第零話 敗北
雨が激しく大地を打ち据え。
ぶつかる鋼が火花を散らし。
斬り裂く刃が鮮血を飛ばす。
大都会だからこそ生じる、無駄に広い裏路地。
何故か人の気配を一切感じないそこは現状において――戦場と化していた。
閃光が奔る。
速く鋭く、敵殺す一閃。銀に輝く刃の閃き。
その高速なる一閃を、また別の閃光が迸り受けて止める。
甲高い金属音。
鍔競り合って静止してみれば、その閃光は余りの速さに視認困難だっただけの刀の二振りであったことが知れる。
そして、同時に刃を握るふたつの存在が常人にもようやく視認可能となった。
見ればふたつの存在とは少女と化物であり、剣士と魔物――魔益師と魔害物である。
戦闘行為の片割れ――魔益師にして剣士にして少女は、一見すればどこにでもいそうな女子高生だった。
美しい黒髪を肩ほどで切りそろえ、髪より深い黒の眼光は鋭く尖っている。その身に纏う学生服から、少女の年齢はある程度は把握できた。
しかし、その年頃には似つかわしくない、刀のような雰囲気を醸し、刀のような美を誇り、そしてただひと振りの刀を握り戦う少女は、さながら剣姫か。
その剣姫の名は、加瀬 雫。魔益師という特異な人間だ。
対するは醜悪極まる化物。
一見シルエットだけで見れば、人と勘違いできそうなほど体形は人間に近しい。足が二本あり直立して、腕が二本ありそれぞれに刃を握り、頭がひとつあり笑っている。
しかしその肌は黒く塗りつぶされ、体躯はまるで子供ほどに小さい。そして頭部が異様と奇異の最大。身体に釣り合わないほどに顔が大きく、よくバランスを保って直立していられるものだと感心してしまう。しかも顔は人間のそれではなく、どうにか類似したものを探せば、それは獅子舞で用いる獅子頭に似ていた。
小太刀二本を振るい、大きな口をカチカチ鳴らしながら笑う化物は、どこまでも怖気を与える異敵――魔害物だった。
――それ以上、観察している余裕はなかった。
純粋な力比べにおいて、人が化け物に勝るはずもなく。
必然ながら鍔競り合いは長く続かない。人である雫は刀ごしに押され、体勢をやや崩す。
「っ!」
そこに、三本目の剣閃が割り込む。腕が二本あり、魔害物は両手に刃を掴んでいるのだから、ここでの割り込みは予測の内。
雫もそれは予測していた。だから斬撃に対して、こちらも風のような斬撃で応える。素早く薙いで二本まとめて弾いて逸らす。一本の刀で、二本の刃と斬り結ぶ。数の不利を覆すは技巧と速度。
「は……ッ、は……ッ!」
斬撃と斬撃の応酬。太刀と太刀の激突。銀閃と銀閃の乱舞。
二本の刃を一本の刃が真っ向からぶつかり合う。雫は呼気を荒げて速度を増す。一本で二本を打破するためにはなによりも速くなくてはならない。
振るわれた横薙ぎの一閃は、また加速して視認困難なる高速の太刀へと昇華。しかし獅子頭は事も無げに片手の小太刀で受けとめてしまう。続けざま巨大な頭を突き出すように雫に向けた。
「っ!」
大口を開け、頭から噛み砕かんと瞬間後には開いた倍速で閉じる。
ガチン、と獅子の歯が噛み合うも、雫は間一髪で膝を折り、回避に成功。同時に下段から脚払い。獅子頭の体勢を崩しにかかる。しかし獅子頭は雫の蹴りなどには微動だにせず、今一度口を開く。
かぶりつくような追い討ち。雫は食い千切られるビジョンを連想し、咄嗟にバックステップを踏む。
またも空だけを食い破り、獅子頭は些か不満顔を晒す。
気にする余裕など皆無。雫はもう一度後ろに跳んで、充分に離れたと判しその場で刀を大きく振り被る。無論、刀の間合いに獅子頭はいない。なにをする気か、距離をおいたのは雫自身だというのに。
構わず――雫は呼気とともに刀を思い切り振るった。
「ハッ!」
そして。
ブォンと鈍い風切り音とともに、常識では考えられない現象が起こる。
虚空を裂いた一閃。その剣撃は虚空のみならず指向性を前進させ、風が逆巻き衝撃波を放ったのだ!
