第九十八話 ありがとう
「ち、なんて化け物だ!」
「これだけの戦力で挑んでも平然としてるなんて……」
もはや百の魔益師の魂全ては学習された。どんな刃も炎も破壊も受け付けない。限りなく無敵に等しい悪鬼の如く強大なる魔害物である。
こちらの攻撃は一切通じぬ中で、魔害物は進軍し続ける。手近な奴から葬り、逃げ遅れた奴から消していく。
それはまさしく死の行進であり、死神の散歩。誰も妨げることはできず、追いつかれてしまった者から冥府に落ちるのみ。
あそこまで次元違いの存在だとは、“黒羽”の魔益師たちは想定外過ぎだ。既に幾人かは逃げ始めている。戦線離脱、背中を見せてともかく怪物から逃れようと必死だ。
しかし、
「それで逃げ切ったとして、どうするつもりかね」
「さて。あれに人類が全滅させられるまで家で震えてるつもりじゃないかな」
ここで逃げ出せば、もう二度とあれとは戦えない。魔益師の認識として、絶対無敵とあれを思ってはいけないのだ。
かと言って光明はなにもなく、どこにもない。
ここで馬鹿みたいな意地に従って立ち向かって死ぬのも、逃げ出した輩と大差はないだろう。
「ほんと、困ったもんだわ」
「困ったね」
もはやどうしようもないのでは、そんな絶望的な現状にお手上げだ。ほとんど現実逃避のように、彼は空を見上げた。
だが――奇跡というのはおこるもので。
話していた“黒羽”の一人、織部 八雲は天を仰いだ拍子に笑い出す。
「あ、はは。あはははははははははははは!」
「ん、どうしたのさ」
「いやぁ、逃げるか衣弦」
「は? いきなりどうしたのさ、恐怖で壊れたの?」
「ちげぇよ。当たり前のことなんだよ。だってほら――人間、嵐がやってくると知ったら、逃げるもんだろ?」
「え?」
高倉 衣弦は、わけもわからず八雲のように空を見た。
「策がある、なんて強気に言っても実際のところは馬鹿みたいに簡単な話だ」
魔害物は魂魄を学習する。二度目の能力をすべて無効とする。それは絶対のルールであり、覆せない理だ。
――故に一撃で滅ぼす。
そんな単純明快な理屈である。そして羽織はそんな単純な理屈を可能とするだけの能力を求めていた。ずっとずっと、四百年間探していた。
結局それは見つからなかったけれど、その代わりに見つけた少女がここにいる。
当の雫はよくわかっていない。治癒を受けている真っ最中の羽織に疑問を投げる。
「だが、どこからそんなのを持ってくるんだ。最強たる一条様の一撃でも駄目、羽織ですら駄目。それでこの世界にあれを倒せるような一撃なんて……」
「人間だから勝てないんだよ。あんな災害、個人っていうか人類が相手どるべき存在じゃねぇのさ」
人類の内で最強たる個ですら勝てない。寄せ集めた数でも勝てない。
ならば。
「――この世界そのものをぶつける」
「はぁ?」
「わかった、悪かった。ちょっと気取った言い方した。要はつまりがお前だ。お前が操る風だ」
「私の操る、風」
確かに風はこの世界のものだ。雫のものではない。個人のものではない。人類のものですらない。
それを、ほんの少しだけ借り受け制御する、それが雫の魂魄能力である。
「風を作るだのなんだのじゃあ無理だが、制御なら――もしかしたら勝てるかもしれねぇ。ほんの少しなんて言わず、この世に流れる風をどこまでも借りることができれば、或いは届くかもしれない」
「無茶だ! 私の風なんか、理緒姉ぇにも逸らされた。一条様だって斬れるだろうし、羽織、お前にも通じない」
「お前ひとりの集められる範囲ならな――おれに任せろ。この世全ての風を、お前の制御範囲内に持ってきてやるよ」
「…………」
絶句。
つまり、羽織は風を自分の能力で雫にまで転移して、その集めた膨大な風全てを制御しろと、そう言っている。
「どっ、どれだけの規模の風になるんだ、それは」
「知らん。もう果てしなく無限に近い数字じゃね?」
「それを、私が制御しろと、そう言っているのか、お前は」
「がんばれ」
「っ!」
無茶苦茶すぎる! そりゃ雫の力はそういうものだ。だが、今までとは規模が違い過ぎる。桁外れ過ぎる。次元を逸している。
そんなの、制御できるはずがない。暴発して暴れ狂って、それでお仕舞いだ。
もはや恐怖に震えるように、雫は食ってかかってかかろうとして――羽織にぽんと叩かれる。そんな無茶も苦茶も承知で、羽織は雫に告げる。ただただ一言。
「――お前ならできるさ、なあおれの剣」
「っ」
「おれも極力手伝う。横にいてやる、ずっと傍にいてやる。お前の負担の三割程度に過ぎんかもしれんが、引き受けてやる」
そして思い出す。先ほどの言葉を、覚悟を、決意を。もはややると言ったのだ、ここで否定はありえない。
前言撤回の馬鹿野郎になりかけていたことを恥じ、雫は無理だと叫ぼうとした口でこう言った。他になかった。
