お昼は適度にダラダラと
「あたーらしい朝が来た!きぃぼーのあーさーだー!」
雲ひとつない青空の下。絶妙に音程のズレた歌が高等学校の屋上から響いている。
「よーろこびに胸を開け、青空あおーげー」
歌の主は夏の太陽をそのまま反射しているのかと思うほど真っ白なシャツとシワひとつない紺色のスカートを来た少女だ。傍から見れば合唱の練習に見える清々しい画。彼女が今、屋上のフェンスの上に座っていることを除けば。
少女は歌い切ると顔を上げ、晴れやかな顔でこう言い放った。
「うん!死のう!」
少女は器用にもフェンスの上に立ち上がり、両手を広げてフェンスの上を綱渡りでもするかのように歩く。
彼女の視線の端ではグラウンドで他学年の生徒が体育の授業で汗を流しながら、体育祭に向けたダンスの練習をしている。だが、教師も含め誰も少女の存在に気付くことはなかった。
少女は鼻歌を歌いながらフェンスの角まで辿り着くと、脚を揃え、大きく息を吸う。
すると、少女の鼻腔に白い煙が入り込んだ。
「くっさい!!」
喉に痛みを与え、胃をひっくり返されるかのような悪臭。タバコの煙だ。
少女はたまらず咳き込む。その反動でフェンスから脚を滑らせ、体が前屈の状態で前に傾いた。
「うっわっと!」
少女は慌てて背筋を伸ばし、つま先に力を込めて重力に逆らう。持ち前の運動神経で姿勢を立て直すと、タバコの主に文句を言ってやろうと煙の元に視線をやった。
「なんだ、死なねえのな」
視線の先には貯水槽の上からニヤニヤと少女を見つめる不浄髭を生やし、黒に近いグレーのスーツを着た男がいた。
男の髪はろくに手入れもされておらず、四方に伸びていて寝不足なのか目の下には黒いクマが入っている。
「……おじさん、悪いんだけどここから出ていってくれないですか?私、ちょっと大事な用事があるの」
「嫌だね。俺が先にいたんだ。一人で死にたいならお前がどっか行け」
男は咥えていたタバコを手にし、少女をあしらうようにぶんぶんと振ってみせる。
少女は男の姿に見覚えがあった。と言っても面識はなく、全校集会の際にいつも教師陣の中におり、遠目からでもわかるほどの酷い猫背を印象的に覚えていただけだったが。
「あなた、先生ですよね?こんなところでサボっていていいんですか?告げ口しちゃいますよ?」
「トイレの蛇口から出る水が汚い、それをたまたま俺が見つけて、俺はその対処をしているだけだ」
「……にしては工事の道具とかも持ってなさそうですけど」
「こうしてタバコを吸ってるのが工事さ。タバコを吸ってるとなぜか水は綺麗になってる。水が綺麗なら俺は仕事をしたことになる」
男はニヤケ顔を崩さずタバコを吸い、青空へ向けて息を吐く。その態度はまるで隠すつもりのない嘘を並べているようだ。
「なら、私が本当に汚れているのか確認してきます。なのでどこのトイレか教えてください」
「おう、3棟校舎の3階男子トイレだ」
3棟校舎の3階、少女がいる1棟校舎の屋上からはどう頑張っても7〜8分かかる距離。だが、少女は男の態度を非難するため、全速力で校内を駆け抜けた。
往復で13分。
屋上に戻ってきた少女の額には大粒の汗が見え、肩を大きく揺らして息を乱している。
「はぁ、はぁ、はぁ……、嘘じゃん!!」
「あ?あぁ、戻ってきたのか」
男は少女を忘れていた、とでも言いたげな口調で出迎えた。
「汚い水なんて出ないじゃん!全然綺麗じゃん!」
少女の言葉を聞いた男はゲラゲラと大きな笑い声をあげ、お腹を抱えひとしきり笑ったあと少女の方を向き直した。
「お前、本当に確認しにいったのな!」
「そうだよ!中の男子と目が合って、めっちゃ気まずかったんだから!!」
「ぎゃはははは!ひぃ、や、やめろ!笑い死ぬ!!」
少女の話を聞くたびに男の笑いは大きくなり、ついには呼吸すらままならなくなっている。
「もう絶対許さない!校長先生に言ってやるんだから!!」
「あー、待て待て。蛇口の水、だよな?あぁ、本当に汚かった。汚かったけどちょうどさっき終わったんだよ」
男はなおも上擦った声で、笑いを堪える方が必死な様子だ。
「だから嘘なんでしょ!私、確認してきたんだよ!?」
「どうして、嘘だって思うんだ?俺は汚い水を見た。その報告を受けた校長は俺に屋上へ行くように言った。んで、後から来たお前が随分経ってから確認に行った。その間に治っただけのことなんじゃないのか?」
少女が言葉に詰まる。確かに少女は屋上に出る時に扉には鍵をかけ、誰も上がってこれないようにした。
というとことは男は少女よりも先に屋上にいたのは確かだ。
ましてや、貯水槽の工事なぞ少女が見て良し悪しを判断できるはずもなかった。
つまり、男が嘘をつき、屋上でサボっていたことを断定できる要素は最初からなかったのだ。
