2 お前が欲しい
5/11朝改稿しました。
ユージーンと出会ったのはクリスティーナが六歳の頃だった。
近隣の諸外国との交流目的でルーナ王国で夜会が催された。その夜会の前座として行われた昼食会には諸外国の王族とその子ども、ルーナ王国の王侯貴族とその子どもが参加して、クリスティーナはそこでユージーンと出会った。
「君はこの国の子?」
「そうよ。あなたは?」
「僕は隣のバルミュ王国から来たんだ。ユージーンだよ」
綺麗な顔をした男の子だと思った。物腰も柔らかで物語に出てくるような王子様みたいな男の子。
相手が名前を名乗ったのだから、クリスティーナも名前を名乗るべきだった。だが、五歳のクリスティーナは名前など知らなくても困ることがなかったので、名前を名乗らずユージーンと昼食会を過ごした。
大人は大人だけで集まって会談しながら昼食を取っていた。
クリスティーナはユージーンの隣で食事を取った。
ユージーンは所作も完璧な男の子だった。
「人参嫌いなの?」
ユージーンの皿を覗くと人参だけが避けてある。
「っ!」
ユージーンは赤い顔をして、ゆっくりと頷いた。
クリスティーナは自分の皿を見る。自分の皿にも人参だけが避けてあった。
いつも人参を残すとマナー教師に怒られる。自分が怒られるのは平気だが、この男の子が怒られるのはダメな気がした。
「私、人参大好きなの! こっそりもらっても良い?」
人の皿にあるものをもらうなど最悪のマナーだが、六歳のクリスティーナはそんなことは気にせずにユージーンの皿から人参をフォークに刺して口の中へ運んだ。
嫌いな人参の青臭い匂いが口の中で広がって、クリスティーナは涙目になる。
「お……おいしい!」
水で無理矢理流し込んで、ユージーンに美味しいと言って見せた。
「あ、ありがとう……!」
人参は不味かったが、ユージーンを助けることができた気がしてクリスティーナは誇らしい気持ちになった。
それから夕方までユージーンとクリスティーナは一緒に過ごした。ユージーンは物知りで柔らかな口調でクリスティーナに色々なことを教えてくれた。
その日一日でクリスティーナは優しいユージーンのことをすっかり好きになっていた。
「僕はまだこの大陸のことしか知らないけれど、世界はもっと広いんだ。いつか船に乗って別の大陸へ行って、違う文化にも触れてみたい。もっと世界を知ってみたい!」
「楽しそう!」
「僕は王子だから無理かもしれないけどね……」
「そうなの? でもいつか出来たらいいよね!」
ユージーンは優しく微笑んで「うん」と言う。
二人でそんな話をして笑い合った。
ユージーンのことは後から家庭教師に聞いて、バルミュ王国の第二王子であることを知った。
二歳年上の優しい王子様。彼とはそれから会う機会もなく、初恋は思い出のまま終わっていくものだと思っていた。
だからいずれ女王となるクリスティーナの王配にバルミュ王国の第二王子を迎えようと考えていると聞いたときには驚いた。
クリスティーナとユージーンは四年前、クリスティーナが十六の頃に婚約が結ばれた。ユージーンはその三年前からこのルーナ王国で帝王学を学ぶために留学しており、学園での優秀な成績を見てクリスティーナの婚約者候補として上がっていた。
「初めまして、クリスティーナ王女。バルミュ王国第二王子ユージーン・ルド・バルミュです。どうぞよろしくお願いいたします」
婚約前の顔合わせで恭しく跪いてクリスティーナに挨拶をするユージーンは十年前のあのときと変わらず完璧な王子様だったが、ユージーンは「初めまして」と挨拶をした。
十年以上も昔のことだから、あのときのことなど忘れてしまっているのだろうとクリスティーナはそのことを話題にするのはやめてユージーンに倣って「初めまして」と挨拶をした。
◇
クラスティーナとユージーンの婚約から三年が過ぎたときだった。
「え、クリスティーナ殿下……!? お早いお戻りで……予定では二日後のお戻りだったはずでは……?」
「ええ、ユージーン様に確認したい事案が発生したから、視察の途中だったのだけど切り上げたの。急ぎユージーン様と話がしたいのだけど、執務室かしら?」
ユージーンの執務室の前に立ちはだかる従者を押し退けながら執務室の扉へ向かう。
「あ、いや……今はちょっと……」
従者は歯切れの悪い返事をした。
「なに? 急いでいるの」
クリスティーナがユージーンの執務室をノックしようとすると従者が慌てて「ちょっと待ってください!」とクリスティーナを引き止める。
「大事な話なのよ」
クリスティーナの手を掴もうとしてきたので、クリスティーナはそれを振り払うと甲高い女性の声が扉の向こうからした。
「えっ……?」
誰の声? クリスティーナの背中から嫌な汗が流れる。
「今は……いけません……!」
従者が小声でクリスティーナに手を伸ばして引き止めようとしたので、クリスティーナは「無礼よ」とパシンとその手を振り払う。
そして、ノックもせずにクラスティーナはそっと執務室の扉を開く。
従者に見張りをさせていたためか、執務室の鍵はかかっておらず扉はゆっくりと開いていく。
そして僅かの扉の隙間から漏れ聞こえる快楽に溺れた不快な声。
そこでやめておけば良かったのに、クリスティーナは扉の隙間からその声のする方を見てしまう。
その先には執務机の前で獣のように盛るユージーンとレイチェル。
ユージーンはレイチェルの名前を何度も呼ぶ。
「地味で可愛げのないクリスティーナと違って君は本当に可愛いね」
レイチェルは嬉しいと言って口づけを強請り、二人は愛を叫びあって身体を重ねる。
そしてレイチェルは豊かな金髪を振り乱しながら、偶然扉の方に目を向けた。
そしてゆっくりとレイチェルの視線がクリスティーナと合う。
彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに勝ち誇ったような笑みをクリスティーナに見せる。
っ!
