25話 水裏理々
下の名前で呼ぶのはふたりきりのときだけ――
それさえも失われたのはいつからか。
「ん、ん、ん……っ」
彼女は懸命に頭を前後に振り続ける。テレビ局といえども、四六時中至るところに人の目があるわけではない。スーツ姿のふたりは、まるでちょっとした立ち話のような気軽さで。ただ、女が男の前に跪いている様子は見るからに異様だ。
しかし、すぐに――
「出すぞっ、全部飲めっ!」
「んんんん~~~……ッ!」
喉の奥に悪臭が蔓延る。それでも彼女が顔を離すことはない。唾液で馴染ませ、口の中の粘液をすべて嚥下していく。
「フン、こんなことばかり上手くなりおって」
これに、彼女は答えない。ただ、思い出していた。
歯車が狂い始めたのは――おそらく、ふたりの時間に第三者の男が加わるようになった頃から――
いや、そのときはとっくに壊れていたのだろう。
それでも。
時計の針を巻き戻すことはできない。
が、これから進む時間を変えることはできる。
だから。
「いざとなれば……やることはわかっているな? 水裏」
「……はい、局長」
もう、彼が下の名で彼女を呼ぶことはない。
それでも、彼女には他に行くあてもなかった。
この、芸能界という深く濁った海で漂い続けるのであれば。
***
水裏は、自分がやらなくてはならないことはわかっている。だが、それはあくまで“いざ”というときのこと。やらずに済むのであればそれに越したことはない、というのが本音だ。
“何人か引き抜いてこい”――アバウトな指示ではあるが、その意向に水裏自身も賛同はできる。真っ当なアイドルを目指すのであれば、踏み込んではならない道がある。お笑いとお色気――一度染まってしまえば、もう二度と歌を求められることはない。自分が後悔したときには遅かった。だからこそ――
TRKメンバーの中でも有力者には、すでに対応進行中だ。古竹未兎は松塚芸能と一度正面切って対立してしまったため、やはり懐柔は難航している。出版社やアパレルなど、隣接業の息のかかった関係者を送り込んでいるが、未だ良い返事は得られていない。
一方、丘薙糸織についてはその知り合いを使って引き抜き済みだ。契約書にもサインさせているので揺るぎようもない。
檜しとれについてはメイド喫茶複数店舗に圧力をかけていたが、結局しとれが自ら動いたと聞いている。まさに『泥舟から逃げた』――といった様相だ。
糸織・しとれ両名の脱落――TRKの片翼『めいんでぃっしゅ』が散り散りにもがれてしまえば、もう羽ばたくことはない。とはいえ、もう片翼『|Andresstart』は未だ健在である。
そして、この両翼の要となっているTRKセンター・蒼泉歩――当然、真っ先に崩そうとはした。しかし――『裸にならないと唄えないので』と断られている。これには水裏だけでなく、各協力事務所の担当者たちも理解が追いつかない。下着や水着でも駄目で、それさえも全部脱がせてくれ、と自ら要求してくるのである。外部からのスカウトに対する定形の断り文句とも考えたが、ステージ上でファンたちにも同じように説明しているらしい。ゆえに――裏に潜むその理由を解明しない限り、歩の招致は難しいだろう、と芸能事務所陣営は考えている。
だからこそ、局長は水裏に命じた。直接本丸に辿り着けないのであれば、外堀を埋めていけば良いだけのこと。味方がいなくなれば、抵抗のしようもないはずだ。
さて、先ずは小手調べから。水裏は、サザン・トライアングルのときと同様の手口でメンバーたちのSNSを通じて勧誘を試みている。だが、同工異曲に断られてしまった。意外だったのが、金のために脱いでいると公言している渋長優でさえ『いまの事務所で充分稼げている』と回答したこと。現在、劇場から客足は遠退いているはずだ。それで充分と考えるはずがない。
また、駒辺慧は『男性力士と同じ廻し一丁で土俵に上がらせてもらえるなら検討する』、姫方紫希に至っては『それよか、ちんぽの写真送ってー╰⋃╯』――やはり、学生は常識を知らない、と水裏はうんざりする。ただし、紫希は学生ではないのだが。
ともあれ、ここまではあくまで牽制である。直接プロデューサーに対して訴える前に離脱者を増やしておけば、余計なことをする必要もないだろうと考えてのこと。だが、ギリギリまで根回しを怠ることはない。そのために、水裏は来た。自ら危険と報じた街――新歌舞伎町へ。
一時間後に、水裏はTRK事務所の責任者との直接交渉を控えている。それはちょうど、メンバーたちが出払っている開演時間中に。アポイント名義はマツダプロダクションの豊島優太――ただし、“急遽都合が悪くなったため、女性が代理できた”ことは告げていない。ふたりきりの密室で行われる男女の“未”成事実――その街談巷語をばら撒くのに事後で速さが足りない。迷う隙さえ与えず、一気に切り崩す――そうやってこれまで水裏は何本ものレギュラーを獲得してきた。それらは、あくまで自分のためだけに。けれど、今回は初めて、女のコたちの――人のためになる結果を得られることだろう、と水裏は信じている。
喫茶店やファーストフード店――この手の空間は、意外なほどに周囲の会話がよく通る。特に、快でも不快でも関心を引くことについては。そこで、通話している素振りを見せれば良い。あたかも相手はTRKのプロデューサーであり、これから一夜、男女を営むかのようなことを。
当然、二・三軒はハシゴするが――一軒目はテラス席のある店を選んだ。陽も落ちているため、街は暗い。そんな中で、ライトアップされたこのウッドデッキはまるで野外ステージのようだ。ここで話せば、通行人の耳にも届けることができる。噂話をばら撒くのであれば、ここ以上の席はない。
店内で購入してきたコーヒーを手に、水裏は丸テーブルのひとつに腰を掛けた。椅子が三つあるため三人席ではあるが、人を待っているとするなら別段違和感はない。
