満月より少し欠けた月
僕は、感情をうまく表に出すことができない。
きっかけは、ほんの些細なことだった。それ以来、感情表現ができない。僕は誰に対しても曖昧な微笑を浮かべ、声を荒らげることもない。
そんな表に出せない感情を、僕は文章に綴った。心の拠り所を求め、たくさんの本も読んだ。こうして文章を書くことを仕事にしているのは、ある意味必然だった。むしろ、僕にとっては唯一残された自分を表現する手段ともいえる。
「中村さん、これはちょっと……」
担当の女性編集者が、顔を曇らせた。僕が書いた記事のなかに、ミスが見つかったという。権利関係が絡む重大なもので、いまの段階で見つかったからよかったものの、そのまま出版されていたら大変なことになるところだった。
「申し訳ありませんでした」
自分でも信じられなかった。こんな初歩的なミスをするなんて。確かに、最近依頼が立て込んで、夜中まで作業することも多かった。とはいえ……。
「中村さん、いつも丁寧にお仕事されてるので、ちょっと残念でした。それにしても……」
彼女は僕の顔から目をそらすと、大きくため息をついた。
「いつもそうですけど……中村さん、こんなときでも本当に表情ひとつ変えないんですね。わかってるのかな。これ、けっこう大きな問題なんですけどね」
「ただいま」
夕食の支度を終えるころ、ちょうど彼女が仕事から帰ってきた。今日は少し早い。
「おかえり。今日は何だか機嫌がいいみたいだね」
彼女の表情は明るい。「そう?」もったいぶったように首を傾げ、笑顔を見せる。
「あのね……今日、会社から家まで帰ってくる間、信号がずっと青だったの」
おどけたように笑ってみせる。「すごいでしょ?」
戸惑っていると、彼女は急に笑うのをやめ、肩をすくめて小さくため息をついた。
「本当はね、ちょっと仕事でミスして怒られちゃって……。だから、何か楽しいことを考えようと思って。そうしたら、帰り道の信号がずっと青でね、それに、知ってる? 今日は満月なんだよ。まんまるで、とってもきれいだった」
だからね、もう終わったことは忘れようと思って。彼女はそう言って笑った。そういえば、少し目もとが赤くなっている。きっと、かなりつらい思いをしたに違いない。
彼女のすごいところは、こうやって自分の感情をコントロールできるところだ。いつもくるくると表情が変わり、すぐ笑い、すぐ怒る。でも、けっして相手に強く気持ちをぶつけたり、困らせたりしない。
「今日はお酒、飲んじゃおうかな」
彼女は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出すと、1本を僕の前に置いた。
「コウちゃんも飲むでしょ?」
言われるまま、冷たいビールを口にする。「うん、美味しい」彼女は顔をほころばせる。
自分も彼女のように気持ちをちゃんと口にして、笑い飛ばせたら。本当は、自分も今日……。そんなひと言が、うまく出てこない。いつももどかしく思っている。こんな重苦しい感情をずっと心のなかに持ち続けて、何もできない自分を。
さっきまでお酒を飲んで楽しそうに話していた彼女は、僕の横で気持ちよさそうに眠っている。常夜灯の薄暗い明かりのなかで、ぼんやりと天井を見上げる。
――眠れない。
そっとベッドから起き出すと、カーテンを少しだけ開けて外を見た。彼女の話していたきれいな満月は、僕には見ることができなかった。
翌日、彼女は急遽実家へ帰ることになった。体調を崩して父親が入院し、不安になった母親が彼女を呼んだらしい。
「何とか休みがもらえたから、ちょっと行ってくる。日曜日には帰るね」
小さな体に大きなリュックを背負って、彼女は笑顔で部屋を出ていった。
いつものようにコーヒーを片手に、パソコンの前に座る。キーボードを打とうとして、手が止まる。
――何も、出てこない。
自分にとって、書くことはただひとつの自分を表現する手段。それなのに、何ひとつ書きたいことが出てこない。何が起こっているのか、自分でもわからなかった。1日じゅうパソコンの前に座ったまま、時間だけが過ぎていく。画面はずっと白いまま。
気づくと、外は暗くなっていた。カーテンを閉めようと、窓際へと歩く。空はうっすらと曇り、月は見えない。
夕食を作る気力もなく、ソファに沈み込む。今日は彼女は帰ってこない。
――コウちゃんも飲むでしょ?
