第八十六話 封鎖・内
予兆なんてなかった。前兆も前触れも、誰も一切感じやしなかった。
だからこそそれは誰から見ても酷く唐突で、残酷なほどに衝撃的な出来事となる。
最初に気がついたのは、なんの気もなく空を仰いだ八坂であった。祝いの席から外れ、ひとりぼうっと縁側に座っていた九条 八坂。
彼は呑気のほほんと空を眺めていたがために、気付いた。
――突如、空間が軋みを上げて、風景が歪んだことに。
「な――っ」
結界だ。いきなりこの広大な敷地を誇る屋敷をすっぽり覆う結界が張られたのだ。
それに驚き声を上げるより先に、さらなる変化が襲い掛かる。眺めていた空に、ぽつぽつと黒い染みが浮かび上がる。結界の天より穴が空いたが如く、黒い点が幾つも幾つも生じる。増える。
嫌な予感がして目を細めていると、穴がどんどん広がって――大きくなっていくことを視認した。まるで狭い通り道を、無理矢理こじ開けようとするが如く。やがて、穴がある程度の大きさにまで広がると――落下。
「!」
ぼとりと腐った涙の雫が零れ落ちる。ぬらりと穢れた血潮が滴り落ちる。穴からずるりと恐ろしいモノが降ってくる。
ああ、ああ、なんと恐ろしい。おぞましい。おびただしい。
それは幾千の死肉を捨てた泥沼の流出。蓋しておいた地獄の釜が一斉に開いて溢れて染め上げる。暴れ出るは悪鬼か修羅か、それとも害悪そのものか。
雨あられと、無数の穴から降ってくる悪意ある害、害なす魔の物――魔害物、魔害物、魔害物!
その頃には鋭敏な感性を持つ者どもは気がつき、武器を具象化させて戦闘態勢に移行する。それでも現状の唐突さに錬度の低い者ほど混乱をきたす。
状況はまったくもって意味不明、なにがどうして、どうなってこのような今に繋がっている。
わけがわからずとも、魔害物は動く。人間のように彼らは迷わない、困惑などしない。魔害物の本能はただひとつ、闘争だけを求めて牙を剥く。戦え、戦え、我らと戦え。
「――けた、けたけた、けたけたけたけたけたけたけた!」
鎌を振るう真っ黒な皮を被る魔害物。
「からからからからからからからからからからからから!」
巨大な鎚を握り締める小柄で丸い魔害物。
「げらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげら!」
右腕だけが異様に肥大化した人の姿をとる魔害物。
複数多数の魔害物が咆哮高らか、武器を手に魔害を操り襲い掛かる。
「ひゃっはー!」
その黒の群れに勢いよくいの一番に飛び込むのは勿論この男、四条家当主。彼も魔害物と同じだ。戦前において迷わない。敵が現れた、なら仕留める。それだけ、それだけの行動原理で走る。ある意味で魔害物によく似た性質。
奇声とともに四条はダイナミックに近くの魔害物に飛び蹴りかます。高速跳躍蹴撃。あまりの速度にソニックブームが発生、周囲の魔害物も吹き飛ばす。だが、蹴りをまともに受けた魔害物は、人に似た魔害物は、肥大した右腕でその蹴りを難なく受け止めた。振り払う。
四条は腕が動くより先に退避。くるりと華麗に中空で回転しつつ着地。自身の速度に対応されたことに、笑顔でもって称賛をやる。
「へっ、強ェな! 上等!」
だが他の者には戦慄が走る。まさか四条家当主の速度についていき、一撃を受け止めるほどの魔害物だなんて。そいつだけではない。感じる魔害の強さはどれも等しく強大無辺。無数の魔害物ども、そのどれもが上位個体。
だが、そこで恐慌してはそれこそ破滅。二条家当主は声を張る。
「慌てるな、恐れるな、条家十門の精鋭ども! お前たちは魔のモノなぞに負けはせん! 己が魂の輝きを信じて拳を握れ!」
すぐに続いて六条、八条が警告交えて皆に伝える。
