第九十六話 転移
「か……はは」
哄笑は、遠くどこまでも轟き響く。
それは人外なる者が歌い上げる呵呵大笑。笑みという形式をとった害悪の散布である。
「はははははははははははははははははは! やはり一条! 貴様らは素晴らしいな!」
笑う魔害物の胴体は、深い深い斬痕が刻まれていた。人で言えば致命傷、通常の魔害物でも消滅寸前と言える圧倒的な死を臭わせる傷跡である。
だが。だが。だが――それでくたばるならば世界は怯えたりしない。
「まだまだ、我はこの程度では死ねんなぁ」
「なん……だと……」
そして傷は再生する。膨大な魔害が傷を埋め、癒し、元通りへと回帰する。
全力の一撃だった。命をかけ、人生で唯一の太刀まで使って――なお生きるか。平然と笑ってのけるか。一条は愕然とする。
「そう驚くな、魔害物の再生力は知っているだろう? この身は人に近づきなれど、その真実は魔の塊ゆえな。なに、貴様が弱小であったわけでは断じてない。ただ存在の格の違いよ。貴様は所詮、人でしかないのだ」
「くっ……!」
「やめとけ」
なお諦めずに刃を振りかぶろうとした一条に、後方から静止の声。羽織だ。
「もういい、もう充分だ。一条、お前は退け。無為に命を散らすもんじゃねぇ」
「だがっ、羽織!」
「この喧嘩は、もとからおれのもんだぞ。お前らの矜持のために見ててやったが、決着は譲れねぇんだ」
そう言って、羽織は一条を強制転移。自身の後ろに放り投げる。
振り返らず、前へと行く。羽織はキョウスケに相対する。ただひとり、他の全員を後ろに追いやって。
すると、キョウスケは実に楽しそうに笑う。笑う。三日月のよう。
「――四百年前と、同じだな」
「あ?」
「条家十門の当主を全て退けた我に、挑みかかる無謀の輩。なあ、羽織」
「はっ、四百年前とは違ぇよ。ここでお前は死ぬからな」
「よく吠えた。それでこそだ。四百年の研鑽を我に示してみせよ」
戦意を昂ぶらせ、殺意をぶつけ、魔を渦巻かせる。
今にも死を賭す殺し合いがはじまりそうな――刹那に。
「羽織」
雫が、空気を読まず、空気を裂いて――言う。我慢なんてできなかった。
「負けるなよ……」
「――あ?」
「負けるなよ、私は、貴様が負けるところなんて、見たくない。
貴様は――お前は、私の目標なんだぞ。その目標が不様に負けるなんて、絶対許さないからな」
続けて浴衣も精一杯の声をだす。無事祈る聖女のように、心配する妹のように。
「そっ、そうです。どうか生きて、勝って生きてください、羽織さま」
「……あぁ。うん。はい」
ふっと、力が抜けた。感情に任せて突っ込んでもよろしくない。
キョウスケには怒りがある。過去の惨状は未だに憎悪がはち切れそうで、ブチギレそう。だが、その感情のままに拳を振るって、勝てる相手では決してない。
冷静に、慎重に。
全力を尽くさねばならない。焦って出し切れないものがあってはならない。頭を冷やせ。勝つために。己であるのだ、生きるために。
「見届け人は三人でいいのか?」
「思ったより多いくらいだよ」
羽織の背を見守るのは三人――雫と、浴衣と、六条である。
それぞれが羽織にとって未来の象徴であり、現在の象徴であり、過去の象徴である。
だから、この羽織にとって一世一代の戦いを見ていて欲しいのは、その三人だけ。
まあ、当主勢には他にちょっとまだ役割を残しているが。了承はなく、羽織の身勝手で。
「キョウスケ、おれはアンタと戦うために、今日この時までにずっと準備をしてきた」
「ほう、それは楽しみだ」
「そのひとつがこれだ――」
瞑目――集中。
帯域を変える。自分を変える。位階を変える――強く。
さあ賛歌しようか、魂魄を。
『我、闊歩する悪意にして、奔走する悪徳――狂乱する最悪なり』
己を叫び、自分を詠う。自身の魂魄の形をあまねく全てに示して見せる。見せ付ける。
おれはこれだ。これがおれだ。おれはおれなのだ。
『悪意が故にこの口はどのような綺麗事も語らず、
悪徳が故にこの手はどのような善行もなさず、
最悪が故にこの身はどのような正義も宿さない』
世界を無視する。法則を踏みにじる。あらゆる概念を己の下に置く。
賛歌せし己が至高ゆえ、総てを足元に踏みつける。
『何故なら我が善は、とうの昔に絶え果てた。善なる自己を淘汰し駆逐し尚生きる。
残る我が身は最悪なり。度し難く、御し難く、解し難い。善なるものの対極なり。
そうだ、我誰からも死望まれる邪悪を背負う魂なり。
故、我こそが悪討つ悪にして鬼屠る鬼、魔喰らう魔なり!