水裏は、先ず他の席の様子を窺う。丸テーブルは他にふたつあり、一方は空、もう一方には男が座っている。だが――黒のジャケットにパンツ――後ろ髪は長く、ホスト以外の何者でもない。ゆえに、待っている相手はカノジョか、それとも客か――いずれにせよ拡散力は高いだろうし、男女の痴情に関する興味も強いだろう。早速水裏は、ハンドバッグから自分のスマホを取り出した。
しかし――男がジャケットを脱ぎ始めたため、水裏の手がふと止まる。水裏は、ホストのファッションに少し興味があった。ゆえに、その様をつい目で追ってしまう。しかし――
「……ッ!?」
上着の中はまさかの半裸!? ついその肌を凝視してしまったが、我に返って水裏は視線を卓上のカップに戻す。いくら繁華街だからといって、さすがに上半裸はやりすぎだ。何かの見間違いかも――とチラリと覗くが、やはり上には何も着ていない。白い肌に細い線――まるで女性のような美しさに、水裏はつい見惚れてしまう。
あまりに意識しすぎたからか――相手の男にも気づかれてしまったようだ。かといって、あからさまに不信感を向けてくることもなく、少し座席の向きを傾け、水裏の方に軽く視線を流す。ホストとして、女子から見つめられることには慣れているようだ。
オールバックに力強い眉――野性的な雰囲気とは裏腹にその瞳はどこか優しい。さぞ稼げていることだろう、と水裏は勝手に感心する。
それに、いくら細いといえども男は男だ。肩はしっかりと――していない――? 肋骨もそれなりに厚く――ない――? 水裏は目に映るものの違和感に気づき始めていた。彼の胸に女性特有の膨らみはない。だが、その先端は淡く色鮮やかであり、肥大した突起は――
ブゴハッ!?
その真実に気づいたとき――水裏は思わず口に含んだコーヒーを噴く。バラエティ番組で染み付いてしまった習慣として、鼻から。
あのホストは――いや、女だからホステス――? というか、女――? 胸に膨らみが――いや、よく見れば、少しはあるようにも見える。同性だと認識したからこそ、つい凝視してしまったが、同性であっても赤の他人を凝視するものではない。というか、女が上半裸で、こんな見晴らしのいいテラス席に――? いや、店内であってもありえない。そもそも、成人男性であってもみだりに上半裸になること自体がありえない。
何がどうありえないのか、水裏自身もわからなくなってきている。その結果――彼女は逃げ出していた。何が何だか分からないが――自分が無様にコーヒーを噴いてしまったということ――そればかりはどう足掻いても揺るがぬ事実。少し離れたところで、水裏は鞄からティッシュを取り出し、口元と、そして鼻元を拭う。店には迷惑をかけるが、あれ以上あの場に居座り続けることなどできようもなかった。
少し離れた雑踏の中で、水裏は脳内の情報を整理する。そして、いまさらながら思い出した。水裏の記憶の中でも、あれほど映える男装の令嬢など数えるほどしかいない。さっきの上半裸は、TRKメンバーのひとり、村月李冴――!
だが――
あのようなところで、一体何をしていたのだろう――? 膨らんだ乳首は、紛れもなく生身のもの。水裏にはその意図が掴めない。まさか、自ら魅せつけているなど思いもよらない。
――きっと、男のフリをして、女のコを騙して勧誘するよう、事務所から命令されたのだろう――だが、そのわりには、李冴の振る舞いは堂に入っていた。何より、脱いでしまってはせっかくの男装が台無しである。
辻褄は合わない。だが、それ以外の説明がつきようもない。少なくとも、水裏の中では。何より、これから引き換えして勧誘し直すなど、あまりに無様すぎる。今回は、もう諦めるしかなさそうだ。
気を取り直して。
喫茶店に入り、一人芝居でちょっとした猥談を繰り広げる――その相手がTRKのプロデューサーだとわかるような情報を含ませて――それが、水裏の計画だった。しかし――相手は平然と外で上半裸になるよう命ずる男である――少なくとも、水裏の中ではそうなっている。そんな相手と普通に一夜共にしたとして――それは、ダメージを与えたことになるのだろうか――? さり気ない猥談程度では誰も気にしないかもしれない。だが、あまりに露骨すぎると普通に迷惑になってしまう。
ともかく、次の店を見繕うため街の中心に向けて歩いていると――
道端にできた人集り――シンセサイザーによる美しい電子音――誰かが路上ライブを行っているようだ。
とはいえ――わざわざ、このような危険な街で――? 同じ演奏するにも、選びようはあったであろうに。だが、その音色がとても綺麗だったので――水裏はつい引き寄せられていた。
そして、再び新歌舞伎町の洗礼を受けることとなる。
今回は先程の上半裸を超える非常識加減であったため――逆に、その“ノイズ”が入るまで気づかなかった。キーボードを弾いている女のコは裾の短いへそ出しカットソーを着ており、その上から羽織ったレザーのジャケットが繁華街の色鮮やかな照明を照り返している。小気味よく打ち鳴らされるのは軽快なリズム。それはクラブハウスで流れていても遜色ない。
そんな情景を思い描いたからこそ――ピチャピチャという水を零す音に、水裏は誰かが卓上のドリンクを倒したのかと事故現場を自然と探し始める。が、ここは屋外である。それを思い出したからこそ――ソレが目に入ってしまった。
「……ッ!!?」
キーボードの鍵盤の影になった暗がりに――ではない。何故なら、わざわざそこが明るくなるよう、下から照明が当てられていたのだから。どうしてそれに気づかなかったのか、水裏自身も不思議でならない。それがキーボード演奏であり――両腕の動きしか目に入っていなかったからか。
ともかく、その奏者が途中で衣装を変えた様子はない。彼女は最初からいままで――ずっと――へそ出しどころか、さらに下――股の間と、そこを覆う縮れ毛――太ももから膝――つま先に到るまで何も着けていない――正真正銘の下半裸――上ならともかく、下は女であっても完全にアウトである。
