第十一話 信頼
「嘘、だろ……」
雫の声はかすれていた。
信じられない情景に、喉が上手く機能しないせいだ。脳が拒んで認識しないせいだ。
目の前の敵。
それは見覚えのある、最悪の敵。
総身を黒いペンキにでも塗りたくられたような、漆黒の身体をした人型。ただし人ならば頭部がある箇所には、獅子を模した頭が鎮座していた。両の手に握るは短くも刃の威容をなくさない小太刀が二本。
ああ。
ああ、それは。
ああ、間違いようもなくそれは。
「武器を扱う、魔害物……?」
しかしそれはおかしい。
魔害物の姿かたち、形質、特徴は一個体ごとにまるきり違う。つまるところ同型の魔害物と偶然二日連続で遭遇するなどありえない。確立としてはゼロと言っていい範囲だ。それに武器を扱う魔害物という存在自体が、一体いただけでも驚愕だったのに、そんなに多くいるわけがない。
万が一にも、それは考えられない。
だから、やはり。
考えたくはないが。
「倒し損ねた、ということか……?」
「そっ、そんはずありませんよ!」
浴衣がそう言うのももっともだ。
条の拳は確かに魔害物を叩きのめし、その身の消滅はあの場の全員で確認したのだ。
だが。
「だが、こうして目の前に奴はいる。私としても消滅をこの目で見た手前、信じられないが……いや、違うな。今はそんな瑣末なことはどうでもいい」
「それは……はい、そうですね」
理由がどうであれ。この魔害物が昨日の魔害物と別であれ同じであれ。
現状においてはどうでもいい。
この魔害物によって隔離された場に、雫と浴衣のたったふたりしかいない。今はそこに焦点をあてるべきだ。
浴衣は魔害物を刺激しないようにポケットから携帯電話を取り出し、ディスプレイを確認する。
「ケータイも圏外です……羽織さまに連絡もできません」
「くっ、私たちふたりでどうにかするしかないということか」
増援も、以前のような都合のいい登場の期待もできない。
つまりは、この場はふたりで切り抜けるしかないということ。
魔害に侵された退魔師と、戦闘に向かない治癒師のたったふたりで。
「カタカタ」
渋面に染まる雫を嘲笑うかのごとく、武器を扱う魔害物――獅子頭は歯を鳴らす。
その仕草も、完全に昨日の魔害物と被る。
となると、強さも同じと考えるべきなのだろう。
それは不味い。不味すぎる。
獅子頭を相手に雫がサシで戦った場合、惨敗しているのだ。惨敗し、死に掛けたのだ。
今の状態では勝ち目がない。
それに加え、浴衣がいる。魔益師といっても、結局どこまでいっても治癒師でしかなく、戦うことができるなどとは到底思えない。
少々、酷い言い方だが、足手まとい込みで雫は勝ち目のない敵と戦わなくてはならないということだ。
どうすれば……。
雫は思考力に優れてはいたが、決して発想力には秀でていない。
つまり、戦況の分析はできても、逆境への対抗策は思いつかないのだ。
「わたしが囮になります」
「な……に?」
だから、そんな言葉が浴衣から発せられて、驚愕と期待が最初に沸きあがる。
「わたしが魔害物を引き付けておきますから、そこを先輩の風で討ってください」
前回の戦闘を見る限りにおいて、雫は近距離による剣術での戦闘は必ずしも得手とはしていない。
だが、中距離遠距離の風、あれは素晴らしい威力にして速度だった。二条の一撃に耐えられる魔害物に対して、一定以上の成果を発揮したのだから。
雫は剣術師としての腕は一流とは呼びがたいが、退魔師としては充分一流を名乗れる腕前ということだ。
なればこそ、雫には後方で十全に力を溜めてもらい、一撃を放ってもらう。それで打倒しえる――とまではいわないが、大きな隙を作るくらいはできるのではないか。結界に割いた力を、減衰させられるのではないか。
そういう作戦だ。
「馬鹿なことを!」
だが、脳が浴衣の言を認識した途端に、雫は拒否を言っていた。
「そんな、そんな浴衣にばかり危険を負わせる作戦などできるはずがないだろう!」
その通りだ。
まず大前提として、雫が力を溜めなくてはならない。そして、その時間を稼ぐためには誰かが真っ向からあの魔害物と戦わなくてはならないということだ。
それを非戦闘的な条家にして、魔益師の中でも非戦闘的な治癒師である浴衣に強いるだと?
