09.自己紹介
「粗茶ですが」
ダイニングにある小さなテーブルへコトリとカップを置く。自分の分も用意し、モニカは青年の前に腰かけた。
うさぎは家に入ったと同時に腕から逃れ、家の中での定位置に座っている。触られていた事が嫌だったのか必死に毛づくろいをしている姿を見て、その行動が自分が触った事によるものではない事を祈った。出来れば青年が原因であって欲しい。
薄桃色の髪を持つ青年はカップの中身をじっと見た後、問題ないと判断したのかカップを口元へと運んだ。中身は一般的な紅茶である。銘柄は知らない。市場でお世話になっている主婦からの貰い物だ。青年はズズッと一口啜るとカップを置きながらクッションの上にいるうさぎを見た。
「何食べさせたの?本当に野菜だけ?それにしてもおかしいんだけど」
ふくふくと丸い体を毛づくろいしている姿はモニカからしてみれば可愛いが、青年としては思わしくないものなのだろう。険しい顔でそう言われ、モニカは慌てて両手を振る。
「誓って野菜だけです!それ以外のものなんてあげてません。何が毒になるか分からないですし」
「まあ、魔獣だから毒になるものなんてあんまりないよ。にしたってさ」
青年は背もたれに思い切り体重を掛け、長い足を組んだ。腕も何かを考えている様に組む。口は動いていないが、何か思考中なのは間違いない。時折、トントンと組んだ腕の中で指が動かされ、思考を整理している様だった。
モニカは太らせてしまった事に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。やらかしてしまったと胸が先程からドキドキしている。不整脈といっても過言では無い。
だが同時にドキドキしつつも、もやもやとした不快感も溜まる。何処かで畑をボロボロにされたのにも関わらず面倒を見た自分ににそこまで言う?という気持ちがあるからだろう。
ふつふつと湧く感情に「いやいや、こんな気持ちは持ってはいけない」と不快感に蓋を無理矢理する。そしてモニカは申し訳ない気持ちのみを持とうと腿に置いている手にグッと力を入れた。
「角がねぇ……」
気持ちを無理矢理固定しようとしているモニカの耳にぽつりとした声が届く。青年はトントンと指を動かし、再度似たような質問をモニカへ投げかけた。
「本当に変なの食べさせてない?本当におかしいんだけど」
くるりと視線を向けられ、モニカは「だから!」と言葉を発しそうになる。顰められた眉間に、モニカの胸の中に申し訳なさよりも蓋をした不快感、苛立ちが湧いてくる。
申し訳ないとは本当に思っている。健康を害させてしまったのだ。本当に申し訳ない、それは本心だ。だが食べさせていたものは自家製の野菜のみ。なのに彼は先程からそれを疑う事を繰り返している。それがモニカには腹立たしかった。
まるでモニカの野菜が悪いようだ。市場でも評判の美味しいの野菜であるのに。
「だから!うちの畑の野菜しか食べさせてないですよ!そんなに言うのだったら脱走しないようにちゃんと飼育していれば良かったのでは?こちらは市場に出す野菜をめちゃくちゃにされて収入も減ったのに何でそんな言われ方をされないといけないのか理解出来ません!」
気付けばモニカは一度は止めていた言葉を一気に吐き出していた。ハッと我に帰り、両手で口を覆ったが既に言い放った後。戻りはしない言葉だ。
我に帰ったモニカは青褪めた顔で「ごめんなさい」と青年に謝る。見るからにしょんぼりとした顔をしていたが、青年はキョトンとした顔をしたのみで何も発しはしない。
青年はそんなモニカの様子を暫し見ていたが突然「ふぅ〜ん」と楽しそうな声を出す。テーブルの上に片肘をつき、そして自身の頬を乗せた。その口元は意地悪く上がっている。
「まあ、一理あるね。むかつくけど」
にやりと笑った青年は怒っていないらしい。ほっとしたモニカは念の為もう一度謝ると視線を僅かに下げた。逆ギレするなと言われると思ったのだが、意外に彼は寛容なようだ。胸に手を当て、小さく息を吐く。少し気が楽になってきた。
「ねえ、アンタ名前は?」