それどころか――滴る音の正体を水裏は見せつけられていた。腿を伝いながらも、その間から溢れ出す透き通った光の筋の乱反射――まさか――立ったまま――というか、人前で――!? しかし、それは確信的なもの――でなければ、このような格好で演奏しているはずがない。男たちの前で堂々と漏らしながら――その女のコは、構わず演奏を続けている。恥ずかしそうに頬を染め、嬉しそうに微笑みを湛え、けれど、両足の間に作った水溜りに飛沫を上げながら。
その姿を綺麗だと一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしくなってくる。水裏は慌ててその場を離れた。そして、再び状況を整理する。キーボーディストに関する情報は、水裏の中でも新しい。さっきの女のコは――やはりTRKメンバーのひとり、藤山京子――! 劇場の舞台ならともかく、あんな路上で、どうしてあのようなことを“させられていた”――? 普通の姿であれば、劇場を離れての音楽活動を模索している、と捉えればいいだろう。だが、何故よりにもよって下半裸で――? 彼女は加入したばかりで情報が少なく、その性癖についても局長側は把握できていない。
水裏も――いまは滑稽なリアクションを求められる面白ポジションではあるが、かつては音楽を生業としていた身である。京子の奏でる音色に、何ら強いられたものがないことは認めざるをえない。人前で、下半裸で立たされていたとしても。さらに、先程の李冴の記憶ものしかかってくる。だが、認めるわけにはいかない。あのようなことを、女のコが自発的にやらかすなど。しかし、ここで認めないことは――少なくとも、京子の旋律を疑うことは、自分の中に残された元アイドルとしての矜持さえ失うこととなる――
様々な葛藤に挟まれた結果――水裏は考えることをやめた。さすがに下半裸ともなれば、ただの変人では済まされない。きっと、警察に連れて行かれることだろう。
だが、水裏は知らない。営業を伴わない女子の痴態であれば、この街では警察すら“相手にしない”ことを。そして、そのような痴態を晒す女子は、この街を牛耳っている二大巨頭のひとつ、ライブネットの加護を受けていることを。むしろ、普通の着衣で路上演奏などしていれば、商売男たちから次々と声をかけられていただろう。下半裸という異常な様相だったからこそ、逆に敬遠されていた。
なお、演奏自体の許可は取っている。TRK事務所ではなく、キーボーディストMI-YA-CO個人として。だから、警察は常識の範囲内で許可した。口頭では、節度を持った音楽活動に努めるようにと念を押した上で。
新歌舞伎町で巻き起こる予想外の事態の連続に、水裏は裏工作に対する意欲を失っていた。このような街では、たかだか猥談ごときで周囲の関心を惹ける気がしない。何より、TRKメンバーふたりのあの所業がどうしても引っかかる。約束の時間までまだ三〇分近く余っているため――そもそも、夜の新歌舞伎町を女性がひとりで歩き回るには少なからず心細い。ならば、ここは敵情視察――客として劇場に入り、ステージを視察しておくことにした。プロデューサーに対する何らかの脅迫材料になるかもしれない。
水裏が劇場に着くと、ライブはすでに始まっており、チケット売り場もロビーも閑散としていた。おかげで、自分の顔を知る者に出くわすこともなく、自分の来場を訝しむ者もない。
だが――
漠然と胸騒ぎがする。それは、わずかに漏れ聞こえる音の端の所為か。確かめずにはいられず、不安に引き寄せられるままに水裏はその扉を開く。
すると――
「「「リリちゃん! リリちゃん! リリちゃん! リリちゃん!」」」
“自分の名”を呼ばれて――それも、会場中から――まるで自分の亡霊を見ているのか――それとも、過去の幻影か――だが少なくとも、コールに応えているのは自分ではない。
「ん~~~、オッケーッ♪」
そこは、紛れもなくストリップ劇場である。一般的な形の舞台から客席中央に向けて伸びる花道と、その先端に膨らんだ丸い特設ステージ――盆――そこに、胸も股間も放り出して歌い踊るサイドテールの女のコは――二〇年前の――ッ!?
「ひ~み~つの~♪ リリのおもい~♪」
それはまだ、自分が新人アイドルとして活躍していた頃の――髪型こそサイド一本とツインの違いはあれど、襟元やブーツなどの残された衣装は同じデザインだ。振り付けも。歌は――ここまで拙くはなかった、と思いたい。それでも、その拙さが若かりし日々を水裏に見せつけていた。希望に満ちていたあの頃を。慣れないことも多くて大変だったけれど、ステージの上ではいつも笑顔でいられた。たったいま、ステージの上で見せているあのコのように――あの頃は――あの頃は――ッ!
「お待たせしてしまいまして、申し訳ありません」
突如背後から声をかけられ、水裏は振り向き両手を挙げる。親指、人差し指、小指だけを立てて。このようなとき、どうしてもリアクション芸人として身につけてきたことが素で出てしまう。だからこそ、もう隠しようがない、と誤魔化すことをやめた。TRKに対して宣戦布告した番組の司会者として。
少し時間は遡り――
公演中、プロデューサーは舞台袖からメンバーたちを見守っていることが多い。今夜は来客もあるが、あと二〇分はある。自分が傍にいることで女のコたちの支えになるのであれば、とギリギリまで寄り添っているつもりだった。
が、そこに内線が鳴り響く。
『お客様がいらっしゃいましたので、ホールの方にお通ししました』
ありがとうございます、と返事をして、受話器を置いてから彼は気がついた。
「…………?」
いまは公演中であり、出演予定の女のコたちはこの控室に揃っている。ならば、客を通したという連絡は一体誰が――? しかも、これから会談を行う控室ではなく、ホールの方へ――?