そんなの無理に決まっていた。
非力さは先刻承知、浴衣は俯く。
「わたしは……昨日なにもできませんでした」
その非力さのせいで、ついていくと無理を言っておきながらなにもできなかった。
雫や条が命懸けで戦っていた時。羽織が直接的ではないにしても、勝利に貢献してみせた時。
自分は、なにをしていたのだろうか。
「なにもしていません。わたしはなにも、できませんでした」
「! そんなことは――!」
「ありますっ!」
雫が否定を言いかけるも、それを強く遮る。
それは自己の不甲斐無さを嘆く叫びであり、決意のための鼓舞であるのかもしれなかった。
「わたしが、引き付けます。先輩は、一撃をお願いします」
浴衣は持ち前の意志の強さでもって、自分の考えを曲げない。
その自己犠牲にも等しい考え方を、雫は痛々しく思う。どうしてこうも、自分を大事にしないのだ。
「どうして……」
心底困り果て、どこか泣きそうにも見える雫の弱弱しい声音に、浴衣が慌ててしまう。
「あっ、あの、大丈夫です! えと、これでも体術は羽織さまに仕込まれていますからっ」
「羽織に?」
いつでも傍にいてあげられるわけではない。どうしたって自分ひとりで危機に直面することはあるだろう。
だから。
羽織は浴衣に生き残る術を小さな頃から付きっ切りで指導してきた。
脅威を目の前にしても生き残れるように。絶望を敵にしても時間を稼げるように。
ゆるく息を吐き出し、浴衣は腰を落として構える。
「たぶんですが、時間を稼ぐくらいはできます――いえ、やってみせます」
決意のように、その白く小さな拳をグッと握り締めた。
その構えから、確かに冗談でもなくある程度は使えるようだが……雫は絶句してしまう。
既に浴衣は、自分が囮になることを確定していた。囮という自分に利はなくただ危険極まる行為をなすと、身勝手と言ってもいいほどに決意していた。
我知らず震える唇で、雫はどうにかこうにか言葉を紡ぎ出す。
「浴衣は……何故、出会って間もない私をこうも信用できるのだ?」
出会ってまだ二日。ちゃんとした会話など、今さっきのがはじめてである。そんな相手のために、自ら囮を買って出るという。
命を預けあうような戦場にも共に出たとはいえ、浴衣の信用度は高すぎるように思えた。
猜疑の心はないのだろうか。
逃げるとは、思わないのか。浴衣を見捨て、雫だけが生き延びようと走り出さんと、思わないのだろうか。
たった二日の関係性だ。普通に考えて薄氷のように薄く、木綿のように弱く、泡のように脆い信頼しかないはずだ。
なのに浴衣は囮になると言う。
静乃が言ったなら、驚きはしない。あの善人ならば確かにそれくらいは言うだろうと思う。
だが、浴衣のこれは静乃のような――羽織に言わせれば人間を逸脱するほどの――善意というわけではあるまい。
確かに善性を宿す心優しい少女ではあるが、そこまで極まった、違った思考回路をしていない。それは先までの会話で充分知れる。
言うなれば浴衣にあるのは、等身大の善意だけのはずだ。
そして、たった二日の信頼関係で、囮をするなんてのは等身大の善意を超越している。
ならばそれには理由があるはずで。
信頼には、原因があるはずだ。
静乃のように理由もなく人を――言ってしまえば信じたがるような性質はもっていないのだろうから。
浴衣は少しだけ困ったように苦笑して、けれども澱みはなく口を開く。
「それは……羽織さまが、疑っていないからです」
九条の人間は、全員漏れなく間違いなく――お人よしだ。
直系ふたりは言うまでもなく、傍系の者も、あまつさえ使用人さえもどうにもこうにも善人揃いときている。
