこそ、回避できたのだ。ただし風に関してはあくまで無意識であり、羽織に言われた風云々の話を雫は覚えちゃいない。とはいえ羽織の言葉が脳内に残っていたために無意識でも能力が発現した、ということなので、刷込みには成功したといえる。
こうして少しずつ刷込みで能力を開花させる。羽織の狙いはそれだった。
脅威の弾丸を避けてそのまま、雫は全力で駆ける。
指針は既に役目を終え、主のもとへと飛び去っていこうとするブーメラン。雫はそれを追いかけるだけでいい。
「ち」
追いかけていることが、早くも向こうにバレたらしい。対処としてブーメランの軌跡から拳銃が作製され、即座に発砲。
だが、もう雫はそんな弾丸など恐くはなかった。
できると思うから、できる――ぶっちゃけ開き直り――自己認識の働きを意識せずに使い、雫は最小の動きで全弾回避。
そうして何発目かの弾丸を避けて、唐突にブーメランは常識的には考えられない曲がり方をする。そうまでして主の手元へと帰ろうとする。
ブーメランは、“投げたら必ず手元に戻ってくる”のだから。
雫はブーメランが曲がった瞬間に走力を加速。ブーメランを追い越し、その先の敵と
「見つけた!」
ようやくご対面。
そして電流のように、羽織の最後の忠告を思い出す。
――いいか。最後にもう一個、念頭にいれとけ。
相手は、驚くことに雫と大差ない年齢の少女。感情の少しも宿らない瞳をし、表情も固定された美しい人形のような少女――先の金髪の少女と印象が完全に一致する。
だがその外見以上に目を惹くのが、その白魚のような手に握られた
――おそらく相手は、ブーメランがなくても手ぶらじゃあねえ。
黒光りする、拳銃。
雫の存在を視認すると、少女は足を止め、ごく自然に流れるような動作で銃口を向けてくる。
そして刹那の躊躇いもなく引き金を絞り、発砲。けたたましい轟音が響き渡る。
とはいえ。
「あまり嬉しくはないが、な」
羽織の助言により予測の内であった雫に、被弾するはずもない。くるりと身体を捻って避け、その捻りを戻す勢いを利用。斬撃を、
「恨むなよ」
少女に叩き込む。
斬!
風を伴った痛烈な――けれども殺人の覚悟はないために峰の――一刀が、防ぐ手立てのない少女の意識を刈り取る。
――否、雫が勝手にそう思っただけだ。
ただし、この場合は雫を責めるわけにはいかないだろう。雫でなくても、誰であっても、この威力の一撃が人体に――それが魔益師だったとして――加わった場合には、気絶をしてしかるべきなのだから。そう確信を抱くべき絶妙の威力だった。
だが、果たして少女の瞳から光は消えていない。倒れず踏みとどまる。
雫は知る由もないが、その少女はある程度の痛覚と衝撃をシャットダウンできる改造が施されているが故。
そして、雫は気絶させることが前提だったために、ひとつの警戒を忘却していた。前方は、目の光を見つけ驚愕とともに二撃目を放とうとするほどの警戒を見せたが。
後方には、一切の警戒を失念していた。
「がっ、は――?」
完全なる死角から、忘れ去っていた一撃を叩き込まれる。雫の背中へと、ブーメランが飛び込んできたのだ。
衝撃は凄まじく、雫は頭がチカチカして吐き気がこみ上げてきた。上手く呼吸もできず、蹲りたくなる。
それでも、歯を食い縛って耐え忍ぶく。絶対に、刀を手放さない。
「ぐ、ぅう!」
「…………」
人形の少女は耐え忍ぼうとする雫に向けて、躊躇も慈悲もなく拳銃を向ける。引き金を引く。銃弾をぶっ放す。
――その敵意に、雫は完全なる無心で反応していた。
痛みで意識が混濁とする、感情が燃え盛る、思考が蝕まれる。
なにも考えられない。だが、本能は動きを命令してくる。だから、無思考であるがために、本能の命令になんの疑問も覚えず従う。
ただ敵対する敵手を、敵意をもって払う。
それだけ。
それだけの、単純なほど明快な行動原理で。
刀身は翻り、雫は少女を斬りつけていた。
峰ではなく、刃でもって――少女をぶった斬っていた。
「……ぁ」
雫は、その時に我に返る。自身のなしたことに気づき、酷くマヌケな声を漏らした。
赤い血が、視界を染め上げた。