よくわからないところはあるが――ともかく、客が到着したというのならば、迎えないわけにはいかない。だが、五分一〇分ではなく、二〇以上前である。何もかもが訝しかったが――扉を開けたまま佇んでいる来客を見て――少なくとも、直接控室に通さなかった理由は察せられた。
それは、招かれざる客――敵対しているタレントが、わざわざ劇場に足を運んできたのである。友好的な理由ではありえない。それでもプロデューサーは――奇妙なハンドサインのまま万歳している不審者であっても、あくまで客人として接することにした。
「担当の方の代理で来られたのですね?」
プロデューサーは、マツダプロダクションからの打診自体が水裏による罠であることを知らない。時間も大幅に異なるため、水裏が独自の偵察に来たものと考えていた。ゆえに、あとは自分と口裏を合わせて、適当に離脱してもらえば良い。まだ劇場に到着したばかりのようだし、何かを探りに来たのだとしても、それは未遂だ。
が、最初から水裏は代理として来ている。むしろ、その言い訳を先方から告げられ、半ば観念していた。自分たちの行動はすべて筒抜けだったと。
だとしても、目的は完遂しなくてはならない。今夜は高林秘書もステージに駆り出されている。キメるとすれば、いましかない。
さて、プロデューサー本人によって案内されたふたりきりの控室・応接の間で水裏は“どのような流れで抱かれるか”――それを模索していた。これまでの枕営業でも、誰もがすんなり応じてくれたわけではない。中には、ハニートラップ同然に陥れた相手も多くいる。きっと、このプロデューサーも搦め手を要するだろうと水裏は直感した。
「……現在の御社を取り巻くご状況には、私どもも胸を痛めております」
自分たちの番組で貶めておきながら白々しく――たんなる嫌味であればまだ可愛らしい。だが、より重い意味でプロデューサーは受け止める。つまり――絶対悪は女子を辱める大人たちにあり、それが社会的に批判されるようになったいま、この先の劇場運営は難しいだろう、という脅迫として。
だが、プロデューサーはこの場を預かる者である。一方的な善悪定義に同調することはできない。
「お気遣い痛み入ります。ですが……彼女たちがいる限り、光が潰えることはありません」
大した自信だ、と水裏は眉をひそめる。だが――TRKのメンバーが誰ひとりとして自分の勧誘に乗ってこなかったところをみると、裏付けのない自信でもなさそうだ。ゆえに、水裏はその方向で攻めることに定める。
「しかし……テレビホープでは学生の出演が禁じられ、他の局も協調姿勢を見せております」
一局による学生排除の方針は、同業他社に対しても及んでいた。政治的組織を用いたクレームという形で。
「すぐにこの劇場も営業停止となることでしょう。いまステージで唄っているコたちも、いずれ行き場を失ってしまいます」
それは、アイドルだった自分の歌を唄ってくれていたあのコにも及ぶ。だから、水裏は躊躇しない。あのコの道を糺すためにも――
「もはや、ことは政治の問題です。一社でどうこうできるフェーズではないんです」
それはプロデューサー自身も感じていた。それでも、反論することなく来客の言葉に耳を傾けている。
無言によって同意を得られたとは水裏も思っていない。が、発言を遮られないのであれば、自分の流れで進めるだけだ。
「ここには、数多くの学生が在籍していると存じます。彼女たちはいずれ、あらゆる舞台に立てなくなることでしょう」
プロデューサーとアイドルの絆が強いのであれば、それを“言い訳”とするよう誘導するだけのこと。だが。
「……そこで、提案があります」
先ずは、正攻法で。
「学生のコたちは、一旦弊社に移籍していただくのは如何でしょうか」
それだけでも、TRKからは大量の欠員を出すことになる。
「練習生……あくまで習い事の一環としてレッスンを受けていただきます。卒業後のデビューを前提として」
水裏からの踏み込んだ提案を受けて、プロデューサーは自分の認識が誤っていたことに気づく。ここまでは、あくまで『偶然発見した偵察中の敵対者を波風立てずに釈放する』つもりだった。が、彼女の目的は偵察ではない。どういうつもりで時間前に来て、ホールを覗き見ていたかはわからないが――正式にマツダプロダクションからの依頼を受けてここへ来ている。本当のところは、依頼どころか名を借りているだけだが――ともかく、本来の交渉は始まっていたようだ。
そうであれば、話は早い。
「お断りします」
「ッ!?」
場の空気が変わった――女性には何かと甘いプロデューサーだが、メンバーを守るためであれば一歩たりとも退くことはない。それを感じて、水裏は改めて気を引き締め直す。
「では、最初はあくまで掛け持ち……体験レッスンという形で構いません」
さらなる追撃――一時的にでも引き抜けば、あとはどうとでもなる。何故ならば――一度でも仮在籍した女のコたちは、すべて正式に在籍するに至っているのだから。
それをプロデューサーが知っているわけではない。だからこそ。
「彼女たちが挑戦したいと言うのであれば、私が止めることはありません」
事務所の許可は織りたも同然だが、それでは可能性は低いだろう、と事前の直接交渉の感触から水裏は断ずる。やはり、この男を動かさなくてはならない。
「けれど、プロデューサーたる貴方が命じれば、仕事として出向することはやぶさかではないでしょう?」
「私が命じるのは、そのメンバーが輝けると信じられることだけです」
それはつまりは――マツダプロダクションに移籍しても女のコたちが輝けない、と切り捨てているに等しい。明確な敵対意思として、水裏は受け取る。
「では、この劇場でなら輝けると? ただ唄って踊るだけならともかく、裸にまでさせられて――ッ」
その問いは、自分のしていることに罪の意思はあるのか、ということ。これに、プロデューサーは間を置くことなく答える。
「はい。彼女たちの輝きを、それを求める人々に届けることが私の務めですから」
この問いはすでに二度目――失踪中の憐夜希プロデューサー――彼女に問われたときから、彼は何ら変わっていない。
だが――
ふざけないでください――ッ!
