第一話 氷の公爵と、棄てられた聖女もどき
シャンデリアの光が、眩しいほどに降り注いでいた。
王宮の大広間には、王族、上級貴族、各国の使節までが集まり、今宵の祝宴を彩っている。磨き上げられた大理石の床には金色の光が反射し、楽団の音色と笑い声が幾重にも重なっていた。
その華やかな空間の中央で、クロエ・ヴァンディミオンだけが、まるで舞台の上に一人取り残された役者のように立っていた。
「クロエ・ヴァンディミオン! お前との婚約は、本日をもって破棄する!」
王太子アルフォンスの声が、広間の隅々まで響き渡る。
その声が消えたあとに残った静けさの方が、クロエにはよほど大きく感じられた。何十もの視線が一斉に自分へ刺さる。扇の陰で動く唇。興味を隠そうともしない目。憐れみと嘲笑と好奇心が、華やかな広間の空気に混ざっていた。
胸は痛まなかった――と言えば嘘になる。心臓は速く打ち、指先は冷たい。それでも、その痛みの底には安堵があった。終わりの見えなかった試験に、ようやく終了を告げられたような安堵が。
これで、明日の祈祷で奇跡が起きるかもしれないと期待されなくて済む。来月には力が目覚めるかもしれないと慰められなくて済む。自分でも信じていない未来を、笑顔で信じるふりをしなくて済む。
予兆がなかったわけではない。ここ数か月、アルフォンスは祈祷の予定を尋ねなくなり、代わりにイレーネの名を口にすることが増えていた。王宮での席順も、晩餐への招待も、少しずつ変わっていた。クロエは気づいていた。ただ、気づかないふりをすることまで「聖女らしさ」の一部になっていただけだ。
だからこれは、突然突き落とされたというより、予想していた幕がようやく下りた感覚に近かった。人前で切り捨てられる痛みはある。それでも、終わるのなら今夜で終わってほしい。明日からまた「いつか奇跡が起きる」と笑う方が、クロエにはずっと恐ろしかった。
そして、アルフォンスの隣には――。
桃色のドレスに身を包んだ男爵令嬢イレーネがいる。胸の前で両手を組み、怯えたように瞳を伏せているが、その頬には隠しきれない紅潮があった。
「イレーネこそ真実の聖女だ! 彼女は枯れた花を蘇らせ、病に伏していた騎士を癒した! それに比べ、お前はどうだ。十一年間も聖女と呼ばれながら、奇跡の一つも起こせなかったではないか!」
ざわめきが広がる。
偽物。
役立たず。
王家を欺いた女。
実際には聞こえないはずの言葉まで、クロエの耳には届く気がした。
それでも、胸の底から浮かび上がったのは屈辱でも絶望でもなかった。
――ああ、やっと終わる。
物心ついた頃から、クロエは「聖女の再来」と呼ばれてきた。
五歳のとき、神殿の水晶がわずかに光った。それだけだった。
本来なら「適性があるかもしれない」で終わる程度の反応だったはずだ。けれど、王家との縁を求めるヴァンディミオン伯爵家の思惑も重なり、神殿はその小さな光を大げさに取り上げた。
『百年ぶりの聖女かもしれない』
その一言が、少女の人生を決めた。
祈り方を覚えた。
微笑み方を覚えた。
弱音を吐かない方法を覚えた。
人前で泣かない方法も、誰かに失望されても「申し訳ございません」と頭を下げる方法も覚えた。
けれど奇跡だけは、どうしても起こせなかった。
神殿でどれほど祈っても、クロエの掌に宿るのは、せいぜい擦り傷の痛みを少し和らげる程度の微弱な光だけだった。
それでも周囲は言った。
『まだ力が目覚めていないだけだ』
『王太子妃になる頃には、きっと』
『聖女らしくありなさい』
だからクロエは、聖女らしく振る舞った。
本当は数字を並べることの方が好きだった。帳簿の不自然な箇所を見つけたり、食糧庫の在庫を整理したりする方が、神殿で何時間も祈るよりずっと性に合っていた。
しかし、そんなことを口にすれば母は眉をひそめた。
『あなたは聖女なのですよ、クロエ』
それが呪いのように、いつも耳に残った。
一度だけ、幼いクロエは母に「帳簿をつける方が好き」と言ったことがある。返ってきたのは叱責ではなかった。もっと息苦しい、困ったような微笑みだった。
『そんなものは使用人に任せればよいのです。あなたには、あなたにしかできない役目があるでしょう』
その日からクロエは、好きなものを口にすることを少しずつやめた。好き嫌いは聖女に必要ない。求められるものを選べば間違わない。そうやって、自分で選ぶという感覚そのものを、いつの間にか手放していた。
「アルフォンス殿下」
クロエは静かに一歩前へ出た。
ざわめきが止まる。
十一年間身につけてきた作法は、こんなときでも身体を裏切らない。背筋を伸ばし、視線を下げすぎず、声は震わせない。
「殿下のご判断に、異論はございません。ただ一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「な、なんだ」
堂々と糾弾していたアルフォンスが、わずかに気圧された。
クロエは彼をまっすぐ見つめた。
「わたくしは一度たりとも、自らを『聖女』と名乗ったことはございません」
空気が変わった。
「五歳のわたくしを聖女候補と呼んだのは神殿です。聖女として教育するよう命じたのは父です。王太子妃に相応しい聖女であれと望まれたのは王家です。わたくしは、その期待に応えようとしただけでございます」
「それは……!」
「もちろん、期待に応えられなかった責任まで否定するつもりはございません」
クロエは静かに続けた。