屋敷内に善性を付与する謎の空気でも充満しているのではないかと、少々真剣に疑ってしまいそうな有様である。
だから羽織は、屋敷で唯一といっていい悪性だった。
そして悪意というものは、なにも根滅すればいいというほどに、世界は綺麗ではなくて。
善意には悪意をかえすような、悪意が善意を押し殺すような、そんな世界だから。
だから、お人よし集団の九条家はきっと酷く弱くて脆い。
そうなると、羽織はこのお人よし集団の中でも汚れ役を自動的に引き受けざるを得ない状況となってくる。弱くて脆い九条が、弱くて脆いままでいるために。
とはいえ、それは善意で引き受けているわけでは無論なく、というか素で汚れ役な性格なので羽織にストレスはないのではまり役ではあった。
つまるところ、なにが言いたいのかというと。
「羽織さまが疑い、羽織さまが警戒し、羽織さまが告発します」
九条の人間が、信じるに足る人だけを信じられるように。
信頼に信頼が返ってくるような人だけを、信頼できるように。
善性に微かの悪意の刺激も混入させないように。
羽織が徹底的に疑心する。悪意の欠片も残さぬように疑いて怪しむ。
あの嘘の塊のような人格だ、嘘を見逃すような真似はしない。
これまで、幾度も数え切れぬほどに人助けを敢行し続け――実は雫を助けたことだって珍しくはない――それでも悪意が九条家を襲ったことは一度もない。
純粋にありがとうと、そう言って別れる者たちばかりだった。何故ならそれ以外は、羽織が全て処理していたのだから。
「羽織さまが明確な敵意を示さない、わたしたちに警句を告げない――それだけで、加瀬先輩は信頼に値する人です」
浴衣は、信頼する羽織の判断を微塵も疑ってはいない。一切の疑念の余地もなく、羽織を信じている。
だから、雫にも同じだけの信頼を寄せることができる。やはりどこまでもお人よしな思考だが、その論拠はどこか打算的なものに思える。
ベースは善性の化身たる静乃だが、育て上げたのは悪性の権化たる羽織である。九条 浴衣の人格、一筋縄ではいかないのかもしれない。
雫は深く深く首肯する。ああ、納得だといわんばかりに。
「……信じる者が疑わない、だから信じれる、か。疑うようなことを言ってすまなかった」
「では、行きます!」
「って、いやそれはダメだ!」
それとこれとは話が別。雫は制止を叫んだも、浴衣のほうが一歩速かった。
跳躍のような走法で、さらりと魔害物と隣接。動作は速くないが、軽やかで技巧的な所作といえた。
「!」
驚いたのは獅子頭。
視認はできていたが、自然な歩法ゆえに気にかからなかった。いきなり目前に現れたような印象だ。
咄嗟に振りおろす斬線。浴衣は脱力した体でその太刀を引きつけ、ゆらりと右斜め前方に踏み込み避ける。
獅子頭の左手が弾かれたように振りあがり、視線も向けずに横の浴衣へと太刀が迫る。
右足を軸に、浴衣は旋回。くるりと回りながらさらに前方へと踏み出すことで、小太刀を避ける。一回りすることで獅子頭の背後をとることに成功。直後、背より生え来る第三の腕。
前回の戦闘で見た技――浴衣は驚くこともなく、また旋回。
まるで舞踏のように、華やかに獅子頭を翻弄してみせる。
「カタ」
一度だけ歯を鳴らし、獅子頭は振り向き様に小太刀を振るう。
一歩後退していた浴衣には、刀尖が目前で通り抜けるのみ。
だが獅子頭と正面で相対してしまった。獅子頭は、ここぞとばかりにギアを上げる。浴衣の細身を捉えきれる速度へと加速する。
――離れて見ていた雫には、銀閃だけしか見えなかった。
乱剣疾走。
牽制もなにもなく、全て命を狙う殺人剣。それが瞬く間に七撃――掛ける二!
