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28.約束は破れない


「ただいま」


 リンウッドが家を出てから4日後、庭先で薬草を見ているとふらりとリンウッドが帰ってきた。


 いつもと同じ軽薄な笑みを浮かべ、モニカへ向け片手を振っている。傍に近付かれて分かるが、やはり甘い香水の匂いを漂わせていた。


「おかえり。ご飯食べる?」


 何度嗅いでも慣れない匂いは鼻を摘みたくなる。だが、そんなあからさまな態度を取るのも嫌だ。モニカは何も気にしていない風を装い、家を指差した。


「ポトフがあるの。あとサラダも。レーズン入りのパンは食べられる?食べるなら戸棚にあるから良かったら食べて」


 リンウッドはモニカが指差す家に視線をやり、「どうしよっかな」と返事をした。元々リンウッドは空腹感を感じる方では無い。寧ろ食事を忘れる類の人間である。だからモニカはリンウッドと暮らし始めて3食食べない彼の生活スタイルに酷く驚いた。


「ポトフってあの美味しくないアレだよね?」


 失礼な言葉だ。前回リンウッドが食べたものはうっかり汁が無くなるまで煮込んでしまい、じゃがいもが鍋底に焦げ付いてしまったものだ。つまりは失敗作である。


 焦がしたのも問題だったが、どうやら汁が無くなったのならと水を足して再度煮込んだのも問題だったらしい。見事に黒いものが浮く、苦い汁物が出来上がってしまった。


「今日のはうまく出来たと思うわ。苦くなかったし」

「本当に?」


 疑うリンウッドの姿を見て、モニカは口を尖らせた。


「本当。本当に普通に出来たの」

「そこは美味しく出来たとかじゃないんだ」

「言えたら良かったんだけど、うん……普通のよ」


 モニカが反抗的に口を尖らせたのは一瞬だった。本当はモニカだって美味しいと言いたい。だがそれを言える味では無いのだ。とても普通。いや、実は何かが足りないと思う味だ。


「じゃ、後で食べようかな。あ、レーズンは嫌いだから食べない」


 リンウッドはそう言うと疲れていたのか、ぐーっと背中を伸ばす。気の抜けた声が何とも新鮮でほうと見ているとモニカの視線がリンウッドの唇を捉えた。


(あ!)

 

 その唇を見てモニカは家を出る前に言われた言葉を思い出す。


『次帰ってきた時はするから』


 そう、帰ってきたらキスをすると言われていたのだ。


 思い出したらもうそれしか意識が行かなくなり、モニカは顔を一瞬で真っ赤にした。だが、それがリンウッドにバレるのが嫌で薬草畑に視線を戻す。その際に耳の横の髪を手櫛で多めに下ろした。顔の色を隠す為だ。


 不自然に態度を変えたからだろう。リンウッドは不思議そうにしていたが、理由を思い当たり意地悪く口端を上げる。「ふ〜ん」と鼻を鳴らすとモニカの横にしゃがみ込んだ。


「約束思い出したんだ」


 隠していた顔を覗き込まれ、灰色の瞳と目が合う。真っ赤な顔が治らないモニカはプルプルと唇を震わせた。


「……するの?」

「そういう約束だからね」


 軽く言われ、モニカは額を膝に寄せ顔を隠す。赤い顔は隠せても俯いたせいで真っ赤な耳は隠せていない。


 リンウッドは笑みを浮かべたまま、その赤い耳にそっと触れた。人差し指を耳の輪郭をなぞる様に這わせれば、モニカの体がびくんと揺れる。すると更に赤くなった顔が勢い良くリンウッドを見た。桃色の瞳は美味しそうに美しい膜を張っている。瞬き一つで澄んだ雫が落ちそうだ。