冷蔵庫から缶ビールを取り、口にした。彼女はどうしているだろうか。連絡がないということは、お父さんの具合はそれほど心配することはないのかもしれない。彼女は夢中になると周りが見えなくなる性格なのだ。渇いた体にアルコールがしみわたり、ぼんやりとした頭で考える。
気づくと、朝になっていた。ソファでそのまま眠ってしまったらしい。目の前のテーブルには、ビールの空き缶がいくつも転がっている。
――こんなところを彼女に見られたら、きっと怒られるだろうな。
彼女と出会ってから、僕はがらりと生活を変えた。朝はきちんと起き、夜には眠る。それまでの昼夜逆転のような状態から、いまは人並みの生活を送れるようになっている。
コーヒーを手に、パソコンの前に座る。今日も何も書けないまま、時間だけが過ぎていった。体のなかにあるものが行き場を失って積み上がり、蠢いている。そういえば、昨日の夜から何も食べていない。でも胸の奥に何かが詰まっている感覚があり、食欲もない。
――いったい、どうすれば……。
ふと携帯を確認する。彼女からはまだ何も連絡がない。
「コウちゃんごめん、連絡が遅くなっちゃった」
翌日の夕方になって、ようやく彼女から連絡が来た。父親は検査の結果に異常はなくすぐに退院できること。地元の友人が会いに来てくれて、久しぶりに話したこと。
「明日の午前中に退院だからそのあとすぐに帰れるんだけど……久しぶりに帰ってきたから、日曜日までこっちにいようかなって。お母さんがね、駅前に新しくできたスイーツやさんに行きたいんだって。笑っちゃうでしょ」
楽しそうな彼女の声に、ほっとするのと同時に胸に小さな痛みを感じた。結局、この3日間は書くこともままならず、食事もろくに喉を通らず、夜には酒を飲んで眠った。もうあと何日こんな状態が続くのか、自分でもわからなかった。
「コウちゃん、聞こえてる?」
「……ああ、うん。せっかくだから、ゆっくりしてくるといいよ」
「うん、ありがとう。お土産いっぱい持って帰るからね」
電話を切ると、倒れるようにソファに沈み込んだ。
――自分には、いったい何が欠けているんだろう。
そして今日もまた、冷蔵庫に手を伸ばす。
いつの間にかうたた寝していたらしい。どのくらい時間が経ったのか。携帯の着信に気づき、手にとった。彼女だ。
「コウちゃん、助けて」
「……え?」
「いいから、早く。窓の下を見て」
携帯を持ったまま窓際へ行き、下を見た。そこには、大きなリュックを背負い、両脇にいっぱいの荷物を置いてこちらを見上げている彼女がいた。
「重くて、上まで持っていけないの」
慌てて玄関を出ると、彼女のもとへ向かった。彼女は息を切らしながら、僕を見てはちきれんばかりの笑顔を見せた。
「ただいま」
「……どうして? 日曜日までいるって……」
「だって、コウちゃん、変だったから。何かあったのかなって心配になって」
僕の様子がおかしいと感じ、電話を切るとすぐに実家を出たらしい。「お母さんもね、コウイチさんのそばにいてあげなさいって」
「……ごめん。せっかく向こうで楽しんでいたのに。僕のせいで……」
「何言ってるの?」
彼女は下から僕の顔を覗き込んだ。
「コウちゃんはいつも何も言ってくれないけど……すごくつらいことがあったんでしょ。そんなときは、そばにいたいの。何も言ってくれなくていいから、ただそばにいて、笑っていたい。だって、私、コウちゃんのことが大好きだから」
迷いのない瞳。胸が熱くなる。「……ねえ、泣かないで」彼女の姿がぼんやりと霞む。
「ほら、見て。今日も月がきれいだよ。まんまるじゃないけど」
見上げた空には、満月を過ぎて少し細くなった月がきれいに浮かんでいた。
「満月じゃなくても……欠けててもいいよね。私、どっちも好き」
「……ありがとう」
ありがとう。帰ってきてくれて。そして、そばにいてくれて。