計十四斬撃を、正面から避けて見せる。ゆらめく柳か、遊覧する雲のように、いやそれとも、ステップを踏む鮮やかなるダンスのように――避けて避けて避け倒す。
「まさか!」
雫は刀を手首で回しながら、その現実に驚倒を隠せない。
当たり前だ。速度が全然違うのに、高速に対抗して浴衣はいっそ緩やかだというに、浴衣は生きている。
なにが起こったというのか。なにをしたというのか。
――羽織は浴衣を鍛えた。
とはいえ、運動能力に特別優れているというわけではなく、精神性も戦闘に不向きな浴衣だ、真っ向から切った張ったの立ち回りはできない。
だから、浴衣は立ち向かえる者ではあっても、決して戦闘者ではない。
そもそも羽織から教わったのは戦う術などではなく、生き残る術。
敵を打ち倒すことなど元より思考外、とかく死なないこと、怪我しないこと、痛みを負わないこと――それにのみ専心する。
だから、攻め立てるようなことはしない。あくまでも回避に徹して、警戒観察を貫き、死から遠ざかることにのみ終始する。
簡潔一言で言うと、回避の方法である。
身体はまず、ひたすらに舞踊の動きを叩き込まれた。人間生物において無駄の少ない動きを叩き込まれた。
そして、念頭に置くべき基本的かつ最重要なポイントのふたつを、無意識の条件反射となるまで頭に刷り込まれた。
ポイントのひとつは、攻撃の誘導。
自ら隙をさらけ出し、そこを狙うように仕向ける。視線や重心を操り、無駄な攻めを誘発して空回りさせる――相手の挙動の掌握。
またもうひとつは、回避の先だし。
稼働の始発を見て、自分に届く様を先読みする。視線や筋肉の動きで狙い目を察し、安全圏に身体を置く――自己の行動の調律。
そのふたつを可能にするのが、羽織により幼少より鍛え上げられた見定め、見極め、見切る目。
先ほどの斬撃乱舞――半数以上が無駄振りで、もう半数は太刀筋が平易だった。
いくら武器を持ち出しても、やはり獣。誘導が容易い。
鋭く尖る刃を作り出そうとも、剣を握る手を構築しようとも、高速で振るう膂力を擁しようとも、知能が低くては宝の持ち腐れに過ぎな――
「っ!?」
バックステップで距離をおいた途端に、滲む血色。
右手の甲、肩、頬――気付けば三箇所で浅い傷が描かれていた。
「完全に、避けきったと思ったんですが……」
「カタカタ」
「やっぱり、手ごわいですね」
浴衣の頬に、嫌な冷や汗が伝う。
喉が干からびて、緊張に膝が折れそうだ。
浴衣だって実戦経験はある。あるが、治癒師という役柄、サシなどというシチュエーションにはそうそう出くわさない。たったひとりで自分を容易に殺せる敵と正面切って相対した経験は、残念ながらこれがはじめてである。
震える手のひらを握り、手汗を感じる。
「恐がるな……!」
小声で、誰にも聞き取れないように呟く。
恐怖にあっては死するのみ。
わかっていても震えるこの身の弱さが情けなかった。
この脅威に、雫や条は怯えず怯まず向かっていったのか。それはどれほど勇ある行為なのか。
ならばやはり、ここは浴衣の戦場だ。
「わたしだけが、逃げたりはできませんっ」
声には力が宿り、魂には形が生じる。
魂魄の具象化。
浴衣の細く白い人差し指に、魂が物質として巻きつく。
それは指輪。雪を溶かしたような白銀の円環。魂で構成された唯一無二の金属の輪。
九条 浴衣の魂の具象武具。
優しく柔らかい――笑顔のように朗らかな微光を指輪から発することで、速やかに浴衣は自身の傷、それに裂かれた衣服をも癒す。
浴衣は戦闘者ではないので、痛みへの耐性がかなり低い。だからどんな軽傷でも所作の阻害となる可能性があった。
そのため、処置は手早く過剰なほど。
九条の能力“存在の治癒”は強力だが、万能では無論にない。下手に攻撃を受ければ、発動の間もなく意識を失う恐れもある。
どうしたって、浴衣は戦闘向きではないのだ。
だけどそんなことはどうでもよく。
「まだ、わたしは戦えますっ」
「カタカタ!」
歓喜に歯を見せ付ける獅子頭は、決意の声に応えて浴衣へと駆け出した。
「……っ。……っ!」
その戦闘風景を、ただ眺めることしかできない雫は唇を噛み切るほどに噛み締めていた。
こんな。
こんなにも手出しができないという状況は辛いのか。ただ見ているだけの状況は痛いのか。