――そんな言葉が水裏の頭をよぎり、拳を固く握り締めるも――
実際、芸能関係者を名乗ったスカウトに、誰ひとりとして応じることはなかった。
そして、上半裸で色目を向けてきた村月李冴――
恥部を露出したまま美しい音色を奏でる藤山京子――
何より、ステージの上から見せつけられた自分の分身――裸にされているにも関わらず、かつての自分と同じ笑顔で――ッ!
認めない! 認められない――ッ! 彼女たちは、本当は芸能界に入りたくて、けれども狭き門ゆえにこんなところに流れ着いて、無理矢理恥ずかしいことをさせられて――ッ!
だからこそ、助けてあげたかった。彼女たちが歌を奪われる前に。
なのに、あのコはここで唄っていた。裸に剥かれながらも、楽しそうに。
だったら、自分は一体何のためにこんなことを――
水裏は自分の役割を思い出して――思考を停止させる。
何のためにこんなことをしているのかなど、考える必要もなかった。
いつだって何も考えず――考えないようにして、自らの身を差し出してきた。
ゆえに、今夜も。
「まあまあ、物は試し、ということで」
ここからは、実力行使。
ソファから立ち上がると――はらり、とワンピースを下ろすと、豊満なカップが顕になった。それでも彼が動じることはない。さすがはストリップ劇場の責任者だ、と水裏は感心する。だが、これで終わるつもりはない。ブラのホックを外し、ショーツを下ろす。彼女の年齢はこの劇場の誰よりも高い。己の身体に自信があるわけでもない。
だが、数多くの重鎮を相手にしてきた技術はある。
「それ相応のお題は支払いますので……」
男の相手をするため、女は静かに歩み寄る。そんな彼女を、若者が仰ぎ見ることはない。先程まで座っていた空の席を見つめたまま彼は問う。
「何故、こんなことまでなさるのですか?」
ここでウェットな理由は必要ない。ドライな快楽に身を委ねるべきだ。
「それが……私の仕事だからですよ」
メンバー全員とは言わない。ひとりでも貸してもらえれば――何なら、人数に応じて、より激しいサービスを――
だが、その瞬間――
――グラリ。
応接間を囲むパーティションは元々劇場にあったものを使っていたため、古かったのかもしれない。
バタン――ッ!
大きな音を立て、塵埃を巻き上げる。幸いなこと外側に向けて倒れたため、中にいたふたりに怪我はない。
が、その騒ぎは外にいた者たちに異変を告げるには充分だった。
「プロデューサー、大丈夫!?」
まこにはノックをしている余裕もない。そして、自分の姿に気を配っている余裕も。
「…………」
おそらく、Tシャツの下は全裸だ、と水裏は察する。だが、これまで上半裸に下半裸、しかも、市街地で――それらと比べれば屋内、それも、ストリップ劇場で、大きなシャツで一応股下まで隠している。であれば驚くには値しない。
このタイミングということは、廊下でここまでの話も聞かれていたことだろう。怪しげな雰囲気だったことも。今回は失敗だと諦めるしかない。
「……今夜のところは、お暇させていただきますね」
だが、これは局長命令である。失敗など許されるはずがない。次の計略を巡らせつつ、水裏はプロデューサーに背を向ける。脱いだ下着に手を伸ばし、速やかに帰り支度を始めようとしていた。
が、しかし。
「待って!」
と引き止めた上で――
「待って……ください……」
まこは敬語で言い直す。だからこそ――このコは自分に対して悪い印象を持っていない。ならば、使いようはあるはずだ。そう考え、水裏は小さな女のコの言葉を待つ。しかし、まごまごしていて話が続かない。これには、外野の方が先に業を煮やしたようだ。
「まこちゃーん、お願いしたいことがあるんでしょー」
開いたままのドア枠から、ひょいと顔を出すのは――大きなガウンを羽織っているので、おそらく劇場の出演者のひとりだろう、ということは水裏にもわかる。が、印象が薄く、すぐに引っ込んでしまったので誰かは判別できなかった。が、そんなエールを受けて、まこの決意は固まったらしい。
「あ、あ、あの……」
そして、着ていたTRKTシャツの裾をピンと伸ばして。
「さ……サインください……っ!」
それで、水裏はようやく思い出した。このコは、さっき――ステージ上で自分の持ち歌を唄っていたコ――!
けれど、Tシャツになんて――何年ぶりだろうか――デビュー当時、ファンたちにはTシャツにサインをするのが通例だった。しかし、それを番組でいじられ、いつしかしゃもじやブリーフに――むしろ、Tシャツ“以外”の物にサインするのが、いまの水裏に対する“お約束”となっている。
まこが着ている白地のロゴ入りTシャツは真新しい。素っ裸のまま出番を終えた後、ファングッズの在庫をわざわざ開けて来たのだろう。他にもサインに相応しいものはいくらでもあったはずだ。
しかし、それでも――
自分がまだアイドルをしていた頃の曲を唄ってくれた女のコが――
サインしてもらうためだけにシャツを着て――
こみ上げてくるものを必死に押さえていた水裏だったが――プロデューサーからペンを差し出されて、ついに涙腺を崩壊させる。
「“こちら”の方が、貴女の仕事でしょう……水裏理々さん」
ペンを受け取ることなく、理々は膝から崩れ落ちた。
「私……私は……ッ!」
「え、え……理々ちゃん……さん……?」
馴染みの敬称に社会人としての敬称を重ね、まこはおろおろと戸惑っている。その足元で、理々はただただ咽び泣いていた。
「私……私は……ああ……ああああああああ……ッ!」
私は――アイドル――アイドル・水裏理々――! 番組の企画でお笑い事務所に移籍させられ――それでも、この仕事にしがみついて――今回の奸計がうまくいけば、芸人ではなくキャスターに転向させてもらえるはずだった。けれど、きっとそれでも心は晴れなかっただろう。何故ならば――私は――アイドル――!
