第八十五話 封鎖・外
座れば柔らか、もたれれば安らか、沈むように抱きとめるようにその身を支えてくれる。すぐにもこのソファは上質であると理解させられる、それほどの一品。
まあ、流石にトップと話すのだ、応接室もその調度品も上等なのだろう。
羽織は特に気概なく上物のソファに背中を預け、どっかり偉そうに座る。余所様の部屋で誰かを待つスタイルでは決してないが、この場にツッコミ役はいない。咎める者も、また。
羽織は今、ひとりで“黒羽”第百支部に訪れていた。三日前にアポイントをとり、とある男と今日話す。聞かねばならないことがあったのだ。
応接室に通され、待つことしらばらく――不意に扉が開かれる。待ち人来たりて声響く。
「待たせてしまったかなぁ。まあ僕も色々と忙しい身になってしまったからね、そこは理解してもらいたいかな」
現れたのは深淵の如き少年。
現行“黒羽”総帥ジャック――今は総帥の仕来りとして黒羽を名乗る少年だ。今日、羽織が面会を望んだ相手であった。
とはいえ、人格的には断言して嫌いではある。存在自体ができればお近づきになりたくない類と言える。なのでついつい全く故意に返す言葉に皮肉が混ざる。
「は、奪った衣装はまだ着慣れないか? 端から似合ってねぇしな」
「いやいや、着心地は悪くないさ。けれど、衣装を仕立て直しているようなものだからね。変化っていうのは面倒がつき物なのさ」
「精精、上手くやるんだな。変わるってのが退化になっちゃあ、業界が困るからな」
「肝に銘じておくよ」
ふふとジャックは笑い、羽織は笑声なく唇の端を吊り上げる。
邂逅一番で険悪なムードである。表面上が笑顔であっても、そのギスギスした空気は誤魔化し切れはしない。悪意と嫌悪とその他諸々が混じりあい、見えない火花が飛び散っては室内の重圧感は増していく。とはいえ、それで怯む羽織でもジャックでもない。平然と会話をはじめる。
「それで、今日はなんの用があって――なんて、とぼけても無意味かな。これについて聞きたいんだろう?」
もったいぶらず、ジャックは右手首を見せる。そこに付けられた、同じデザインのふたつの腕輪。
羽織の視線の温度がすっと下がる。怜悧冷徹な刃の如き眼光は、部屋の雰囲気まで引きずり込んで緊迫感で締め付ける。ジャックはそれでも笑顔を崩さない。ただし笑みの色に朗らかさはなく、とても冷ややかなそれであるが。
「僕としてもあまり時間的に余裕はないし、ここは韜晦もなしに語ってあげるさ。なにが訊きたいんだい」
「なんだ? 嫌に協力的だな。今度はどんな脚本が後ろにあるんだ?」
「そうじゃないよ。簡単な話さ。あの女は――たぶん、やばい」
「……なに?」
意外な物言いに、羽織は眉を顰める。
羽織を利用して父を殺し――死んでいないと羽織は睨むが、確定はない――抗争の機に乗じ“黒羽”総帥の座を上手く掠め取った深淵たる少年。このジャックをして、やばいだと?
「僕はこれでもまあ、人を見る目はあるつもりさ。うちの馬鹿親父は生きている価値もなかったゴミクズ。君は敵に回してはいけない類。元総帥は空回りの子供。あの女は――関わってはいけないやばい奴」
まあ、例の女の姿は見てないんだから、見る目というのもまた違う気がするけれどね。いらない付け加えを忘れない辺りは父に似ているな、と思う羽織である。
感想とは別に、ジャックの発言を少し興味深く吟味する。思考しつつ、問いを向ける。
「……やばいってのは、力がか? それだけ強いってことか? それとも、」
「いや、その性質がさ。滲み出るあの性根は間違いなく腐ってるね。あのクソ科学者にも近い嫌悪感が湧きあがってやまないよ」
「だよな。お前は強さにビビりゃしねえから面倒なんだし」
「なに、裏方が舞台上を怖がってちゃあ、なにもできないからねぇ」
「け。てめえの認識はマジでうぜえよ。どっかそこらへんの路傍で野垂れ死にしとけっての」
羽織はツバを吐くように吐き捨てる。会話の流れで悪態がつけるタイミングがあると、ついつい漏れ出てしまう。嫌いなのである。
そんな嫌いな相手でも、提供される情報は有用。耳を傾けることはやめない。ジャックの側も、いちいち羽織の悪口なんぞを意に介すようなタマではない。平然と続ける。
「それでもああいう手合いは、怖いね。変に目をつけられたら意味もなく殺されそうだよ。元総帥から腕輪と武具を奪ったのだって、実は自衛のためだよ。あの女がいつ腕輪を取り返しにくるかと思うと戦々恐々でね。それなら腕輪を捨てればいいって? 君みたいに強者ならともかく、ここまで便利なものを放り出せるほどに僕は剛胆にはなれないさ」
「そんな便利なモンがありゃ、おれだって欲しいし手放さねぇよ」
「あれ、そうなのかい」
何故意外そうなのか、羽織は肩を竦めるだけで問いかけはしなかった。