そのことに気づいた少女は俯き、無力感から一瞬拳を握り締めるが、すぐに力が抜けていく。そして、トボトボとフェンスの方へ足を進めた。
「結局そうやって、みんな、嫌いだ……」
少女がフェンスに手をかけたところで、男が声をかけた。
「なぁ、クソガキちゃん。お前、タバコは吸ったことあるか?」
男の言葉に少女は怪訝な表情をし、睨み返す。
「あるわけないでしょ。私、未成年だよ?」
「喧嘩も?酒も?ギャンブルも?SEXも?」
少女の顔がさらに険しくなる。耳障りな言葉を聞かされ、自分は一体何を問われているんだ。
「私、そういうのに依存してる汚い大人って大嫌いなの」
「ははは!クソガキもクソガキじゃねぇか!!」
男は瞼に手を当て、わざとらしく大きな声で笑う。その様子が少女の癪に触り、少女の中で男に対する嫌悪感が最大に達した。
「はぁ、もう話しかけないでくれますか?」
人生最後に関わるのがこんな男だとは……。込み上げたため息を感情のままに出し、男への不機嫌をアピールする。
最悪な気分。だが、男に悪態をついた瞬間、少女は自分が抱いた感情に違和感を覚えた。
「いま、楽になったか?」
男の言葉が刺さり、少女の瞳孔がわずかに揺れた。
「お前、いい子だろ?」
少女はコミュニケーションを拒むつもりで目も向けず、言葉も返さない。だが、男はそんな少女の様子を気にすることなく続ける。
「テストはいつも平均以上、忘れ物もなく、皆勤賞で当たり前。教師や友達の前ではいつも笑顔で、困ってる人に声をかける。大体合ってるか?」
フェンスを掴む少女の手に力が入り、フェンスが音を上げる。
「そうよ、私は今まで頑張ってきたの!みんなに好かれるように!みんなの期待を裏切らないように!あなたみたいな人とは違うの!!」
少女の心からの叫び。それは少女の喉と胸を切り裂きながらできてきたものだった。
「言われた通りの高校に入って!部活も必死に残って!結果も出した!テストだって頑張った!一番になった!なのに、どうして、どうして……」
言葉と同時に少女の瞳から涙が溢れる。少女は男にこんな姿を見られないようにとうずくまり、必死に声を抑えるが一度溢れた叫びは少女の体を何度も強く振るわせた。
必死に自分の体を抱きしめ、これ以上はもう、今すぐ落ち着け、治れと自分の体に願う。
そんな少女を男は死んだ魚のような目で見つめ、体を丸めたところで口を開いた。
「何があったか話せ、なんて言う気はない。聞く気もない。だけどな」
続く言葉を放つ前に男は肺いっぱいに煙を貯め、大きく息を吐いて空を見上げた。
「お前が嫌ってる汚い大人は皆んな、お前と同じように苦しんでそれでも生きるために汚くなったんだ」
男の言葉を聞く余裕などない。だが、男の言葉は今まで掛けられたどんな言葉よりも少女の中にすんなりと入っていく。
「うっ……うっ……」
辛い。悔しい。恥ずかしい。死にたい。楽になりたい。消えたい。何もしたくない。吐きたい。叫びたい。縋りたい。助けてほしい。
今まで十数年の中で感じたことのない無数の心の叫びが少女を覆い包んでいく。
「なぁ、クソガキ」
気づけば男は少女の側まで近づいていた。
「大人の依存にはいくつもの救われた命がある。タバコを吸ってるから、ギャンブルをしているから、だから少しくらいの理不尽な目には遭っても仕方がないって思えるんだ」
少女の荒い呼吸の中にタバコの煙が混じる。むせ返るほど嫌いだったタバコの匂いが、今は唯一感じられる自分以外の匂いで、少女は大きくそれを吸う。
「誰もお前を救ってやれないけど、こいつだけは黙って話を聞いてくれるさ」
そう言うと男は屋上から校舎へと戻っていく。その後を見ると、そこには3本のタバコとライターが置かれていた。
そしてチャイムが鳴り、日は沈み、桜が咲いた。
全校生徒全教師が体育館で校歌を歌う中、校歌を鼻歌で歌いながら屋上に向かう影があった。
あの日と同じように雲ひとつない晴天。少しばかり涼しいだろうか。あの匂いは香ってくるだろうか。
そんなことを思いながらドアを開け、大きく息を吸う。
「や、先生!今日も水は汚いの?」
「あぁ、いい感じにな」
「そっか、なら仕方ないね!」
梯子を伝い貯水槽の上へ登る。
桜舞う青空の下、屋上の貯水槽で寝転がる二人。
「お前、出なくていいのか」
「うん、私がこうしてると何故か水が綺麗になるから」
その言葉に吹き出し、煙が揺れる。
「あ、そうだこれ」
「あぁ、まだ持ってたのか」
「うん、私はまだもうちょっとだけ頑張れるから」
自信はない。根拠もない。だけど、不安もない。
「ちょうど切らしたんだ。ありがとな」
影が伸びる。それをからかうように飛び起きた。
「だーめ!」
「なんだよ、吸わないなら返してくれよ」
「今は、まだ、ってだけだから!」
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