その様子を廊下から覗き見ていた“彼女”は――
“彼女”は如何にまこがそのアイドルを尊敬していたか知っていた。まこは、そんなアイドルが劇場に来ていると知り、いてもたってもいられず――
“彼女”はその人を見てみたかった。まこが一〇年以上アイドルを目指し続けられた原動力を。かつて、自分を励ましてくれた“まこちゃん先輩”が憧れるアイドルを。
ただ、そこで目の当たりにしたものは――
男女がふたりきりで、女性は全裸――それでも、疑うものは何もない。
自分のプロデューサーを疑うことなど、何も。
むしろ、気づいてしまったのは彼の眼差し。
本来、自分が出しゃばるまでもないのだろう。
だがしかし――
おこがましいかもしれないけれど、きっと――
私とあの人は、似たところがあるみたいだから――
“彼女”は唯一肌を包んでいたガウンを部屋の外ではらりと脱ぎ落とす。
そして、改めて。
理々は抱えきれない想いに、控室の床に突っ伏したままだった。それでも、誰かが部屋に入ってきた気配を感じて顔を上げる。
そこに立っていたのは――蒼泉歩――その強烈な存在感は芸能界でも類を見ない。裸で入ってきたのは、ステージを終えたばかりだからだろう、と理々は思う。だが、先程少しだけ顔を出した女のコと同一人物であることには気づいていない。その違いが、たった一枚のガウンの有無だけであっても。
歩は少し照れながら、しかしその素朴ささえ親近感を持たせる。このまま這いつくばっているのもカッコ悪いかな、と理々はようやく立ち上がった。全裸のままで。とはいえ、相手も全裸なのだから、それでいいのだろう。
歩は理々の手を取りに来た。
きっと、そうなるに違いない――部屋の外から、プロデューサーの横顔を見てそう確信していたから。
「え、えーと……初めまして、でいいのかな」
「そうね、私は貴女のことを知っているけれど」
敵対勢力のトップアイドルであれば、知っていて当然だ。一方で歩は――スカウトメッセージの送信者は事務所担当者になっていたので、送ってきたのが目の前の本人であることは知らない。
なので、常に思ってきたこととして繰り返す。
「私は、そのー……裸にならないと、唄えなくて」
あのときの返信――理々は、それを信じていなかった。が、信じなくてはならないのかもしれない。ここで――プロデューサーの前で、それを口にするということは。
「だから……私は、ここでしかアイドルになれないんです」
先程の議論中に挙がった『この劇場で届けたい輝き』――そのひとつ――むしろ、その筆頭が彼女なのだろうと理々は納得した。
「でも、だからこそ――」
歩は恥じることなく胸を張る。
「この劇場では……私、アイドルなんです……っ!」
テレビで理々がどのような扱いを受けているか――そして、本当はどのような姿を願っていたか――歩は、ここで知ってしまった。けれども、きっと叶えてくれる。自分の信ずるオーナーであれば――
歩に、<スポットライト>を感じることはできない。それでも、彼が<スポットライト>を見出している顔つきは、何となく察することができる。差し出されたペンを受け取ろうとしたとき――一〇年以上ぶりのアイドルとしてのサイン――かつての自分――アイドルとしての自分に立ち戻ったとき――自分はアイドルなのだと自覚したとき――彼女は<スポットライト>を“取り戻した”。
彼女が裸になっているのはあくまで篭絡のためであり、ステージ上で同じ姿になることを手放しで受け入れてくれるとは限らない。
それに、利害関係者だけに、敵対事務所に潜り込む策略の一環とも疑う者も出るだろう。
だとしても、彼は受け入れたかった。
アイドルとしての――水裏理々を。
ゆえに、あえて確認する必要はない。歩の言葉――この劇場ではアイドルになれる――その意味は理々にも伝わった。
私も――この劇場であれば、アイドルに――
人々から忘れ去られたアイドルは隣に立つ男に不安そうな眼差しを向ける。ここまで酷使してきた身体だ。いまさら惜しむような歳でもない。だからこそ、むしろいいのだろうか。自分が、このような舞台に立って――しかも、長年誰も求めてくれなかったアイドルなどとして――
それに、プロデューサーは無言で頷く。そのとき――彼女は再び輝きを増した。
「ありがとう……ありがとう……ございます……っ!」
思わず抱きつき、胸の中で泣きじゃくる理々。ただ――せめて服は着てほしい、と他の女子たちは思っていた。
なお、改めてサインを求められる空気ではなかったため、まこがサインをもらうのはしばらく後のこととなる。それでも、勝手に開けてしまった新品のTシャツの代金はしっかり徴収されていた。
さて、理々は元々プロデューサーと一夜を共にする予定だったのである。朝帰りになっても局長側が怪しむことはない。その日はメゾン・ニューの使われていない糸織の部屋に泊まり、朝八時から緊急会議が開かれた。六時間ほど爆睡すれば、霞からアルコールも抜けてくれる。
「私としたことが……申し訳ありません」
「い、いえ、酔い潰れるのはいつものことですし」
「ではなく、マツダプロダクションの担当者が入れ替わることを予測できなかったことです」
先方からは、テレビホープの圧力に対して共闘関係を結びたい、という名目で。しかし、蛯川局長の息がかかっている芸能事務所であることは事前の調査で判明しており、交渉の余地など最初からなかった。来場する担当者は男性と聞いていたし、出演できる年長組も不足している。そのため、ミーティングをプロデューサーひとりに任せてしまった――霞が反省しているのはそのことについてのみ。
「むしろ、アルコールを摂取してステージに上がることは、社長指示だと認識しておりますが?」
