SS06 紅い月の下で
魔界の夜はいつもと変わらず、紅い月が漆黒の空を静かに照らしていた。旅の途中で立ち寄った小さな城の一室、篠原真奈はその窓際に座り、魔界の独特な風景を見下ろしていた。
「こんな世界にいるのが、当たり前みたいに感じてきちゃったな……」
そうつぶやきながら、真奈は膝を抱えてため息をついた。異世界に召喚されてからの日々は忙しく、驚きと緊張の連続だった。けれど、その中にも笑顔や喜びがあった。そして何より、あの冷たい瞳の王子——ラザールと過ごす時間が、彼女にとって特別なものになりつつあった。
そんなことを考えていると、部屋の扉が静かにノックされた。
「入っていいか?」
低く穏やかな声が聞こえた瞬間、真奈の心臓が高鳴った。
「う、うん。どうぞ。」
扉が開き、ラザールが姿を現した。普段は厳しい顔つきをしている彼だが、このときの表情はどこか優しげだった。
「窓際で何をしている?休んでいるようには見えないな。」
「うん、ちょっと外を眺めてただけ。」
真奈は少し照れくさそうに微笑んだ。ラザールは彼女の隣に歩み寄ると、壁にもたれるようにして立った。
「……ここから見る月は、魔界のどの場所よりも美しいと言われている。」
「ほんとだね。ずっと眺めていられそう。」
紅い月を見上げる真奈の横顔に、ラザールの瞳が吸い寄せられた。月明かりに照らされた彼女の黒髪は、滑らかな絹のように輝いている。
「……真奈。」
不意に呼ばれ、彼女ははっとしてラザールを見上げた。
「な、なに?」
「無理をしていないか?」
その問いは真剣そのものだった。いつも冷静で威厳ある王子の声が、今はどこか親しみを感じさせるものに変わっている。
「え……?」
「お前は強い。だが、無理をして笑っているようにも見えるときがある。お前がこの世界に来て、どれだけ不安だったか……私には完全に理解できない。だが、もし支えが必要なら、私は——」
ラザールが言葉を続けようとした瞬間、真奈が小さく首を振った。
「大丈夫だよ、ラザール。本当に大丈夫。みんながいるから、怖くないよ。」
その言葉にラザールは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに静かな笑みに変わった。
「そうか……お前らしいな。」
◇
二人はしばらく言葉を交わさず、ただ窓の外を眺めていた。しかし、次に口を開いたのは真奈だった。
「ねえ、ラザール。」
「なんだ?」
「私、この世界で頑張れるのは、ラザールがいるからだよ。」
その言葉にラザールの紅い瞳が僅かに見開かれた。
「最初は、怖かった。ラザール、ちょっと怖い顔してたし。」
「……それは否定できないな。」
真奈がくすりと笑うと、ラザールも肩の力を抜いたように苦笑する。
「でもね、ラザールはすごく優しいって、すぐわかったよ。いつも私のことを守ってくれて……私、ラザールがいると安心するんだ。」
ラザールはしばらく黙ったままだったが、その視線が真奈をじっと見つめていた。
「……お前は、不思議なやつだ。」
「えっ?」
「私のような男を恐れずに、信じると言える。その純粋さに、私は……」
ラザールは言葉を詰まらせた。真奈が首をかしげると、彼は顔をわずかにそらしながら続けた。
「……お前がここに来てくれたことを、心から感謝している。」
その一言に、真奈の胸はぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
「ラザール……」
「私も、お前がいると安心する。」
真奈の頬がほんのりと紅く染まった。その様子に気づいたラザールも、自分が率直すぎる言葉を口にしたことを悟ったのか、少しだけ視線を逸らした。
「……忘れろ。今のは。」
「忘れないよ!」
真奈はすぐにそう言って、笑顔を浮かべた。その笑顔がどれだけ彼の心を揺らしたか、彼女はまだ知らない。
◇
「そろそろ休め。」
「うん、そうする。」
真奈がベッドに向かうと、ラザールは扉の方へと歩き出した。
「おやすみ、ラザール。」
その一言に、彼は立ち止まり、振り返った。
「……おやすみ、真奈。」
そして扉が閉じられたとき、真奈は胸に手を当てた。
「……ラザール、本当に優しいんだから。」
紅い月の下、真奈の心には温かな感情が灯っていた。それは少しずつ、けれど確実に、彼への想いを深めていくものだった。
——おしまい——




