政略結婚、それは終わらない呪い。
その日、ミラ=ルクレシアは呼び出された。
豪奢な馬車に乗ってルクレシア公爵邸に戻った彼女を迎えたのは、冷え切った空気と、見下ろすような父の視線だった。
「ミラ。恋愛ごっこはもう十分だろう?」
テーブルの上に置かれたのは、一枚の書状。
金色の封蝋が意味するのは——政略結婚の正式な通達。
「……また、ですか」
「またではない。これは決定事項だ。お前の将来、いや、ルクレシア家の未来にとって必要な一手だ」
ミラの父、ディオン=ルクレシア公爵は、昔からそうだった。
娘に愛情を注ぐ代わりに、価値を求め続けた。
「相手は、東部連合の次期総帥候補。恋愛偏差値も高く、国家間のバランスも取れる。……恋愛ごっこをしてる暇などないのだ」
「私は、まだ——」
「拒否は認めん。お前は、ルクレシア家の商品なのだから」
その一言に、ミラの表情が微かに揺れる。
幼いころから言われ続けた言葉。
好きなんて無意味。
愛なんて幻想。
恋はただの演技。
そう信じ込まされてきた。
——でも今は違う。
(あの人といると、胸が熱くなる。涙が出そうになる。演技じゃない、これは……)
思い浮かぶのは、廉の真っすぐな目。
どんなに笑われても、どんなに偏差値が低くても、「俺は本気で恋をしたい」と言ってくれた彼の姿。
「……私は、従えません」
「なんだと?」
「私は……私自身で未来を決めます。恋も、結婚も、本気で選びたい人とする」
ディオン公爵の手が震え、書状を握りつぶす。
「……世迷言を。お前に意思など必要ない!」
ミラは何も言わずに立ち上がると、踵を返し部屋を出た。
後ろから飛ぶ怒号も、冷たい罵声も、もう届かない。
彼女の中に芽生えたもの——それは、決して消えない本当の想いだった。
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「逃げよう」
学園の屋上で、俺はそう言った。
夕陽を背に、ミラがぽつんと立っている。
「政略結婚の通達、来たんだろ?」
「……ええ。今度こそ、強制力のあるものだった」
「なら、逃げよう。俺と一緒に」
ミラの目が見開かれる。
「あなた……何を言って……」
「無理なんてわかってる。現実的じゃないってのも。でも、それでも……お前が誰かに売られるのを、黙って見てるなんて俺にはできない」
「……」
風が吹く。沈黙が流れる。
「俺さ、昔……裏切られたんだ」
「……え?」
「転生前、好きだった子に。信じてたけど、俺の本気は笑われた。誠実なんて重いって、捨てられた」
「……!」
「だから、もう恋なんてしないって思ってた。でも——お前に会って変わったんだ」
言葉が自然とあふれてくる。演技でも、戦略でもない。これは、〈誠実力〉が導く本心。
「お前の演技が、どこか寂しそうだった。冷たそうで、でも本当は誰よりも優しかった」
「廉……」
「だから、逃げよう。お前が望むなら、どこへだって連れて行く」
ミラは唇をかみしめ、目を伏せた。
彼女の中にある恐れ——愛されること、信じること、そして選ぶこと。
ずっと誰かの操り人形として生きてきた彼女が、自分で決めるということの怖さに震えている。
「怖いの……私は、恋をしていい人間じゃない」
「そんなこと、誰が決めたんだよ」
俺はそっと、彼女の手を取る。
彼女の手は、冷たくて、でも震えていた。
「俺が決める。お前は、恋していい。愛されていい。……だって、俺が、お前を——」
言いかけたその瞬間、ミラの目から、涙がひとしずくこぼれた。
「……ごめんなさい。今は、まだ答えられない」
でもその涙は、確かに演技じゃなかった。
それだけで、俺は充分だった。
「大丈夫。答えなんて、急がなくていい。俺は、お前のそばにいる」
二人の影が、夕焼けの中でひとつになっていく。
過去の呪いに抗って——自分の意志で、未来を掴むために。