魂とは――“遠き誓いの証”なり』
――“魂魄賛歌”ここに成せり。
瞠目する雫に、笑う魔害物。だがここで終わりじゃねぇぞ。その薄ら笑いを消し飛ばしてやるよ。
羽織も笑みを口端に刻んで、強気に不敵に宣言する。
「で、もう一個だ。
“万象の転移”――転移物は“十門当主の保持する益なす魔”。転移先は、“おれ”!」
「なっ」
一度敗北し、羽織が回収した十門当主八名。六条も含めた彼らから、羽織は魔益を奪い取る。無理やり、勝手に、力尽くで。
集めた全員の力を、ただ自分一個に集約し集結し集合させる。
それは莫大な魔益だ。ひとりひとりが甚大な魔益を保持している条家十門当主。戦闘直後の魔益を減らした現状であっても八名分、ぶんどりむしとり己の力とす。羽織の従えるもとの力の、実に八倍以上の魔益である。それはもはや人類に持ちうる魔益量にはならない。超越した、神にも等しき圧倒的なる力。
あぁ、しかしまあ、これで。
「これでようやっと、アンタと対等だ」
「馬鹿な……そんなにもの莫大な量の魔益を、どうして正気で扱える」
“魂魄賛歌”は笑って見ていたキョウスケも、これには流石に驚愕を禁じえない。なにせ、人ひとりでこんな魔益を所持すれば、確実に死ぬ。一刹那とて力に耐え切れず、押し潰されて消え去るはずだ。
なのに、なのに――羽織は刻んだ笑みを、絶対に崩さない。
「はっ、忘れたのかい。おれは四百年間ぶっ通しで、アンタの魔を抱え込んでたんだぜ? 力の制御ならお手のもんさ」
「…………」
一瞬、キョウスケは目を閉じた。感無量と、この感動を噛み締めるように。
そして開眼。獰猛に笑う。子供のように無邪気に心底楽しげに。
「四百年間の封印――なにも無益ではなかったな。こうまでして我と戦おうとする者がいてくれたというのなら!」
そして、あとはもう開戦する他になく――最後の戦いが、ここにはじまる。
「さあ、来いよ人間――魔益師!」
「ああ、行くぞ化物――魔害物!」
「「ぶちのめしてやる!!」
咆哮とともに、羽織は自身を転移。魔が身から離れた以上、己の転移は可能となった。そして、学習されても自己に及ぼす作用までは無効化されない。触れていなければ学習の意味はない。
故に先手をとったのは羽織。
腰を据え、足を引いて、ぐるりと全身を捻り引き絞って腕を振り被って――転瞬。
ズガン、と爆音を弾けさせて大地を踏み潰す。地震が如き震脚により大地からエネルギーをくみ上げ、それを足から螺旋のように腰、肩、肘へと経由して――果ては叩き込むその拳へ――余すことなく伝達し。
「――破!」
全身かけて、全霊乗せて、全力込めて――ブチ抜く拳!
今今駆け出さんとするキョウスケの眼前に突如現れ、その腹に拳を叩き込む!
「くは……っ」
このまま地平線までぶっ飛べと全霊尽くした一撃を、だがキョウスケは耐える。
鋼を砕き、山を削って地形を変える、それほどの魔益が練りこまれていて、それでもキョウスケは笑う。強き拳は素晴らしい。それを築き上げたお前は晴れがましい。
あぁ、あぁ、心地よいな。もっともっとだ、かかってこい!