クリスティーナの胸がドクリと嫌な音を立てて慌てて扉を閉めて、従者には「また後でくるわ」と告げて走って逃げた。
クリスティーナの心はズタズタに切り裂かれたような痛みが走る。
なんとか自室まで辿り着いたら、クリスティーナは洗面台で吐きながら、散々泣き明かした。
だが、あんなところを目撃しても、長年の焦がれるような恋心は簡単には諦めきれなかった。
クリスティーナとユージーンの婚約は国同士の同盟も兼ねていたため、ユージーンが簡単に婚約解消を言い出さないことはわかっていた。
レイチェルだって公爵令嬢で、いつまでも王配の愛人という立場にいるわけにはいかないはずだ。
きっと二人は一時だけの関係だ。
クリスティーナはこの日の出来事はなかったことにした。
◇
「ランス! 降ろして! お父様を迎えにいって! 命令よ!」
何度叫んで命令してもランスロットは止まってくれない。
もうどれくらい馬で駆けただろうか。
王都から離れた森の中まで逃げ込んで、ようやく馬が止まる。
「ここまでくれば、よほどのことがない限り大丈夫だろ……」
ランスロットの後ろには影が二人ついてきていた。
「姫さん、少し休め……」
ランスロットがクリスティーナを馬から下ろして、水筒を渡す。
「ランス、早く王城へ戻らないと! お父様が困っているわ! 政務だってたくさん残してきてしまったし!」
ランスロットに縋るクリスティーナの目はまだ虚なものだった。
「姫さん! 現実を見ろっ! 陛下は死んだんだ! 断頭台で首を刎ねられたところ姫さんも見ただろっ……!」
「っ!」
ランスロットはクリスティーナの肩を掴んで少し揺さぶって、視線を合わせる。
「陛下は、殺されたんだ……! ゼクト公爵と、ローヴァン大公に……!」
「…………っ、なんで……!」
虚ろだったクリスティーナの目にランスロットが映り込む。
「なんで……お父様を助けてくれなかったの……!」
クリスティーナはランスロットの胸を叩く。
自分でも何もできなかったのだから、ランスロットが父を助けられなくても仕方がない。こんなものは八つ当たりだ。
ランスロットが膝をついて下を向く。
「姫様、申し訳ございません。俺たち親衛隊は何よりも姫様のお命を優先するように陛下より命を受けておりました」
ランスロットは表向きは騎士団所属の王女専属の護衛騎士だが、本来は王家の影が属している親衛隊の隊長だ。
「王家の影も何人か革命軍に捕まり、親衛隊メンバーは今では俺とジョアンとケイトしか残っていなくて」
ジョアンとケイトとはランスロットの後ろからついてきていた二人の影のことだ。
護衛の騎士服を着ているランスロットとは違い二人は黒ずくめの衣装で目元以外は全て隠れていて顔がわからない。
「三人では陛下と姫様とお二人ともを救い出すことは不可能でした。なので、我々は陛下の命に従って姫様のお命を優先させていただきました」
「っ……! おとう、さま……!」
心臓を絞られるような痛みを感じ、全身の力が勝手に抜けてぺたりと地べたに座り込む。
泣きたいのか叫びたいのか暴れたいのか、自分の心もわからない。
どちらにしろ身体に力が入らないのでクリスティーナはただ呆然と目の前の森を見た。
「ふう、やっと追いついた……!」
「っ!」
馬で誰かが駆け寄ってきてランスロットとジョアン、ケイトは抜剣してクリスティーナを隠す体勢をとって構えた。
「あ、あんたは……!」
ランスロットはやってきた人物を見て剣を下ろす。
「さっきはありがとう。誰だか知らんが助かった」
やってきたのは広場で大剣を振り回して騎士の気を引きつけていた男だった。
男が馬から降りてきて、クリスティーナは顔を作って平静を装う。
「何をしにきたのでしょうか。アレクシス・ハーパー・アイテール皇帝陛下」
「皇帝……?!」
男がローブのフードを外し、ランスロットは驚きに目を見開く。
少し癖のある長めの黒髪にミステリアスな赤紫色の瞳をした美形の男。
アイテール帝国といえば、この大陸の一番大きな大国で、皇帝のアレクシスはつい三年前に前皇帝から代替わりをしてから近隣の小国を次々と侵略し属国にし大陸統一を図ろうとしているのでは噂される野心家で、二十八歳の若き皇帝だ。