自分を落ち着かせていると、いつの間にやら身を乗り出していた青年がモニカの顔を覗き込むように見ていた。
突然の美形に驚いたモニカ。「ヒッ」と声を出すと身を逸らす。それを見てもズイと身を更に乗り出した青年は再度「名前は?」と聞いてくる。その勢いに驚き、モニカは驚いた顔のまま口を開いた。
「モニカ、モニカ・ユ」
そこまで言ったところで、言葉を止めた。「ユディス」はもう出た家の名だ。今更名乗るのもおかしな事。一音だけ出た言葉をぐっと飲み込み、モニカは名前を言い直した。
「ただのモニカ。姓はないです」
「ボクはリンウッド。リンウッド・フォローズ」
リンウッドと名乗った青年はモニカの言い直しに気付いてないようだった。
リンウッドは自身も名乗った後、乗り出していた体を元に戻し、足を組み替える。
何となく話題が尽きた気がしたモニカはクッションで寝ているうさぎを見た。そういえば名前は何と言うのだろう。
「うさちゃんの名前は?」
スピスピと鼻を動かしているうさぎを見ながらリンウッドに訊ねれば、彼は短く笑った。
「あれの名前?さあ?好きに呼んだら?」
冷たい言葉だ。何の感情も無さそうな言い方に言葉が詰まる。ペットではなく使い魔だから名前が無いのだろうか。いや、使い魔でも普通は名前がありそうなものだが。
モニカは最後にうさぎの名前を呼んでさよならしたかったのだが、それは叶わないらしい。ふくふくと寝ているうさぎの腹が上下しているのを見て、何となく寂しくなった。
視線をテーブルに向け、モニカは自分のカップに手を伸ばした。白く、丸みのあるカップ。まるであのうさぎのようだ。
ふっと微笑み、カップの取手に手を掛ける寸前、そのカップが突然消えた。「ん?」と一瞬止まり、カップが消えた方を見る。
白いカップは薄桃色の髪の持ち主が今まさに口をつけているところだった。視線はうさぎに向けている。どうやらよそ見をしてカップを取ろうとした結果、モニカのカップを取ってしまったらしい。
「あ、それ私のお茶」
慌てた声でモニカがリンウッドに声を掛ける。その声に視線をモニカへ向けたリンウッドはお茶を飲みながら小首を傾げた。
ごくん、とリンウッドの喉仏が嚥下し動く。その途端、リンウッドの灰色の目が大きく見開かれた。固まったと評していいのだろうか。そのまま動かなくなったリンウッドにモニカは恐る恐る手を伸ばす。大丈夫か確認する為だ。少し怖いので身は乗り出さず、腕だけを伸ばす。あと少しで届くというところで、リンウッドが再び動き出した。
目は見開いたまま、半分程残っていたお茶を一気に飲み干したのである。
ゴッゴッとまるで何かの競技のように喉へ流していく姿にモニカは呆気に取られ、思わず伸ばしていた手を引っ込めた。
首を反らせ、恐らく最後の一滴まで飲み干したリンウッドはゆっくりとカップから口を離すと目を見開いたままモニカを見た。
その視線に現実に戻ってきたモニカは驚きの声を上げる。
「え!えええ!」
ゴン!と勢いよくテーブルに置かれた空のコップをモニカは覗き込む。本当に残っていない。
「何故……」
人が口を付けたものは普通は嫌だろうに。少なくともモニカは他人が口付けたものは飲みたくは無い。だがリンウッドは指摘され、気付いたのにも関わらず一気に飲み干した。もしかして自分は他人のものを飲めるが、自分のを他人に飲ませるのは嫌という事なのだろうか。
少し理解出来ないが、まあそういう考えもあるのだろうとモニカは無理矢理納得しようとした。それにリンウッドは顔の造形が良い。もしかしたら過去に何かあったのかも知れない。
モニカは混乱しつつも、うんうんと頷き、空になったカップを流しへと持っていく。ちょっと今はいくら美形でも顔を見たくなかった。背中に視線を感じたが、知らない振りをし、モニカはわざとのんびりカップを洗う。
当のリンウッドは席を立ったモニカの背中を目で追いながら、口元を隠す様に片手で覆った。
「ああ、何だ。そういう事ね」
これは良いものを見つけた。そんな心の声が聞こえてきそうな歪んだ笑みを浮かべ、リンウッドはテーブルに手を付いた。そしてゆったりとした動作で椅子から腰を上げたのである。