「それ、ボクの事が好きな反応じゃないの?」

「ちがう!」


 モニカは語気を強め否定した。

 赤い顔はそういう訳ではない。キスという行為が嫌で、恥ずかしくて堪らないからだ。モニカにとってそれ以外の理由は無い。


 自分以外にあまり触れる事のない耳を触られるのも恥ずかしい。だってぞわりとする。自分で触れる時は何も感じないのに、リンウッドが触るとぞわりと肌が粟立つ。それがとても恥ずかしい。


「そう、でも今日はするよ? 同居とこれはセットだってモニカも分かってるでしょ?」


 助けてくれた対価だと言うのならばモニカは何も言えない。あの時は自分の力に驚いて、条件なんて確認せず助けを求めた。そもそも確認出来る時間等無かったのだが。


(こうやって人は詐欺にあっていくのね)


 モニカは沸騰しそうな程赤くなった顔でリンウッドを軽く睨むと下唇を噛んだ。


「何で下唇噛むわけ」


 これからキスするのに、と眉間に皺を寄せながらリンウッドがモニカの下唇に触れる。そんな強く噛んでいた訳では無いので簡単に唇は歯から離れた。

 ぷっくりとした下唇をリンウッドはふにふにと確認すると「大丈夫そうかな」と笑う。その目はもうモニカを逃さないとばかりに光っている。ギラギラとした恐ろしい光だ。


「やっぱり、私」


 モニカはその目に怖気つき、頬を包み込んでいるリンウッドの手を外そうとした。だが、リンウッドはその手を反対に絡め取り身動きを取れなくさせる。


 自分の指の間に他人の指が入る事はモニカにとって初めての経験だった。俗に言う恋人繋ぎに全ての神経が手に集まる。


「ひゃっ!」


 自分を見ろと言わんばかりの灰色の瞳、手には他人の温度。鼻は苦手な匂いを感じ、ごちゃごちゃな感情となったモニカはくにゃりと横に倒れた。

 俗に言うキャパオーバーである。


 土の上にくたりと半分横たわるような体勢になれば、手を繋いでいたせいかリンウッドもつられて倒れた。


「ああ、これは良いね」


 リンウッドに見下ろされる体勢となり、モニカはヒュッと喉が鳴る。リンウッドの長い髪がモニカの頬を撫で、そして繋がれていた手が地面に縫い付けられた。


 まだ完全に地面には倒れていない為、モニカは弱々しい力でリンウッドの体を塞がっていない方の手で押し返す。


「ダメ。約束でしょ?」


 その手も笑顔で絡み取られ、ゆっくりと体が倒された。両手共リンウッドの手によって地面に押さえ付けられる。


「リンウッドさん、」

「モニカ、口開けて」


 モニカはもう観念した。だってこの体勢から逃げる術を知らない。下に這うにも、上に這うにも手を拘束されていたら動けはしないのだから。


 モニカは嬉しそうに微笑むリンウッドを「このやろう」という気持ちで睨むと、言われた通りに口を開く。


 薄く開いた口を見て、リンウッドは耳に顔を寄せた。


「いい子」


 ぶわっと毛穴が開き、全身から汗が吹き出る。やっぱり駄目だ、これは出来ない、心臓が破裂しそう、モニカは半ばパニックとなり、頭を動かそうとする。だが、何故か上手く動かず、ならばとそれを伝えようと口を開いた。


「やっぱや」


 いつもこうだ。モニカが何か言おうとするとリンウッドは途中で口を塞ぐ。


 開いた口の間から熱い舌がモニカを襲う。逃げ惑うモニカの舌を恐ろしい速さで絡め取り、慰める様に撫でる。だがそれは決して慰めているのでは無い。調教しているのだ。


 これは悪い事では無い。気持ちの良い事だ、と。逃げないで、拒否しないで、全てボクに任せて、と甘く甘く躾けるのだ。


(もう、こんなの)


 絡みついた舌は魔力の相性が良いからとても甘く感じる。もう諦めの境地となったモニカは素直にその甘さを味わった。

次回更新は明日20時頃になります。

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