そんなことはどうでもいい。どうでもよくないことが目の前にあり、それを優先すべき。
「それで? 協力的な理由は、つまり面倒な奴と面倒な奴をかち合わせて諸共くたばればラッキーてか」
「そうだよ。君とあの女が消えれば、僕個人を襲う災禍はだいぶ減るんだ」
取り繕いもしない。それはそれで清清しいが。
それに、隠し立てせず話してくれるのは助かる。聞ける部分は聞いておこう。
「で、じゃあ質問だが、その腕輪を寄越したのはやっぱ女か?」
「イエス」
「顔は見てない。声だけが聞こえたんだな?」
「イエス」
「お前のそれも、やっぱり魂を学習するのか?」
「イエス」
「いつ渡された? 二年ほど前か?」
「イエス」
ここまでは理緒の証言と同じ。
ここからは理緒とは別のことを問う。
「じゃあ、他に腕輪の所有者を知っているか」
「それは知らないね。元総帥みたいにわかりやすく使ってくれれば知れるんだろうけどね、そういう噂は聞かないよ。僕みたいに力を秘匿するような奴は少ないと思ったんだけど、そうでもないのかな?」
「上手く扱えない可能性もあるがな」
仮にもアレの欠片。御しきれない者もいよう。例の女とやらがどれだけ拡散したのかは不明だが。ああ、それも問うか。
「お前、その腕輪を使うのになにかリスクみたいなもんはねぇのか? 扱いをしくじると暴走するとか」
「んん、そうだねぇ。たぶん、魔益師でもない者が触れればまずいんだろうけれどね、僕には特に害はないよ」
「じゃあ、その腕輪に嫌な感触とかはねぇか? 拒絶感というか、気色悪い感覚というか――おれの見たところ、その腕輪は魔害物の欠片だぞ」
「あぁ、やっぱりそうなんだ、なんとなくそんな気はしてたね。つけているとね、反発みたいなものがあるんだ。物理的にあるわけじゃなくて、精神的にね。意志を強くもっていないと、外したくなる」
やはりそうなのか。魔益師と魔害物の相克関係――腕輪の正体が魔害物の欠片であることは確定してよさそうだ。
しかし、よくもまあそんなものを平然とつけているものだ。ジャックも、理緒も。
改めて呆れを浮かべつつ、次の問い。最後の問い。
「他に、なにか言われた言葉はあるか? あるいは独り言みたいに、女が漏らした言葉の切れ端とか」
理緒の話を聞いて見立てたおそらくだが、女は結構なお喋りであると思う。マッドのような、ジャックのような、いらないことをぺらぺら語るタイプ。理緒の時も割と情報をその口で漏らしていた。ならばジャックに腕輪を渡した際にも、なにか喋ってはいないだろうか。若干以上に希望的観測ではあるが、まあダメもとだ。
ジャックは少し記憶を探るような仕草を見せて、ああと思い至ったのかひとつ頷く。
「んんー。そうだねぇ……ああ、そうだ、ひとつ、失言っぽいのがあったねぇ」
「なんだ」
「確か――条家を乱す因子を持つ僕だから、これを授けると」
「条家を?」
「そう。恨みでも買ってるのかい?」
「条家を、恨んでる奴?」
いや、そんな輩はおそらく掃いて捨てるほどいる。
だが前情報と合わせて考えれば、女は条家の関係者の線が濃厚。
ならば、犯人像は条家の関係者でかつ条家を恨んでいる女? 誰だ、そんな奴いたか?
思考に没頭しだす羽織に、ジャックは問いの終わりを見たのか力を抜いて背もたれに寄りかかる。返答を期待しない口調で世間話を口にする。沈黙は嫌いらしい。
「しかし、いつか聞きに訪れるだろうとは思っていたけれど……それにしても、何故にわざわざ今日なんだい。今日は条家にとって記念日なんだろう? お屋敷で宴と聞いているけれど」
「……おれは、この日が嫌いだからな」
「んん? それはどういう――」
言葉を遮り、電子音が響き渡る。
携帯電話の呼び出し音である。ふたりは咄嗟に懐に手を伸ばし、自身のそれを確認。
「おれだ」
「僕だね」
同時に自分の電話が鳴っていること把握し、特に互いを気にせず通話をはじめる。
そしてやはり同時に、同じ言葉を漏らすことになる。
「「――なんだと?」」
「――あのクソマッドが接触してきただと?」
「――一条家の屋敷が、消失しただって?」
ジャックに伝わった衝撃の一報――条家十門一条家の屋敷が、忽然と消失したという。
意味がわからない。情報を寄越した密偵本人も混乱していて、説明も上手くはされていない。余計にジャックには不可解で、羽織の件も含めてともかく現場に向かうことにした。
羽織もそれにはついていき、屋敷の手前でリクスと落ち合い――虚空を見た。
「これは、一体……?」
さしものジャックもぽかんと大口開けてしまう。この目で見てもわけがわからない。