泥酔の件は詫びることではない、と霞から睨まれてしまった。
「はい、そうですね、すいません」
プロデューサーが素直に謝ったところで、速やかに会議は開始された。が、本題に入る前に。
「実は、謝らなくてはいけないことがあって……いえ、謝ることはいっぱいあるのですけど」
TRK側についたアイドル・水裏理々は、どこから話すべきかと迷っている。が、霞には察しがついていた。
「丘薙さんのメジャーデビューの件ね」
霞の口調は身内に対してのものになっている。つまり、事務所としてはすでに許している、ということだ。そして、糸織も当然。
「この会議、ウチにも出席してくれーゆーたの、そんためやろ?」
理々とプロデューサーと霞の三名は必須として、糸織もまた霞からお呼びがかかっていた。その事情は理解しているし、裏で糸を引いていたことについて何ら問題視していない。
だが、事情の説明は必要だろう。本人の口から。
「丘薙さんのメジャーデビューの件は……蛯川局長の指示だったのですね」
「はい、実は……糸織さんを引き抜くため……成美さんにもご迷惑を……」
「ああ、せやろと思ったで。あんにゃのことやから、何かあればウチに泣きついてくるってわかっとったんやろ」
歌い手として敵対していた頃と打って変わって、現在の関係はむしろ良好である。糸織のSNSでもあんにゃとの交流は何かと話題に挙がっていた。
そこまではプロデューサーも知っている。だが。
「え、泣きつく……とは?」
さすがに、直接事務所同士で引き抜き合うわけにはいかない。ゆえに、事務所とは無関係な隣接業を装って、未兎にも何度か仕事の依頼が来ていた、と霞から報告は受けている。同じように、糸織を懐柔するために、元々メジャーデビューを目指していたPASTのあんにゃは利用されたようだ。が、泣きつく、というのは穏やかではない。
どのような手口か――理々も大まかには知っている。が、契約に直接関わっているわけではない。なので、その詳細については泣きつかれた糸織より説明された。
「まったく、えげつないことしてくれるで。業務内容にしれっと“性的サービス”を忍ばせるたぁ」
こういうものは、実物を見せた方が早い。糸織は書類を取り出すと、隣の席のプロデューサーの前にスッと流す。それは、マツダプロダクションとの契約書だった。その中の一部がマーカーで強調されている。その一文とは――
「せ、性的サービス……!?」
業務内容に、ライブや宣伝活動に混じって『関係者に対する性的サービス』というとんでもない文言が混ざっていた。しかもその契約者は、あんにゃではなく糸織自身――!?
「それをわかっていながら自ら契約書にサインを……?」
すべて承知の上で芸能界に踏み込む覚悟だった――のかと思いきや。
「いやー、知らんかったでー。少なくとも、契約締結の際にも何の説明もなかったしなー」
糸織はヘラっと無責任に笑い飛ばす。しかし、それに抗議する様子もない。その理由については、霞の方が解説する。
「ご心配にはお呼びません。民法何条かは失念しましたが……原則として、公序良俗に反する契約は最初から無効ですので」
「えっ、そうなの!?」
と素で驚く理々。取り返しの付かないことになった、と悔やむ必要はなかったようだ。
「こんなものは一世紀前の手口やで。もっとも、ウチを契約でハメようなんざ、一〇世紀早いがな」
丘薙家の令嬢であり、齢一五にして店長を任され、現在もプロデューサーに代わってカラオケボックスを営んでいる糸織に不当契約の類は通じない。が、あんにゃには通じる。
「糸織さんを引き入れてくるなら、性的サービスについては免除する、という条件を出したところまでは、私も知ってたんですが……」
どうやら、ふたりの間で理々が想像していた駆け引きは行われていなかったらしい。
「ヤツも、ウチがこーいうんに詳しいんは知っとったからな。どうにかできひんかー、って」
あんにゃはどちらかといえば素直に感情を出してしまうタイプだ。騙し合いで糸織に敵うとは最初から思っていなかったのだろう。ゆえに、正直に話して、解決してもらおうとしたようだ。
が、これに理々は納得できない。この手口によって多くの女のコたちが苦しんできたはずだ。その表情に、霞は応える。
「このような契約が横行する理由はふたつ。ひとつは、どんな手段をもってしても、デビューにこぎつけたいコが少なくないこと」
それは理々にもわかる。実際、契約としては結んでいないが、自身もまたそのような“業務”に手を染めてきた。
「もうひとつは……報道機関も、その恩恵にあずかってるからよ」
「!」
理々自身、雑誌の仕事をもらうため、新聞社の重役と寝たこともある。が、それはあくまで自分が仕事を得るため、と考えていた。しかし、その後ろ暗さが組織として枕営業に触れることを禁忌とし、揉み消してきたのだろう。もちろん、ネット上では周知のこと。しかし、ユーザー側が情報を取捨選択しなくてはならないネットに対して、ただ電源を入れているだけで情報を流してくれるテレビの影響力はやはり強い。そこで避けられている以上、大きな社会問題としては扱われないのだろう。
様々な事情を加味した上で、糸織はその契約書にサインした。
「ナハハー、いつでも白紙に戻せるんやで。利用せん手はないやろ」
なお、事務所側とて、このような罠を仕掛けるには相手を選ぶ。糸織もあんにゃも、かつてはアダルトサイトに登録していた歌い手だ。仮に揉めても金で解決できると踏んでのことだろう。
すべては解決済みだと納得し、プロデューサーは安堵のため息をついた。その表情がとても穏やかで――大きな心配をかけてしまったことを糸織は少し申し訳なく思う。
「まー……黙っとって悪かったわ。もう少し食い込んでから話すつもりやったんけど――」