「ははっ、姿絵は出回ってないはずだけどよくご存知で?」
「帝国の脅威に備えて偵察くらいはしていましたから」
クリスティーナはランスロットたちに守られたまま、ぺたりと座り込んで話をする。
「で、何のつもりであの場にいて、これから私たちをどうするつもりでしょう?」
クリスティーナが淡々と質問すると、ランスロットは下ろしていた剣を再び構える。
「面白い催しがあると聞きつけたから見にきただけだ。一対三では圧倒的に不利だから、お前たちと戦うつもりはない」
そう言われてランスロットはホッとした。
アイテール皇帝であるアレクシスが振り回していた大剣は明らかに普通の剣とは違う。大剣の中でもさらに一回り大きな大剣でそれを軽々振り回しており、騎士三人がかりで戦ってもクリスティーナを守れるかどうか怪しいところだ。
それにアレクシスは一対三と言っているが、奥の方にもう一人こちらの様子を伺う人の気配を感じる。おそらくアレクシスの護衛騎士か従者が潜んでいると思われる。
「伝説なんぞ信じてはいないが、面白いものを見た。断頭台の上でキラキラと不自然に光る焦茶の髪」
クリスティーナはギクリとした。
「私は美しいものが好きだ。あの馬鹿王子は本物の美しいものがわからないらしい」
「ふふっ、それは買い被りすぎですわ。アイテール皇帝陛下。私はどこにでもある小国の王女にしか過ぎません。でもそれも今日で終わり。私は祖国から追われる罪人です」
クリスティーナは心の内を悟られないよう笑って見せた。
スッとアレクシスの赤紫の瞳が細められ、何もかもを見透かすような鋭い視線にゾクリとする。
「クリスティーナ姫、行くところなどないのだろう? アイテールに来い。私はお前が欲しい」
「なっ……!」
アレクシスの発言を聞いて、ランスロットは剣をカチャリと構え直し、クリスティーナは顔が引き攣りそうになるのを堪えて笑う。
「ご冗談を……」
「冗談などではない。馬鹿王子に振られたのだろう? 私が慰めてやろう」
「……」
クリスティーナは顔を顰めた。
「あいにく……」
一歩踏み出しアイテール皇帝の前に出たのはランスロット。
「クリスティーナ姫のお心は元よりローヴァン大公にはありません」
「ほう……」
ランスロットはアレクシスに向けていた剣を鞘に戻してクリスティーナの腕を引いて抱き寄せる。
突然のことにクリスティーナは「えっ」と小さく声を上げる。
「俺たちは幼い頃に将来を誓い合っているんだ。それなのにローヴァン大公に邪魔されて辟易していたところにこの仕打ち。これよりローヴァン大公から国を奪還するべく、ある場所へ向かうところなので」
ランスロットはクリスティーナの顎を掴んで自分の方へ向かせる。
至近距離にランスロットの顔があって、クリスティーナは顔を赤くする。婚約者のユージーンともこんなに顔を近くに合わせたことはない。
クリスティーナの三歳上の兄のような存在のランスロット。父以外の異性の顔が近くにあり不快感より緊張感が先にくる。
「愛し合う俺たちの邪魔はしないでもらえませんか」
ランスロットは顔はクリスティーナに向けたまま、目線だけをアレクシスに向けた。
アレクシスは虚を突かれたような顔をしてから笑う。
「そうか。それは無粋な真似をしたな」
ランスロットのハッタリだが、これで引いてくれるならとクリスティーナは力を抜く。
「だが……私は一度欲しいと思ったものは、絶対に手に入れる」
アレクシスの強い圧を感じる視線にクリスティーナは慄いた。
「それならば……! ここで一戦交えるまでだ」
ランスロットはクリスティーナを背に隠し、再び抜剣してアレクシスに向けて剣を構える。
「ルーナ王国の最強の騎士でありながらクリスティーナ姫専属護衛、ランスロット・ペルシュマン。斧を剣で弾く腕前は見事だった。お前とやり合えば私は無事ではすまないだろう。私は負け戦はしない主義だ」
アレクシスは再び馬に乗る。
「今は引くが、クリスティーナ姫は私がもらう。ランスロット・ペルシュマン、そのときまでに姫の心を手に入れることだな……!」
ランスロットは「くっ」と顔を歪ませるが、アレクシスは馬で颯爽と森の中を駆けて去っていった。