屋敷があったはずのそこにはなにもない。更地で、平野。なにもない。だが、波打つように空間は歪み、稀に屋敷の姿が垣間見える。とはいえノイズに塗れた風景から、ぼやけてぼんやり見えるのみ。内側の様子は不明。一般人には、その歪みすらも見えないだろうが。
羽織はふむと歪みに顔を近づける。
「こりゃ……結界か。空間系の能力で仕切られてやがるな。この精度、七条か?」
羽織が苦々しげに考察し、たゆたう空間の境に手を伸ばす。弾かれる。焼かれたような痛みが指先に残る。かなり強力な能力者のものだと、羽織は判断した。
だが、一体これはどういう意図だ。誰がこんなことを? この広範囲高位階の結界、七条でも当主クラスの実力は必要だろう。例の彼女というのは、七条家当主ということなのか? しかしそうだとしても。
「なんで今日なんだ。今日は十門全員が揃う年に一度唯一の日、それを隔離して、なにがしてぇんだ?」
まさか閉ざして閉じ込め、そこを攻め入ろうなんて馬鹿がいるとは思えない。仮にそんな輩が存在したとしても、よりによって今日を選ぶとは思えない。
いや、まさか――
「それよりも、だ」
考察を続ける羽織を遮り、ジャックは苛立たしげにリクスに声を向ける。既に驚きはナリを潜め、別の情動が表に顔を出している。
それは彼がここに来た理由、リクスから羽織に伝わった情報。
「本当なんだろうね、姉さん。あのクソ親父のイカレ野郎が、まさか生きていたなんて……」
「肯定」
「クソッ。しぶとい。やはり手ずから縊り殺さないと駄目か」
嫌悪をむき出しでジャックは吐き捨てる。先ほど応接室で羽織と話していた頃とは、まるで違う感情的な様相である。
別段、マッドの生存は予測済みな羽織は平然と話を続ける。
「で、リクス、お前の話を要約すると――マッドに勧誘された、リーレットとかいう新しいヒトガタがいた、強かった、なんかマッドは変な女とつるんでるらしい、条家にまた喧嘩ふっかける感じだった」
「そして、リーレットとかいうデクは、母さんに似ていたと?」
「そう」
その首肯に、ジャックはさらに怒り心頭。怒髪天を衝く勢いで牙剥く。握りこぶしを振るわせる。
「ッ! あぁ、あぁ! 知っていたけど、あのクズはなにも変らず人の気を逆撫でするのが上手いね。必ずブチ殺してやるッ。よりにもよって、母さんの姿を貶めるだなんてさァ!」
「ジャック……」
弟の姿に共感と戸惑いが、リクスにはあった。
確かにあの父親は許されないことをした。大好きな母を、姿だけとはいえヒトガタとするだなんて。冒涜にもほどがある。
だが、どうしてジャックはここまで父を嫌う。
違う。違う、否だ。そうじゃない、そっちじゃない。そうではなく――どうして自分はジャックほどに怒りを覚えないのか?
ジャックとリクスはほぼ同じ境遇のはず。ジャックの怒りは正当のはず。なのにリクスは、ジャックほどにマッドを憎んではいない。
父に付き添った時間が長い分、そういった感情が薄らいだだけか。同罪であると内心にはこびり付き、下手に責を押し付ける卑怯をしたくないのか。わからない。
リクスの心は氷のよう。浴衣によって溶けてはいるが、全容がわかるほどには溶け切っていない。分厚いに氷塊に封じられた感情が、なにか他にもあるのかもしれない。
兄妹親子のイザコザを尻目に、羽織はひとり結界に対峙し現状について思案を続ける。
「しかし条家十門が滅ぶ時間ね……中はどうなってやがる? 浴衣様や九条様は無事なのか――ち。無事とは思うが、まさかはありうる、か」
ありえない、絶対にありえないことだとは思うが――今日という日を狙ったのは、条家十門全員が揃ったところをまとめて葬る自信があるということなのかもしれない。にわかには信じられないが。
なににせよ、楽観は許されない。マッドが動いたことは事実、一条の屋敷が結界に封鎖されているのも事実。状況を知らねば話にならない。主が心配だ。
すぐに結論、ジャックに向く。事は急を要する。あまりウダウダ喋ってもらっていても困る。
「おい、ジャック、今回はお前もおれに手を貸せ。マッドを仕留めたいんだろ? あいつはおれに執心だ、こっちにいれば寄って来る」
「それは……ち。背に腹はかえられないか。いいよ、手を貸すよ。ただし君の下につくわけじゃあないよ」
忙しいと言っていた “黒羽”の総帥としてのあらゆるを放り投げてでも、ジャックとしてはマッドが赦せなかった。殺したかった。なにを置いてでも。
羽織は悪そうにほくそ笑む。現状、手駒は多いに越したことはない。
「わかってる。協力してくれれば充分だ。で、ジャック、上条から奪った能力で“空間の歪曲”ってあったろ」
「ああ、あるね。ほら、手袋してるだろう? これだよ」
手につけたそれを見せるジャックに、羽織は大きく頷く。ならばよし、とっかかりはそれで充分。
「よし、じゃ、そいつでこの空間の隔離を歪めて侵入を試すぞ」