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01.プロローグ


 前触れがなかったとは言わない。


 こういう状態に陥り、嵐が吹き荒れる頭で必死に考えた結果、きっとあれがきっかけだったのだろうとは思う。いやでも、あれが?とも正直思うがそれ以外に心当たりは無いのであれに違いない。

 

 混乱のまま、じりじりと近付いてくる薄桃色の髪を持つ青年から逃げる様に女は足を後ろへ下げた。その顔は困惑と恐怖で覆われており、普通の人間ならば怯えているから近付くのはやめようと思える表情だ。まあるい瞳は潤んでいるし恐怖で歪んでいる。眉も下がり気味だ。だがその青年はそんな彼女を目の前にしても楽しそうに口端を上げ、後退る彼女を追いかけた。


 形が多少崩れたブーツが床材を楽器のように鳴らす。カツンカツンというリズミカルな音と、青年の鼻歌が小さな家に響く。薄桃色の髪も彼が歩く度に嬉しそうに揺れていた。右耳あたりの緩い三つ編みはその動きが顕著である。長く気だるげな前髪の隙間から灰色の瞳がギラギラと輝いているのが見え、女はヒュッと息を呑んだ。


 魔獣のような瞳とはこの瞳を言うのだろう。女は瞳を青年に固定したまま恐怖で溜まった生唾をごくりと飲み込んだ。


「モニカ、だったっけ?そんな顔しないでよ」


 青年は怯えるモニカにそう声を掛けた。だが、その愉快そうな声が余計に胡散臭い。追い詰められている状況が腑に落ちていないモニカはビクリと肩を揺らし、先程よりも大股で下がった。そのせいで少し体が傾いたが、転ぶ程ではない。ぐっと堪え、もう一歩後退する。


「モニカ、ねえモニカ」

「な、何でしょう?リンウッドさん」


 一音目が跳ね、どもる。これが起こる前は普通に喋れていたのに声が出ずらかった。恐らく精神的なものだろう。モニカは自身の声に多少違和感を感じたが、所詮多少だ。気にせず目の前の青年を見続けた。


 モニカの返答に青年、リンウッドは細めていた灰色の瞳を更に細め首を傾けた。その反動で落ちた長い髪を指輪が嵌った手で払う。薄桃の髪はよく手入れをされているのだろう、さらりと彼の指を素直に通っていく。色気のある仕草に一瞬心を奪われたが、直ぐにモニカは自身の置かれている状況を思い出し胸の前で祈るように両手を組んだ。


「逃げないでよ、モニカ」

「逃げたくて逃げてる訳じゃ」


 ないのですが、と言葉にしようとしたところでモニカの背中に軽い衝撃が走る。もしやとブリキ人形のようにギギギ……と振り向けば眼前には壁材の木目。つまりは逃げ場がなくなったという事だ。現実を一瞬受け入れられずにいると、トンという音と共に視界に白い筋張った手が入って来た。


「こっち向いてくれない?もう逃げられないんだしさあ」


 直ぐ近くで声が聞こえ、反射で前を向く。


「ち、ちかい!」


 前を向けば、鼻と鼻が付きそうな距離にリンウッドの顔があった。もう下がれやしないのに体を引く。更にぴたりと壁に背中が付き、強制的に背中が伸びる。自然と顎が引かれ、気持ち少し離れる事が出来た。


 初対面の人間をこの距離で見た事がないモニカは先程の恐怖よりも気まずさが勝ち、苦笑いを浮かべる。


 そんな中でも目の前の男はやはり楽しそうだ。この距離だからしょうがないが、自分以外の匂いが鼻腔を擽る。リンウッドから香るのは薬草の匂いに近いハーバル系の香り。意外に素朴な香りを纏っている事で少し警戒が緩んでいく。


「ええ?そう?ボクはもう少し近付きたいけど」


 だがそんなモニカの気持ちなど知らぬリンウッドの言葉にモニカはピシリと固まる。


「いいよね?」


 妖しく微笑んでいるリンウッドは思考を停止しているモニカの返事を待たずに白い手をモニカの頬に寄せた。頬の一部に金属の冷たさを感じ、モニカがピクリと反応する。そして事態を把握したモニカは忙しなく瞬きをし、不安げな瞳をリンウッドへ向けた。その様子にリンウッドはにんまりと笑み、顔を傾ける。頬に添わされた手がゆっくりとなぞる様に首をいき、人差し指と親指が顎に添えられた。


「リ、」


 音となったのは一音だけ。あとは飲まれて食べられた。


 恋人同士のような距離感に戸惑いの声を上げようとしたら、眼前に迫ってきた灰色の瞳が楽しそうに歪められた。ぎらついた瞳の中に自分の怯えた顔が見えたのは一瞬だけ。


 「あっ」と思った瞬間、知らない感触が自身の口を襲った。ふに、としたものが唇に押し付けられたと思った瞬間、後頭部に手が回される。


 そう、言葉は本当に食べられたのだ。

 僅かに開いた口から侵入された自分のものではない舌に絡め取られ、ごくんと飲まれた。


 人生初めての口付けにモニカは瞬きを忘れ、目を見開いた。視界いっぱいにいるのは今まさに自分の唇を奪っている男。薄く開いている瞳から漏れるギラリとした眼光。獲物を見つけたと言わんばかりのそれにモニカは気を失いそうになった。


(酷い、ファーストキスなのに!)


 そんなモニカの心情を知ってか知らずか、口内を探られるように深くなる口付け。どう息をして良いのか分からない息苦しさと腹の底からふつふつと湧いてきた腹立たしさからモニカは目に力を入れた。


 そして次の瞬間、利き手を大きく振りかぶったのである。




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