反撃に手刀を振り下ろす。頭蓋を砕きにかかる。羽織は咄嗟に首だけ避けて肩、武具たる羽織りで受け止める。超越たる今の羽織の媒介武具だ、通常ならばあらゆる攻撃も効かない。八条当主の力に等しき防御力を持つだろう。
それなのに。
「ぐっ」
そのまま大地にめり込まされて地球の外に叩き落されたかと思った。武具越しで、死ぬかと思った。右肩は当然砕け、すぐに魔益を集めて回復。再生。痛みを食い縛って耐えて転移。
退かぬ決意を嘲笑うような強さ。羽織は誇りよりも勝利を選び、一端退いて気を整える。
すぐさまキョウスケは襲い来るが、どれほど速くとも転移の速度には追い縋れない。
「ち」
また転移して攻撃を避ける。先ほど羽織がいた場は崩落し、大きく深い落とし穴が穿たれる。
その、拳を振り切った後のキョウスケの背に、転移。渾身の蹴りを見舞う。腕で容易く防がれる。背中に目でもあんのか。振り向き様に拳が飛来。咄嗟に腕をクロスしガード――ガードに拳がめり込む。ばきぼきと嫌な音がして、泣きそうになるが我慢。お返しに蹴り。金的。キョウスケはなお笑う。
「っ」
蹴りをまた放ってキョウスケを弾く。どかす。その勢いで羽織は自らも後退。距離を置く。
気が狂いそうになるほどの身体中の痛みを誤魔化すように、声を張る。全然余裕と悪態を吐く。
「クソが、痛覚ねぇのかお前」
「そうでもない。だが痛みよりも、楽しくて仕方がない」
「ヘンタイ野郎が!」
転移。
今度も背面。殴りつけようとして――また転移。正面に。
背後に意識がいった瞬間だった。拳打は見事にキョウスケの頬に突き刺さる。殴りぬく。転移。
「ち」
次は少々離れた地点に逃げる。体勢を一瞬で整えて、また転移。接近、拳を叩き込む。
隙は一切なくす。隙ができそうになれば遠くに逃げて整えてからまた殴ればいい。バランスを崩すならそのまま転移し、キョウスケの攻撃圏内から外れて崩せばいい。
学習されてキョウスケを転移はできない。だが、代わりに魂から異物が取り除かれたことで己を転移するのは文字通り自由自在。連続行使で反撃を受けないよう立ち回る。触れさせることすら許さない。
羽織の神出鬼没の連続転移の滅多打ち。隙を転移でなくして、戦機を転移で作って、転移で死角へ回る。おそろしく一方的な戦法である。
だがそれでも、
「クソがっ」
殴った拳は強力な魔害に焼かれ、焦げてしまっている。身に帯びているだけのそれでこれだ。こっちは魔益で何重にもコーティングしてこれだ。
やはりまだまだ地力に差がある。ダメージは与えているだろうが、反撃を掠ったこちらのほうが痛手というのが現状だ。
ならばもっともっと早く転移し、掴ませない。神出鬼没の力を舐めるな。
転移。キョウスケの左方向に。再度転移、今度は右。さらに転移。最後には背後――ぶん殴る。星よ砕けろと全力を注ぐが、キョウスケは即座に反応。仰け反りながらも手を伸ばしてくる。転移し逃れ――
「く」
「ははっ」
逃れたつもりだった。頬からたらりと赤色が零れ落ちる。掠っていた。あのタイミングで?
底冷えするような恐怖が競り上がってくるのを振り切り、羽織は再び転移。言ってしまえば、この能力しか羽織に有利な点はなかった。勝ち目も優位もなにもかも、“万象の転移”のみが頼みだった。
――いつまでも能力頼みの雑魚野郎。
知るかボケぶっ飛ばす。それで勝てるのならば構わない。
今はただ、なにより早く転移。なにより強く拳を握る。殴る殴る、ぶん殴る!
転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴――。
「集中力を途絶えさせるな」
「なっ」
転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る――。
「拳が雑になっているぞ。転移先が単調になってきた。その身に傷が増えてきたぞ」
「うるっ、せぇ! サンドバックが喋んな!」
転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。転移し殴る。
「身体が軋んでいるなぁ、我とは違い、やはりいかんせん人の身の限度か」
「うるせぇって、言ってんだろっ!」
転移し殴る。転移し殴る。
「ふん」
――拳を掴まれる。強く強く、握り締められていた。
「……っ」
「ちょこまかと鬱陶しい。この手はもう離さんよ」
「ちっ、くしょ……っ!」
これでは転移ができない。能力を使えない。互いに片手落ちで、近距離で、離れられない。
羽織の優位性は、全て失われた。後は真っ向勝負するしかない。片手落ちで真っ向勝負ならば、それはキョウスケの独壇場だというのに。
そこからはもはや泥沼だった。
回避の余地なく、ただただ殴る蹴るを続ける。馬鹿みたいな殴打の横行。ガキの喧嘩よりさらに下の原始的なスデゴロ殴り合い。
殴って、殴られて。
蹴って、蹴られて。
もはや耐久勝負。我慢比べの根性比べ。
魂の火が、先に潰えたほうの負け。
高度にして最上級の技量と制御技術を持つ。
この世にありえないほどの莫大膨大なる魔を従え、その身に宿して力を揮う強靭なる魂。
もはや魂魄の輝きは太陽の如き極限で、およそ比べるものすら互いしかありえないという力。
それを持った二人が、この世たった二人が、争い合っては拳を振るう。
なんて乱暴横暴なぶつかりあいか。この上位者をして、やっているのがただ頭の悪い殴り合いだなんて、酷く笑えないジョークのようだ。
いや、究極まで行き着いた者のぶつかりあいは、そうしたものなのかもしれない。
究極だからこそ下手な小細工もなく、小技も大技もなく、能力さえ不要で――ただ魂の真価だけが問われる。
そして、それゆえにスペックがどうしたってありありと浮き彫りになる。
魔害物という人外と、魔益師という人間の、埋めきれるはずもない巨大な溝。
そして羽織は――
スピード展開で申し訳ない。
終わらせないとと思うと駆け足になってしまいます……。