どこまでも歯痒く、果てしなくもどかしく、どうしたって心配だ。
戦っている者は、そういう意味では気楽だ。戦闘に全神経を集中しているのだから。自己の身なのだから。
自分じゃないからこそ、辛くて痛い。なにもできない自分が不甲斐無くてしょうがない。
どうしようもなく不安で、胸が破けてしまいそうだった。
以前の戦闘――浴衣はこんな心情の中で耐えていたのかと思うと、雫は愕然とする。
自分は今すぐにでも走り出し、加勢したくてたまらないというのに。待ってなんていられそうにないというのに。
浴衣は堪えたのだ。
その事実が、ギリギリのところで雫の足を止めていた。
雫は目を逸らしたい気持ちを抑えつけ、現状を俯瞰する。
浴衣の卓越した回避動作にのみ特化した体捌きは踊るように軽やかで、一切の掠り傷も受けやしない。
それでいて魔害物の意識を引きつけ、引き受け、時間を稼ぐ。
しかし、一歩間違えばすぐそこに死はある。
雫は踏み出しそうになる自分を叱咤し、自分の役割を果たせばそれで終わると言い聞かせる。
この現状を打破するために、雫は自分の仕事を遂行しなくてはならない。
浴衣の作戦通りに、魔害物を打ち倒すだけの一撃を用意する。それが遅れれば遅れるほどに、浴衣を危険に晒すことになるのだ。
――先ほどから、雫は刀を手首でくるくると回している。
これは、刀で空気を掻き乱すことで僅かな風を作り出し、それを拡大、集束しているのだ。同時に周囲の風も集め、刀へと宿す。
時間をかけていいのなら、これが雫にとって最大の攻撃力を生む戦技だった。
それが今の雫にはじれったくて仕方がない。焦って上手く制御できない。
その上、魂がブレて能力がいつもより鈍い。綺麗にまとまらない。
害なす魔が魂の活動を邪魔しているせいだ。もとより焦っているのにそれでさらに焦って、また時間がかかるという悪循環。
「早く、早く、早くっ」
思っても思っても、それは逆効果。
雫は自身が焦っていることにさえ気付けず、常時より遥かに溜めに時間をかける羽目となる。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
数分間にも及ぶ一方的なこの戦闘で、驚くべきことに浴衣に傷はない。高速の刀を繰る魔害物相手に、浴衣は確かに善戦していた。
だが、呼吸が荒れ、発汗は激しく、制服はところどころが裂かれていた――常に動き回り、能力を何度も何度も行使したせいだ。体力と気力が疲弊し切っていて、制服がそのままなのも、服まで再生する余力がないのだ。
見かけからして劣勢だった。
魔害物には疲労などないのだから、このままいけば敗北は必至といえる。
また直接には戦闘に関係しないが――もうひとつ驚愕すべき事実として、浴衣は一度も振り返っていなかった。
一度も、である。
それは雫への信頼の証で、一切の疑念もなかった。
それがまた雫の焦りを助長しているのだが、そんなところまで思考を回せる余裕はない。
「カタッ、カタッ」
リズミカルに振るわれる銀刃。魔害物は自分の攻撃が全て無為となっているこの状況ですら楽しんでいた。
避けられ、それでも攻め立てる。距離をおかれ、それでも向かう。すり抜けられ、それでも振り回す。
ここは知恵なきモノの長所がでた。
人間ならば苛立ち腹をたて、無闇に太刀が大振りになり、遂には疲労が訪れ剣速は勢いを失うだろう。
だが魔害物には苛立ちなどというそんな高尚な思考はなく、ただ戦闘行為を楽しんでいるだけ。勝つことが目的ではないからだ。戦うこと自体が目的だからだ。単に戦っているのが楽しいからだ。
そのため剣は常と変わらぬ振り捌きで、乱れなどない。常態と同じか――戦闘への興奮からますます斬撃は研ぎ澄まされている気さえする。
その上、魔害物には疲れというものがない。
何故なら奴らは害なす魔だけで構成されているために、肉体よりも精神が優先されている異形なのだから。特に今回の魔害物はかなり高揚していて、戦闘という愉悦以外は心象に存在しないだろう。そう、自分が動けなくなるなどと、そんなことを一刹那でさえ及びもつかない。それが故に、駆動に限界は存在しない。体力は真実の無尽蔵。