「……わかった。やる」
おそろしくちょろい奴だな、とか羽織の口元が動いた気がするが気のせいだろう。
ゆっくりと手を解き、どんと背中を叩いてやる。
「さて雫、腹ぁ括れ。魂燃やせ――やるぞ」
「あぁ……お前とふたりなら、なにも怖くはないさ」
そして、朗々と唄がはじまる。
雫の唄が。雫だけの唄が。
『――私は、一本の刃。
其は愚直に伸びる殺傷の錬鉄にして、風と嵐とを従えし退魔の刃金。
胸に突き立つ輝けし不屈の誓いなり』
まずは全力をだすための下地がいる。
最強の幻想に届かせる裏技技法――“魂魄賛歌”。
『しかして私は、気付けば冷たい枷に縛られた威を成さぬ鈍に過ぎなかった。
枷は重く、哀しく、世界を狭めて私を地に落とす。
枷は強く、寂しく、自由を奪って私を地に縛る。
故だからこそ――私は私の枷を砕く』
四百年前の一条が開発したこの技が、再びこうして再現される。
そして、きっと世界を救う最初の一手となりうるのだ。
『自由を奪う我が枷よ、刃をもって砕け散れ。
世界を狭める我が枷よ、刃をもって斬滅せよ。
魂を弱体させし我が枷よ、刃をもって強さと変われ』
時に、この“魂魄賛歌”という技法。その魂を詠うこの詠唱には、定型はない。
故にその時その時の魂の熱意によって、その詠唱が変化することもままあるという。
『人を殺すが刃の運命ならば、人を救うは刃の願い。
さあ行こう、歩むための刃はここにある。叶える刃は胸にある。
枷はとうに砕かれた――既にお前に縛りはないぞ! ならば風のような自由とともに――きっとどこまでも行くがいい!!』
不意と、唄にはさまれるのは少女の何より大事な思いの一欠けらか。
「羽織、ずっと、ずっと言いたかったことがあるんだ」
『魂とは――“担い手を願う刃”なり!!』
――ありがとう。
一方で羽織は片っ端から風を掴んではもってくる。
転移、転移、転移。
そこに在り、あそこに在り、あらゆるに在る風を奪いとり、鷲掴み簒奪し、一本の刀に注ぐ。ぶちこむ。容赦なく。
羽織の暴力的なまでの転移に、世界が少しずつ歪んでいく。元の形を奪われて、軋んだ世界と大気が悲鳴を上げる。
そこにあり、どこにでも遍在せし風を奪えばどうなるか。
奪われた箇所を、取り戻すように他から持ってこようとするのだ。さらに羽織は埋めようとしているものすら喰らうので、ここら一帯の上空ではさらに凄まじい勢いで嵐の如く渦巻いている。
それだけでもひとつの災害。収束による暴風の流出と言える。
だが、それは全て前置きでしかない。羽織は荒れ狂う風をさらに転移し雫へと渡していく。
「……っ」
元々膨大な魔益を保持し、十門当主から奪い取ったが、それもキョウスケとやりあった際にだいぶもっていかれた。今は勝手に周囲の奴ら、“黒羽”の奴らから魔益を搾取しつつ風をかき集めている。
風に質量はないし楽かとも思ったが、そうでもない。というか量が膨大過ぎる。ひたすら休みなく、この世にある風全てを転移しようという暴挙だ、当然に困難極まる。
能力の連続行使。集中力をすり減らす神経質な作業。魂魄を削るような大容量の転移。
血へドを吐きそうだ。内臓腑をグチャグチャに掻き乱される心地だ。魔益が尽きたわけでもなく、ただ能力の行使に疲弊し身体と魂が拒絶反応を起こし始めたのだ。
常識外れに連続的な能力行使。魂魄を狂ったように稼動させ、この世界を転じ続ける。奪い続ける。
――そして羽織の苦痛の、その数倍ほどを、少女はその細身で請け負っている。
「く……っ」
瞑目して刀を構える雫の表情が歪んでいく。莫大な風が支配しようと必死こいているのだろう。いつものように真っ直ぐに。
この馬鹿ががんばっている以上、羽織が泣き言なんて言えるはずがない。
巻き込んだのは羽織。焚きつけたのも羽織。隣にあるのも羽織。
ならば羽織ががんばるしかない。雫以上にがんばって、精一杯こいつの負担を奪っておくとする。
――おれを助けるなんて百年早いと教えてやる。
「やってやれ、雫。お前の全部、見せ付けてやれよ――おれに、見せてくれ」
羽織のような年月の積み重ねもない。一条のように最強でもない。緋美華の阿呆のような執着心もない。
――その愚直さの行き着く最果てを。
そして――
「っ!」
遅まきながら、キョウスケもそれに気づいた。途轍もないなにかが、今ここに収束している。甚大なるエネルギーが、ここに掻き集められている。
魔益師たちはその予兆の段階で既に撤退を開始している。これはまずいと逃げている。人間のほうが恐ろしいものへの感性が敏感だったか、それとも魔害物のほうが強くなりすぎて脅威に鈍くなっているのか。
どうにせよ魔害物は歓喜する。歓待する。大笑いする。
「はは、はははは、あははははははははははははははははははははははは!
