59.問題は先送り
「籍を、抜く……?」
静かな怒りを孕んだ声が部屋に落ちる。それはシルビオの声だった。シルビオは大きく目を見開き、モニカを見ていた。
「本気で言っているのか?」
目を見開いているのにも関わらず、苛立ちが分かる表情にモニカは口を真一文字に結んだ。正面よりも強い圧に息苦しくなりながらもはっきりと頷く。
「はっ」
モニカの強い頷きを見て、シルビオは笑い声にも似た音を出した。それはとても乾いた音だ。勿論笑い声に似ているからと言って楽しさから出た声ではない。シルビオは信じられない現実に声を吐き出したのだ。
モニカはそんな義兄に対して申し訳ないと思いながらも再度同じ事を口にした。
「私の貴族籍を抜いてください」
もう決めた事、それを曲げる事はしない。
理解してもらう事は難しいとは思う。その証拠にシルビオの顔は病床で見ていた時と同じく厳しいものだった。
「別に籍を抜かなくても良いだろう」
そう口にしたのは父だった。モニカは正面からの声にピクリと体を反応させる。視線を父へと移し、深い眉間の皺を見た。
「百歩譲って家を出る事は許すとして……いや、これは例だ。例で言うが、別に他で暮らすとしても籍は抜かなくても良いだろう? 籍はそのままでも暮らせる。寧ろ籍は抜かない方が良いと思うのだが」
表情は険しいが、言葉は動揺しているようだった。それでもモニカを傷付けないように言葉を選んでいるのだろう。所々言葉を止めながらもユディス伯爵はモニカへと語りかけた。その姿にモニカは胸が痛むのを感じ、視線を少し逸らした。
「籍を抜きたいと言ったのは迷惑を掛けると思ったからです」
「ああ、聖女を隠すから?」
ウーヴェの声にモニカは頷く。
「きっとバレた場合、迷惑が掛かりますよね」
それがどのくらいの迷惑を掛けるのかは分からない。だが、世間知らずのモニカから見ても聖女は大きな存在だ。いるだけで恩恵を受けられると言われている。
ウーヴェから真実を知らされなければ「取り敢えず申告はしといた方が良いのか」と呑気に思ったかもしれない。輝かしい表の顔しか知らなかったからだ。しかし、モニカは真実を知った。
きっと聖女を管理する者達はモニカを知れば、生い立ちを調べる筈だ。そこでユディス伯爵家に辿り着く。そして家族に問うのだ。「お前達は知っていただろう」と。
素直に答えれば何故隠していたと罰せられるかも知れない。だが、「体が治った途端家出したから籍を抜いた」と言えば余程でない限りは逃げられるだろう。
彼らは本から見ると規律に厳しい。聖女は管理されるべきという頭で生きているのは過去の文献から見れば明らかだ。その考えが今は緩くなっているとは考えにくい。
だから籍を抜いて貰う。何が起こっても家族だけは逃げられるように。
「私達の事を心配しての事だとは分かった」
先程よりは眉間の皺を浅くした父は浅く息を吐くと「しかし」と膝の上で手を組んだ。
「籍はそのまま方が良い、その方が守る事が出来る」
「でも」
モニカの声に父は首を横に振った。
「モニカが私達を心配するように私達も君を心配しているんだよ」
少しだけ寂しげな視線を向けられ、モニカは息が詰まる程の苦しさを感じた。それでも「籍を抜いて」と思ってしまう自分は何と薄情なのか。
縁を完全に切るのは悲しい。大切に思われていたと知れば、自分もそれを大切に思ってしまう。チョロいなんてモニカ自身が一番知っている。
大切にされてきた、その気持ちを返すにはずっと一緒に此処で過ごす方が良いのだろう。それもモニカは知っている。
しかし、聖女だとバレればたかが伯爵の位に何の意味がある?何が出来る?モニカはそう思った。
悲しいかな、本を読んで学び、聖女の歴史を見たからだ。それはユディス伯爵もシルビオも本当は分かっている事だろう。彼らの方が学んだ時間が長い。モニカの知らない事も知っているに違いないのだから。
「私は今まで大切にされていると思わず生きてきました。だから家を出ました」
モニカは今まで思っていた、モニカにとっての事実を伝える。
ユディス伯爵とシルビオは瞠目したが、自身らの態度に覚えがあったのだろう。気まずそうに視線を落とした。シルビオだけは直ぐに視線を上げ、聞いてくれと言わんばかりの瞳をモニカへ向けた。
「それは違う」
「分かってます。私は勘違いしてたんです」
モニカの家族はどうやら不器用だ。いつも厳しい顔をしていたのも苦しんでいるモニカを見ているのが辛かったからだろう。冷たいと感じた態度もそうと分かれば可愛らしく思えた。それに優しい声だけ掛けて何もしてくれない人よりも、具体的に治すにはどうすれば良いかと動いてくれる人の方が余程良い。