楽しみ過ぎて、斬撃に遊びが入り混じり避けやすくなっているのはせめてもの救いか。
「っぅ!」
避けたと確信したのに、右肩を裂く一閃。動きが鈍ってきているのか、動きが速くなってきているのか、判断はつかない。
浅い傷。だが痛みは走った。ほんの僅かな隙が生じる。右の小太刀が横薙ぎに浴衣の首を狙う。頭だけ逸らしたのでは回避は不能、ならばと上半身でスウェーバック。
「カタ――リ」
そのまま刃が通り抜ける――と思われたが、停止。
「!」
小太刀の向きを変え、刃は下向く。
上体を逸らしきっているがために、浴衣は動けない。刃は首の真上で、あとは落下すればそのまま命を絶つ。
咄嗟に、浴衣はそのまま後ろに倒れこんだ。
背から着地し、そのまま転がる、
無様なほどの生き足掻く意志は美しく、死への逃避は尊いもの――とかく死ぬなと羽織にはきつく言われてきた。
だから足掻く。転がりながら魔害物から遠退こうとする。
「カタ」
ズン、と脚の一歩が進路を踏み締め、回転はぶつかって停止する。魔害物は小揺るぎもせずに笑う。
そこで交じり合う視線。
視線の交錯により、溢れ出す恐怖。掻き立つ畏怖。その狂気に彩られた魔害物の瞳は、それを直視しただけで死すらも幻視する。
諦めるなと心は叫んでも、身体はついてこない。魔害物の瞳に射抜かれた絶望に、脳は諦観し身体の停止を命じたらしい。
そして振り下ろされる銀剣。
絶対に敵から目を逸らすな、死ぬまで目を閉ざすなと言われていた――恐怖には勝てずに目を閉じて。
「そのまま伏せてろ、浴衣!」
声が、聞こえた。
「っ――はい!」
瞬間、なにかが浴衣の上を通り過ぎた。不可視ではあったが、その力の強大さ故に駆け抜けるなにかを感じた。
それは強力鋭意なる刃を模した、荒れ狂う暴風だった。大型の台風ほどの巨大風力を斬撃サイズにまで体積だけを縮め、密度を極限まで突き詰めた至高の一撃。
攻撃動作をとっていた獅子頭には身じろぎすらできずに直撃し、爆風が破裂した。風の刃が身体の深部まで食い込み、そこで風力の限りを解放したのだ。それは、言ってみれば内側に台風が発生するようなものだ。
外部を斬り砕く刃風と、内部を掻き乱す剛風。二段構えの雫の最大技だ。
膨れ上がり、外へと吹き出さんとする風の乱流に、内から食い潰されてもがく魔害物。やがて風圧の暴威に耐え切れず――魔害物は、消滅した。
「なっ――馬鹿な……!」
そのことに、斬撃を放った本人が一番の衝撃をうける。
この程度の一撃なら、耐えると思った。魔害物は笑い、向かってくると思った。
雫の全力は、条の一撃と天秤にかけて、どちらが強いかとなると質が違うので一概には言い切れないが、そこまでの違いはないはずだ。だから条の拳を耐え抜いた魔害物を、これで倒せるなどとは思っていなかった。
だというのに、消滅しただと?
思えば浴衣を斬りつける動きも、昨日と比べるとキレがなかった気がする。
「昨日の魔害物よりも、弱い?」
そうなると、腑に落ちる仮説がひとつたつ。
やはり、こいつは倒し損ねた昨日の魔害物で、ダメージが残っていたのではないか?
最初は否定した仮説だが、今なら頷ける気がした。
と、思考を回していた雫だったが、ふと浴衣が起き上がってこないことに気付く。
「! 浴衣っ!」
急いで駆け寄り、膝をついてその顔色を窺う。
浴衣は疲労の滲む様子で、それでも弱弱しく笑んだ。
「えへへ、すみません。ちょっと、動けません」
「いや、よくがんばった。
……すまない、こんなになるまで戦わせて。私がもっと早く――」
「勝ったんですよ? 喜びましょうよ」
雫に自責を言わせず、浴衣は先回りした。疲れから頭が常時よりも回らないだろうに、気遣いばかりの少女だ。
雫はそれに応えて作り笑いを浮かべ、力強く頷く。
「そうだな。私たちふたりの勝利だ」
言葉に、浴衣は満足そうに微笑した。
気付けば周囲は元に戻っており、魔害物の結界は消滅したらしい。ならばやはり、今度こそ魔害物も消滅したのだろうか――?
確定はできずに、雫は立ち上がる。
「ともあれ九条家に向かおう。報告と浴衣の療養だ」
「はいっ」
雫は動けない浴衣をあっさりと抱きかかえ、それに驚く浴衣を無視して急ぎ九条家へと走り出した。
どうやら、厄介ごとはまだまだ終わらないようだ、と思いながら。