そうか羽織、まだなにか隠しておったな、これが本当に最後の切り札か! いいぞ、飽きさせんな貴様は! それでこそ四百年我を封じた魔益師だ!
来るがいい、どんなものでも――打ち破ってみせよう!」
「じゃあ、遠慮なく行くぞ」
現れたのは羽織ひとり。やつれ疲れ果て、今にも倒れてしまいそうな、魔益のほとんどを失った男だった。
その不様に、キョウスケは顔をゆがめる。どういうことだ、なぜお前はそんなにも死にそうなのだ。
「なんだ、その腑抜けた魂は。魔益はどうした、そんなザマで我が前に立つというのか?」
「別にいいんだよ、おれの全部は別に託したんでな」
「ほう? 貴様が、託すだと? 貴様以上に我に向かい合える魂があるというのか?」
「さあ、どうだろうな――けどまあ、お前みたいな怪物を倒すのは、おれみたいな奴じゃなくて、きっといつだって飛び抜けた馬鹿なんだよ」
手の平をかざし、魔害物に向け――転移。
「む」
それはキョウスケの背後。羽織はそこで魔益を使い尽くしてぶっ倒れる。
「なにを――」
それは同時に二回の転移を行使したから。
「っ!」
「――破ァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアア!!」
キョウスケが再び前に向き直れば、そこには刀を振りかぶる少女が眼前に迫る。羽織に転移され、現れ出でた加瀬 雫が咆哮する。
背後の羽織に気をとられ、正面は一瞬おろそか。
雫はそんなの構わずただ斬撃。一心に、一点に、一撃に、全てを乗せる! まさしく一撃入魂!
狙うは――
「一条様が穿った、その傷だァァァァァァァあああああああ!!」
線をなぞるように、針を通すように――膨大な力を刀一本に凝縮して、その傷を断つ。
この世あらゆるから掻き集めた風の束、それを喰らい呑み込み圧縮した刃。その威は地球をも断ち斬る可能性をもった至高最上の太刀である。
どんな嵐をも超えて、台風暴風凌駕する。神の指とされる最強の竜巻すらも突破して、きっとそれは神すら吹き飛ばす真なる神風!
「魔害物! これが私と羽織の全力だ、受けてぶっ飛び消えて去れ!!」
「はははっ! 消えぬさ、去らぬさ、もっともっと戦え、羽織を継いだ女よ!!」
もはや小細工なき真っ向からのぶつかり合い。
神風乗せた斬撃と、神すら落とす魔害物。究極と絶対の矛盾激突のようにその衝突は熾烈、壮絶、凄絶だ。
しかし、しかし雫は歯噛みする。
刃は腹に斬り付けている。綺麗に上手く斬り込むことができた。完全に雫の攻め込んでいる形で、魔害物はただ攻撃を受け入れている。
そしてその状況下でなお拮抗なのだ。
「くっ!」
「ははっ、ははは! 我を斬り伏せてみせよ、人間!」
なんて常軌を逸した化け物だ。
圧倒的有利な状態でも倒れず、笑って、どころか打ち克とうとしてくる。押し返そうとしてくる。
だが、それは油断で、人が人外に突きうる隙で、故に絶対に逃さず喰らいつかねばならない。雫は舐められていることを自覚し、それを受け入れて、勝利を掴むために全力を尽くすのみ。
「貴様は笑っていろ、その笑みのまま――滅ぶんだ!」
「滅ばぬ、我は滅びはせん! この愉悦を喰らい続けるのだ、絶対に、負けん!!」
ぞくりとするほどに、狂的な笑みをキョウスケは浮かべた。
そして膨れ上がる魔害の威圧感。雫の刃が、僅かに押し返される。
「くっ」
「確かに凄まじい力、そしてそれを刀一本に収束する制御力――あぁ、その分野にかけては天才の域にあろう。だが、我には敵わぬ、届かんぞ人間風情がァ!!」
「――お前の弱点はそれだよ、キョウスケ」
「「!?」」
熱くぶつかる雫とキョウスケを、嘲笑うかの如き割り込んでくる声
それは羽織。キョウスケの背後に立ち、薄ら笑う羽織である。
「すぐに油断して一撃を許す。四百年前のおれに、現代の雫に。それで学習できるんだから、まあ一発受けるのもわからんでもないが――」