「ですが、皆様が作り上げた『聖女クロエ』という像が偽物だったからといって、その責任をすべてわたくし一人に負わせるのであれば――どうぞ、ご自由に」
イレーネが顔を上げる。
アルフォンスの唇が震えた。
「ただ、これだけは申し上げておきます」
クロエは、ほんの少しだけ笑った。
それは十一年間繰り返してきた、完璧に整えられた聖女の微笑みではなかった。
「わたくしは、この瞬間を心待ちにしておりました」
「……何?」
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
声は震えなかった。けれど、ドレスの裾に隠れた膝はわずかに震えていた。平気だから立っていられるのではない。怖くても、もうこれ以上、自分で望んでもいない役に縋りつきたくなかった。
言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。糸が切れたのではない。きつく結ばれすぎていた結び目が、ようやく指でほどけたような感覚だった。
不思議と涙は出なかった。悲しくないわけではない。アルフォンスを愛していたかと問われれば、きっと答えに迷う。それでも、幼い頃から「この方の妻になるのだ」と教え込まれてきた未来が、目の前で音を立てて消えたのだ。何も感じないはずがなかった。
ただ、その喪失よりも先に、空白ができたことが嬉しかった。その空白に何を置くかを、初めて自分で決められる気がした。
淑女の礼を執り、踵を返す。
背後で誰かが息を呑んだ。
父が名を呼んだような気もしたが、振り返らなかった。
大広間の扉へ向かいながら、クロエは小さく息を吐く。
「――やっと、解放される」
誰にも聞こえないほどの呟きだった。
ただ一人を除いて。
広間の壁際で腕を組んでいた男――アルディア公爵ジークハルト・フォン・アルディアは、その言葉を確かに聞いていた。
社交界で「氷の公爵」と呼ばれる男。
北方最大の領地を治め、王国軍の一翼を担う公爵家当主。二十五歳という若さでありながら戦場でいくつもの功績を立て、無駄口を叩かず、笑顔を見せないことで有名だった。
彼は今夜の茶番を、最初から冷めた目で眺めていた。
――やはり、あの娘は知っていたか。
ジークハルトは以前から、クロエの「演技」に気づいていた。
二年前、王宮で開かれた慈善晩餐会のことだ。
聖女候補として微笑みながら寄付を募っていたクロエが、休憩時間に人気のない回廊で一人、帳簿を眺めていた。
『この支出、同じ孤児院に二重計上されています』
偶然通りかかったジークハルトに、彼女はそう言った。
その場にいた会計官より早く、不正を見抜いていた。
後日、ジークハルトが確認させると、二重計上は処理上の誤りとして修正され、余分に計上されかけていた寄付金も戻されていた。クロエ本人は、その顛末さえ知らなかっただろう。褒賞も名声も求めず、ただ数字がおかしいから指摘した――その姿が妙に記憶に残った。
ところが次の瞬間、神官が近づいてくると、クロエは帳簿を閉じて完璧な笑顔を浮かべた。
『聖女候補として祈りの時間です』
そう促され、彼女は何も言わず従った。
あのときから、ジークハルトは妙に彼女が気になっていた。
聖女としてではない。
聖女という役を演じさせられている、一人の少女として。
大広間を出ようとするクロエの前に、ジークハルトは歩み出た。
「ヴァンディミオン嬢」
クロエが足を止める。
「……アルディア公爵閣下」
驚いた顔だった。
当然だ。二人がまともに会話したことなど、ほとんどない。
「行くあてはあるか」
「……実家に戻ることになるかと」
「あの家に、お前の居場所があると思うか」
容赦のない言い方だった。
クロエは一瞬だけ目を伏せる。
ヴァンディミオン伯爵家が娘をどう扱うかなど、考えるまでもなかった。
『聖女の再来』という価値を失い、王太子との婚約まで失った娘。
父にとっては、失敗した投資のようなものだ。
「……ございません」
「そうか」
ジークハルトは懐から一枚のカードを取り出し、差し出した。
アルディア公爵家の紋章が刻まれている。
「北の公爵領は、常に有能な人材を求めている。行くあてがないなら訪ねてこい」
「それは……保護、ということでしょうか」
「好きに解釈すればいい」
「わたくしが有能かどうかも、まだ分からないのでは?」
ジークハルトの瞳がわずかに細められた。
「二年前、慈善晩餐会の帳簿の二重計上を最初に見つけたのはお前だろう」
クロエは目を見開いた。
「……覚えていらしたのですか」
「数字を見る目がある人間は貴重だ」
それだけ言って、ジークハルトは背を向けた。
呼び止めようとして、クロエはやめた。
手の中のカードが、妙に重かった。
聖女という仮面を剥がされた今、自分に何が残っているのか。
まだ分からない。
けれど、一人だけ。
聖女ではない自分を見ていた人間がいた。
それは、今のクロエにとって奇跡よりも信じがたいことだった。祈りの姿勢でも、王太子妃としての作法でもなく、誰にも褒められなかった数字を見る目を覚えている人がいる。
たった一枚のカードに過ぎない。それでもそこには、「聖女ではないなら価値がない」というこれまでの常識とは、まったく違う道が書かれているように思えた。
クロエはカードを胸元に握りしめた。
――もう、誰かのための聖女を演じなくていい。
大広間の扉が閉じる。
その音は、十一年間続いた舞台の幕が降りる音のように聞こえた。