これには流石の獅子頭も驚き――否、それを理解する知能がなく――反応遅れて直撃してしまう。
「カヒッ!?」
奇妙な呻き声と腹にくっきりついた斬線が、獅子頭の傷の深きを語る。しかし血は流さない。化物に血はないし、涙もないのだから。
「はぁ……はぁ……」
反して雫は傷だらけの体である。汗を流し血を流し、疲労に苦痛に倒れそうだった。
今のところはどうにか戦えているように見えるが――この獅子頭、圧倒的に手に余る。ただの魔益師が相手取るには強大すぎる。
獅子頭は未だ本気をださずにこの様では、敗北は必至だった。
「カタカタカタ」
雫の苦渋に反して、歯を打ち鳴らすような笑い声を上げ、獅子頭の魔害物は歓喜に震える。
害なす魔の物――魔害物は総じて戦闘を好み、血肉を好む闘争本能の塊。故に笑う。雫のような敵手と戦うことが、獅子頭には嬉しくて仕方ないのだ。
獅子頭はぐりん、と腰を折り曲げ、上体を百八十度逸らす。人には為しえない、異様な振り被り方をして――
がばり、と跳ね上がるやいなや雫に襲い掛かる。
「くっ!」
弱り崩れそうな身を鞭打って、雫は獅子頭に立ち向かう。刀を振るう。
そして再開される舞踏。血が彩り火花が飾る、命を削る戦舞。
銀閃は鋭く獅子頭の肉を斬る。されどそんなことは気にせず獅子頭は小太刀を自在に奔らせ、雫の柔肌を裂く。
加速。加速。加速。
常人には視認不可能な速度域で、剣が交錯し敵を捉える。
刀は幾閃もの直線を描いて、鋭角にジグザグ刻む。
小太刀は幾重もの曲線を描いて、波形にゆらゆら断つ。
その両剣はぶつかりあっては弾け、またぶつかり合う。その度にまた激烈な金属音が響き、華麗なる火花が散る。
斬って、裂いて、振るって、舞わして、踊り踊る。
襲う斬線、弾く剣戟。剣と剣とが刃金に唄う。打ち鳴るは丁々発止の剣響和音。自前で歌う、剣の歌。
歌に合わせて、ひらりひらりと踊る剣舞と獅子舞――ひとりとひとつのそれは、まるで示し合わせたかのような混成舞踊にも見える。
ああ――それはなんと美しい。
見蕩れるほどに。
見惚れるほどに。
雫の決死の舞踏は、気高く美しい。魔害物の狂喜の獅子舞は、異常に美しい
駆動の限界でも振るい、肉体の限界でも捌き、ただ雫は刀に魂を傾け、命をあらん限り輝かせる。
そして。
まるで輝きに魅入られた羽虫のように、獅子頭は喜色満面を表す。
同時に、輝ける少女を押し潰すように、獅子頭は手加減していて底知れぬ実力を――少し晒す。
楽しくて楽しくて、思わず羽目を――たがを外してしまう。
それだけで。
「くっ」
拮抗は防戦に塗り変わる。
雫は獅子頭の小太刀二本の速度にワンテンポ追いつけない。強靭な膂力に打たれ、刀ごしに腕が痺れる。苛烈な勢いに脳がついていかず、焦りが生じてしまう。
一度押され始めては、そのまま呑まれるのは必然。
雫の身体に、瞬く間に裂傷が刻まれる。優に百は超える刀傷が、雫の身から血を奪い取る。体力を削り取る。
すると当然の流れとして。
動作の精彩を、著しく欠く。
痛みは思考にノイズを走らせ、傷は動作に支障を与え、焦りは精神に害をもたらす。
速度が一歩追いつかないのに、さらに離されていく。