「ただし油断はめされるな! 決してひとりで戦わず、数名で一体ずつ確実に屠るのです!」
「戦えぬ者は近くの八条に駆け寄るでごわす! 八条の同胞らは護れる限りの友を護り、戦線から後退でごわす!」
流石に当主勢ともなると、状況の異常に混乱するより先になさねばならぬを全うできた。戦わねばと発起できた。歴戦の彼らに混乱の感情は抑えこめる程度の揺れでしかない。他の当主は既に魔害物との交戦中である。
そんな当主勢の声と奮戦に、他の十門たちも覚悟を決めて戦場に躍り出る。必死に仲間を護る。臍を噛んで後退する。
ここに突然過ぎる混戦は混迷を緩め、荒れ狂う魔害物に魔益師たちは対峙する。
「っ、どうなっている」
もはや乱戦の様相を呈する屋敷の内で、雫は襲い来る魔害物と斬り結びながら動揺を落ち着けようとする。
斬撃疾走。死の斬線が虚空を刻む。鎌もつ魔害物が回転動作による斬撃術を見せ付ける。雫は風の知覚を弱く作動させつつ、大振りのそれを回避し続ける。捌いて、凌いで、受け流す。
動揺しそうになる心を風の制御に集中することでどうにか落ち着け、応戦をする。ともかく現状の意味不明を思考する。
ありえない。何故いきなり武器を扱う魔害物に、魔を操る魔害物が降ってくる。なんの悪夢だ、笑えない。
違う。そうじゃない。考えるな、今は戦いにのみ集中しろ。でなければ死ぬぞ。あの雨の日のように、あっさり殺され死んで死ぬ。
「あの時とは、違う」
歯を食いしばり、刀を握り締める。魂の輝きを見せ付ける。私は負けんぞ、舐めるなと。
魔害物は余計に興奮。相対者の上質にうっとり刃を振りかぶる。鎌により斬撃し、振りぬいて回転。また斬撃。まるで独楽のような回転斬撃を続ける魔害物。
無茶苦茶のように見えて、斬線は鋭く正確。一撃は重く、真正面から受け止めると痺れる。完全に背中を向けた瞬間でさえ、持ち手を変幻させ石突を放ってくる。しかも、文字通りに背中に目があり、死角にすらなっていない。
だが、雫だって成長している。強くなっている。この程度の魔害物に恐れはない。
回避に徹し続けていた雫が、ここで踏み込む。
「けたけた」
上等、とばかりに魔害物は鎌の斬撃ぶちかます。首狩る一閃。腰の捻り、遠心力、諸々込めた一打。
雫はぽそりとか細く呼吸ひとつ。
「ふ」
襲う大鎌に風を絡ませる。掴み取る。遅らせる。
魔害物が回転し続けたせいで生じた風である。せいぜい利用させてもらう。
一手ぶん、斬首の鎌が遅れる。その隙に雫の斬撃返礼。斬り上げ。腕を両断。まずは攻め手を奪う。振り下ろす刀で頭蓋を狙う。唐竹――
「けたっ」
魔害物が笑う。まるで人のように。
腕を失くそうとも腕は生える。腹から第三の手が生える。貫き手。刺突。攻撃動作中の雫を襲う。
だが。
「――知っているぞ、その力」
生えた瞬間に根元から斬断。既に風の刃は仕込んであった。魔害物の両腕を裂いた段階で、時間差で吹き抜ける風の刃の設置していたのだ。防戦の期間の長さはこの伏線。回転から風を溜め込むためだった。
「けたけたけた」
「笑うな、うるさい」
もはや手は尽きる。魔害物は笑うしかない。その歪んだ笑みごと、頭蓋を叩き斬る。綺麗な唐竹割りが、魔害物を真っ二つにして斬滅させた。
息は吐かない。緩みはしない。一匹狩ってもまだ無数。急ぎ振り返る。
「浴衣、無事か」
「だっ、大丈夫ですっ」
「今行く!」
そこでは大鎚振り回す魔害物の攻撃を避け続ける浴衣の姿。雫が一匹屠る内に、もう一匹を引きつけてもらっていたのだ。
すぐに走り寄る。浴衣は回避能力に長けるが、いつまでもかわし続けてはいられない。だから雫が――
「よいっしょー!」
斬りつける前に、鋼の拳が魔害物を吹き飛ばす。