「私は大切思われてたんですよね」
「そうだ」
「そうだ」
二人の声が重なる。必死な声に、固い顔、それだけでモニカの胸は温かくなった。胸が温かくなれば自然と笑みも浮かぶ。モニカはふっと微笑んだ後、下唇を微かに噛んだ。目元はまだ笑みの形をとっている。しかし、段々とぎこちなく大袈裟な笑みとなっていった。
下唇を噛んだのは一瞬だけ。ニコッと目にも口にも弧を描いたモニカはワントーン高い声を出した。
「だから、これからは私が二人を守りたい、大切にしたい、そう思うのはおかしいですか?」
最初の一音が発せられた時、モニカの眉が無意識に下がった。しかし、それに気付かないのは当の本人だけだ。
「おかしいとは思わない、だが籍を抜くいが」
「これがきっと最善です」
平行線な話の終着点は何処なのか。どちらも譲らず、時間だけが過ぎる。
だがそれも溜息混じりのウーヴェが仲裁に入った事で休戦となった。
「籍の話は後回しにしたらいいんじゃないかな」
ハハっと馬鹿にした声を上げたウーヴェは三人の視線が集まったところで足を組み替えた。半笑いで組んだ足に片肘を付ける。
「時間は有限だからさ」
「……そうだな」
「はい」
「じゃあ、サクサクいこうか」
ウーヴェの発言にユディス伯爵とシルビオは同時に眉根を寄せた。パンパンと手を叩いた事も気に障ったのかも知れない。
「はい」
モニカは確かにウーヴェの言う通りだと頷いた。満足そうに笑みを浮かべたウーヴェは「さて」とまたも足を組み替えた。足が余程長いらしい。
「聖女を隠すのは決定で良い? ユディス伯爵の意見は?」
モニカの胸がドキリと跳ねる。父と目が合い、口端が平行になっていく。
「これに関してはモニカの意思を尊重しよう。私達も共に居たいからな」
「家を出ると言うのは?」
意地の悪いウーヴェの問いにユディス伯爵はジロリとウーヴェを睨め付けた。無言で圧を放つ父にモニカは申し訳なさが募る。しかし、籍の件は後でまた話し合うとして家を出る事は後回しにして貰っては困る。
此処にきて約1週間経過している。育てている作物達が心配なのだ。
「父様」
モニカは神妙な顔を作り、父を見た。
モニカの真面目な顔と声に父は息を吸い、ゆっくりと視線を動かした。桃色の瞳はとても見覚えのある輝きを見せており、ある日の会話を思い出させた。それは彼にとって一生忘れられない記憶である。
亡き妻の面影を見ながら、ユディス伯爵は娘の思いを聞いた。
「私、この家を出て暮らしてみて初めて生きてる、楽しいって思えたんです。最初は確かに大変でした、家事も出来ないし」
家事は今も出来ない。
「何をやってもうまくいかなくて、この魔力? 聖力か、それもうまくコントロール出来ないし。ずっと寝込んでたから何が必要な事だとかもよく分かってなくて」
それでも何もかもが楽しかった。何も知らないから、知る事が楽しかった。出来る事が増えるのが嬉しかった。
「でも今は野菜とかを作って市場で売って生計を立てて、知り合いも増えたし、私の野菜を求めてる人もいたりして、毎日楽しくて」
伝えたい事が溢れてきて言葉が纏まらない。
モニカはどうしたら許して貰えるかを考えている。迷惑を掛けたくないから家を出たいというのも本当だ。でも一番は自分が築いたものを手放すのが嫌だった。あの家から離れたくない。野菜も心配。
「我儘というのは分かってるんです」
浮かんでくる言葉はとても幼い。楽しかった、嬉しかったばかりだ。子供の時に言いたかった言葉ばかり。
「でも私、あの森で暮らしたい……! お願いします、あの森で暮らす事を許して下さい……!」
モニカは余計な言葉を全て捨てて、頭を下げた。もうこれしかないと思ったからだ。
シルビオは横で頭を膝に付けんばかりに下げている義妹を見下ろす。それ程までにあの家が良かったのだろうかと思いながら。
シルビオが迎えに行った時、森の家はモニカの暴走で廃墟一歩手前だった。出る時は生活感のある部屋に戻っていたが、とても伯爵令嬢が住む住居ではなかった気がする。
それにだ。
「それで、君はあれかい? リンウッドと暮らすの?」
シルビオが思い浮かべた男をウーヴェも思い浮かべたのだろう。あの日、モニカを渡さないと抱き締めていた男の名を口にした。
その見知らぬ名前に、頭を下げるモニカを見ながら思案していたユディス伯爵が眉をピクリと動かす。
リンウッドの名前に反応したのは、勿論頭を下げているモニカもだった。
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