雫が一太刀斬りこむ内に、獅子頭は二――両手に刃を持つので、真実は倍で四――太刀振るわれる。一速の遅れが、三撃の被害を生む。次瞬にはそれがさらに倍、その次にも倍。倍倍ゲームの要領で被害は増加の一途。
雫はもはや斬るためではなく、命を一瞬でも繋ぐためだけに刀を振るっていた。我武者羅に、遮二無二、生き延びるために戦っていた。
とはいえ、どれだけ雫が必死に決死に戦おうとも、ジリ貧は明白。
このままでは死んでしまうことは目に見え、しかし。
こんなところで死にたくなかった。
こんなところで死にたくなかった。
その一心で、雫は自身の一歩上をいく獅子頭の太刀に喰らいつく。足掻き、もがく。
「カタカタ」
そんな雫の必死さを、獅子頭が歓喜し歯を鳴らす。
雫の命を振り絞った剣舞を賞賛し、嬉しく思うて笑い出す。
獅子頭の剣速が――また上昇。
「くっ!」
もう、追いつけない。
後は斬られるだけ。裂かれるだけ。死ぬ、だけ。
「カタリ」
雫の一瞬の諦めを、見透かすような酷く無味な笑い音が鳴る。
それはまるで、昂った感情をいきなり冷やされたような、酷くつまらなさそうな笑み。まるで、楽しかった遊戯に、飽きて興味が失せた子供が見せる、渇き切った笑い。
そう。
雫にはもう興味がわくほどの戦意が失われた。本能的に、獅子頭にはそれがわかった。
故に。
「カ――タリ」
決着はその時に、ついた。
腕が。
腕が腕が腕が。
腕が!
獅子頭の胸部から、新たなる三本目の腕が生え、雫を急襲する。無論、雫は獅子頭の両腕の処理に追われている。裂かれ続けている。
なす術は、ない。
「がふっ!?」
雫の膨らみはじめた、小ぶりの胸元に叩き込まれた魔物の拳。
衝撃は全身を突き抜け、雫は一瞬だけ絶息し意識を失った。すぐに内側から響くような疼痛が意識を引き戻し、次の瞬間には膝を折って苦痛にのた打ち回る。刀はダメージの深刻さから、すでにその手から消失していた。
呼吸が上手くできない。視界が歪んでぶれている。喉に違和感――吐き出せば血塊だった。
内臓を損傷したか――自己分析の暇もなく、獅子頭は雫のか細い首を第三の腕で掴む。掴み上げ、雫の足は地から離れてしまう。
そのままミシミシ、と人外の膂力で首を絞められ、呼吸が完全に停止させられる。意識が混濁する。混濁し、もうろくに思考すら回らない。
目の前にあるのは、死という名の暗闇だけだ。
苦しい、苦しい。酸素が足りない。足りない苦しい。首が痛い。痛い。死ぬ、死ぬ死ぬ、死んでしまう。このままでは死んで、いやだ嫌だ、死にたくない死にたくない。誰か、死にたくない、誰か、誰か助け――
その時。
誰かが、その異相空間に足を踏み入れた。
感じたのは雫だけではないようで、全ての行動を取りやめでまで、干渉してきた方向に獅子頭が向く。
そして。
「?」
何故だろうか。
気のせいだろうか。
死に近く、幻想を錯視しているのだろうか。
――獅子頭の魔害物が、震えているように見えた。
次の瞬きののちにはそんな幻想は失せ、魔害物も、その場から溶けるように掻き消えていた。
何だったのか。
雫にはなにもかもがわからない。
いや。
ただひとつわかるとすれば――足音は、確かに近付いていた。