その油断でお前は負けるんだ。
「後ろがら空きだぜ――おれがいるのはわかってたはずだろ? そうやってすぐ熱くなって周囲を見失う、進化しても魔害物だな」
「はおっ……羽織ィィィイ!!」
馬鹿な、貴様は魔益を使い果たし倒れてしまったはずだろう。全てをこの娘に託したんじゃないのか。
「阿呆。決着はこの手でつけるに決まってんだろ」
雫で勝てるならそれで問題ないが、やはり決定的に殺し尽くせはしない。だから、わざと魔益をカラッポにしてもう戦力外と印象付けた。
「おれはもう魂魄能力を使えない。だが、おれと同じ能力をもった奴がもうひとりいたよな?」
「先ほどの、女かァ!」
そう、リーレットである。彼女の魔益を、彼女が“万象の転移”で全て羽織に移した。その後は羽織が転移を繰り返して魔益を回収、吸収――一撃の拳に固めた。
今度こそ、これで全部だ。逃げようとした“黒羽”の連中はそこらへんでぶっ倒れている。回復のために付き添ってくれた浴衣や一刀、八坂ももう立ち上がれない。この屋敷内におり、ここに来なかった条家十門の者どもからも限界まで奪った。
正直、どちらが害悪がわからないほどに人々から魔益を喰らい、羽織はこうして立っている。
「トドメだ、キョウスケ」
「くっ!? まだ――」
「私を忘れるなよ、魔害物!」
羽織に気をとられ、動揺した瞬間を狙い、雫は一歩踏み締める。刃を深く突き刺し、斬り裂かんと風を御す。
雫にとっても羽織の立ち上がりは予想外で、また騙されたといったところ。敵を騙すにはというが、今回雫を騙す必要性はなかったろうに。
それでも雫が一切動揺なく踏み込めたのは、ひとえに騙され慣れていたからだろう。
「ち――くっ」
無論、逆に雫に気をやれば――背後の羽織の拳を避けられるはずもなく。
どがんと、最後の拳がぶちかまされる。打ち抜く弾丸の如き素早く、弾ける爆撃の如き力強い、拳。
キョウスケのがら空きの背中に、突き刺さる。
「ぎぃぃぃぃいい!?」
神風の刃と単なる魔益をこめた拳。
その挟み撃ち。
ただ一方からの攻撃なら耐え切る自信はあった。反撃して逆に討ち取ることもできた。彼は化け物だから。
だが、前方後方から同時に打ち込まれては流石にどうしようもない。反撃できない。そんな余裕もなく自己の維持で精一杯。なにせ神風も拳打も威力を逸らさず流さずキョウスケの一点――核にのみ一点集中してやがる。
これだけ膨大な力を、全て統べているということ。この人間どもが!
「てめぇは最強だがな――やっぱりひとりなんだよ。化け物だからな」
雫の刃を作ったのは羽織と雫のふたりである。
羽織の拳を作ったのはこの場の多くの魔益師たちである。
人間の強さは、いつだって数の暴力に他ならないから。
故に。だからこそ。
「たったひとりの化け物は敗れる」
ぴしり、と。
なにかが割れる音がした。
それは雫の刀か、それとも無理に稼動し続けた羽織の魂魄――それとも。
「ふ、ふははっ。ふははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
笑う。笑う。魔害物が笑う。
壊れたように。焦がれたように。笑って笑って呵呵大笑。挟まれ斬られ打たれて、なお笑う。彼にとって、笑みだけが唯一最大の感情発露の方法だったから。
不意と笑みが刹那だけ途絶える。一言だけが、酷く真っ直ぐで。
「あぁ羽織……そのようだ。我の敗因は、きっとその差だろう」
そしてキョウスケは、再び笑って笑って笑って――その笑声だけを残して、ぼろぼろと消え去った。
自らの敗北を認めることで、自ら消滅した――それは、魔益師の認識による死と同義のものであった。
人型の魔害物は、最後の最後で、人を進化し魔益師としての境地に立ったのかもしれなかった。その死と引き換えに。