「無事か、雫! 浴衣ちゃんも一緒か!」
「条!」
「条さんっ」
横殴りに横槍いれたのは条。
襲撃と同時にこちらに向かってくれていたらしい。
雫と条はすぐに背中を預けて現状交換。
「助かったぞ。こっちは無事だが、そっちは!?」
「問題ねぇ! それより他のメンツ――というか羽織はどこだ! 一刀と八坂は向こうで戦ってたが……」
「それがっ! いないんです! 羽織さまもリクスちゃんも、宴の頃からいないんです!」
両者の背中に挟まれるように縮こまる浴衣が悲愴に叫ぶ。危機的状況、地獄の如き敵の群れ。浴衣は、こういった状況下で羽織がいないことなどほぼなくて、少し泣きそうだった。
条も驚く。まさかいないとはどういうことだと。
「なに! マジかよ、こんなやべぇ場面でこそ輝く奴だろうに!」
「言っても仕方がない、切り抜けるぞ」
雫だけは冷静に不在を諦め、刀を握る。まだまだ周囲は敵ばかり。ないものねだりは意味がない。
それに――雫は羽織に助けを求めはしない。求められるような者に、なりたいのだから。
雫の激励、魔害物の呵呵大笑。浴衣と条は戦場を思い出し、今はともかく構えをとる。
「はいっ」
「応」
六条はひとり、必死に具象武具たる書物をめくっていた。
他の者らの絶叫奮戦から外れ、八条の者に守られながら自分の戦いをしていた。
「……どういうことだ」
いない。いない。どうしていない。
「どうして一条様と三条殿がいない……っ」
こういう場面で、対多数での戦闘で最も適するふたり。一条なら敵だけを斬り裂き、撃滅できるはず。三条なら敵だけを指定し弱体化できたはず。それがないため、対個人の二条や四条が奮起する始末。五条もまた頑張ってくれてはいるが、距離を離さねば反撃をもらいかねない。
当主勢を除く者たちにとっては、武器や魔害を操る魔害物は強敵に過ぎる。
一条と三条はどこへいってしまったのだ。
また、結界のスペシャリストである七条、彼女らならこの結界をどうにかできるのではないか。そう思ったのだが――七条家の人間が誰一人として見えない。六条の能力をもってしても知覚できない。
いや、そもそもにして、この屋敷を覆うそれは、七条の結界ではないだろうか。いつも我々を助け、補助してくれたそれに、よく似ているのは気のせいか。
――まさか裏切り? 七条家が、条家十門を裏切った? 一族総出で条家十門を落とそうとでも言うのか。
馬鹿な。思うが、しかしそうだと考えればこの魔害物どもの出自は判明する。条家十門が千年間、封印し続けていた上位種の魔害物どもだ。“黒羽”と戦った地に封じていたそれらは、七条が管理していたはず。それをここに持ち出し、放り込む。自分らは別の空間で高みの見物をしていれば、確かにそれで十門は大打撃を受けるだろう。
本来なら、十数年に一度の開封時期にのみ相対する強力な魔害物だ、この不意打ちでは随分まずい。平時で戦う魔害物とは桁違いの強さを誇る、当主以外には荷が重い。その上、一条と三条もなしでは、最悪の場合ここで条家十門は滅びかねない。
周囲を少し見遣れば、既に精兵たる条家の魔益師たちにも負傷者、重傷者がそこらに転がる。八条と九条の尽力で、どうにか死者はでていないが……時間の問題だ。万を越す“黒羽”機関をも下した条家十門が、たった十数分でこれだ。敵の脅威は凄まじい。
そういうことなのか。これは七条家によって周到に計画されたシナリオということなのか。
そして――
「まさか、これが予言の悪夢なのですか……羽織殿」
六条はこの場にいない羽織に問いかける。だが、決して言葉は空間を超越したりはしなかった。
閉ざされた結界の内で、彼らだけがこの地獄へと立ち向かわねばならない。