糸織はチラリとプロデューサーを挟んだ向こう側の霞を見る。
「――あのタイミングがベストやと思ったさかい」
ひとり嫌疑の目を集めていたしとれをかばう“ネタ”として丁度いい、と考えてのこと。
「その後、すぐに説明を受けたわ」
だが、霞がここでそのすべてを口にすることはない。
糸織が芸能界に潜り込もうとした目的は、単純な敵情視察だけではなかった。それに加えて――頑なに芸能界復帰を拒む未兎のため。テレビで宣伝してくることは、劇場にとっても有益なはずだ。が、プロデューサーは一部のメンバーだけを劇場外に出すことに消極的である。ゆえに、自分が橋頭堡となり、未兎を受け入れやすくする狙いがあった。
そしてもうひとつ――自分が地上波に出れば、流石に目立つ。そうすれば、自分の父親が番組スポンサーについてくれるかもしれない。そうすれば――ただ全裸で唄って踊るくらいなら、深夜番組でもできなくもないはずだ。つまりは、脱がなくては唄えない歩のため――
仮にプロデューサーへの心証が良くないとしても、足並みを揃えていてはいつになるかわからない。ゆえに、糸織は霞にだけ打ち明け、霞もまた、自身の中で消化している。
これらの思惑をどう活かすか――それは糸織の活躍次第だ。それはさておき、霞はトントン、と机を指で叩く。プロデューサーに、手元を見てくれ、と言いたげに。
「その契約書を公表するだけでも、一定のダメージは与えられます。が――」
霞の言いたいことはプロデューサーも理解している。おそらく、マツダプロダクションの代表に責任を押し付け、局長自身はさらに防衛を固める――小手先の攻めは逆効果だ。
「政界目指しとるんはあの専門家で、局長が全力でそのバックアップをしとる。そのどっちかを潰せば、この騒動は収まるんやろけど――」
糸織は、下からギロリとプロデューサーを見上げる。
「あとでホンマのとこ聞かせてもらうで。ま、見当はつくけどな」
と、小声で釘を差してから。
「専門家の方は置いといたる。先に局長を潰す算段について検討しよか」
事情の見当はつくが、あとで説明せよ――件の報告の際に、糸織は霞に提案していた。何故ならば、しとれや霞と同じ疑念に行き着いており――女性の労働の権利を守る、という方向で『専門家』の方を潰す――だが、この案は霞からやんわりと制されてしまった。それはやめてあげて、と。ゆえに、見当はつく。プロデューサーとあの専門家は何らかの関係者――おそらく父親か、それに類する者であると。
そのため、対象を局長に絞ることとなった。幸いなことに、その懐刀はここにある。
参加者たちからの視線を一身に受けて――理々は迷っていた。
いや、本当のところ、迷いではなく――恐れ。
きっと自分には、すべてを終わらせることができる。
だが、終わらせてしまったその先にあるものは――
「あ、あの……ぷ、プロデューサー……さん……?」
理々は言葉に迷う。ここまで、劇場には多大な迷惑をかけてきた身だ。いまさら甘えることなど許されようもない。
けれど。
「私……頑張りますから……えーと、そのー……こんな、歳ですけど」
理々はモジモジと言葉を濁している。だが、それ以上言う必要はない。プロデューサーには、しっかりと伝わっていた。その身を包む美しい<スポットライト>をもって。
「はい、末永く、私にプロデュースさせてくださいますか?」
「末永くっ!?」
その単語に反応したのか、理々の頬が初々しく爆ぜた。そこにそれ以上の他意はない。それでも。
「ふ……不束者ですが、よろしくお願いいたします……」
椅子に座ったままだが、両手をそっと机につき、彼に向けて深々と頭を下げる。そんな様子を見て――プロデューサーは、やはり往年のアイドルは伊達ではない、と再認識していたが――両隣のふたりは不穏なものを感じていた。
何はともあれ。
局長との関係は完全に過去のこと。もはや、理々の胸に迷いはない。
「確証はないのですけれど、おそらく――」
理々の口から語られた推論は、その場にいる誰もを唖然とさせた。
もしそれが正しければ――何とも救いようのない話である。
なので。
「……先ずは、その推論を確定させましょうか……」
プロデューサーにとって、蛯川氏は恩師でもある。その相手を破滅させることに些かの躊躇がないこともない。
「社長、多少の危険は伴いますが……了承していただきますね?」
父親と恩師を天秤にかけろ、と霞は言っている。恩師に対する手を緩めるのであれば、父親の方を社会的に裁く、と。だが、プロデューサーが比較しているのはそこにない。傷つく女のコを救うか、そのために女のコに危険な任務を託すか――だが、他に手立ては思いつかない。ならば、彼は信じるしかないのだろう。自分を信じてくれる女のコたちを。
***
“彼女”が抱いてもらえるのは、与えられた役割を全うしたときのみ。
だが。
「あ、あ、あぁん……っ」
大きな寝台を揺らすのはいつになく力強い男の腰つき。なのに、そこに自分への思いは含まれていない。目の前の女を抱きながら、意識は別の女に向けられている。それが、ずっと悲しかった。しかし、いまは何もない。何もないのに――感じるものは感じるのだな、と理々はただぼんやりと感じていた。
ゆえに思う。目の前の男が自分を見ていないのなら、自分も相手を見る必要はない。いま、自分が想う――想いたい相手は――誠実、ゆえに遠い。それでも、いつかは――
「……あぁんっ、いい……はぁ……んっ」
それはふたりで肌を合わせながらの自慰行為に等しい。だが、久々の満足感はあった。
「ふん……おい、久々に“アレ”やれよ」
内側にほとばしる男を感じながら、我に返らされた理々は少しだけ表情を強張らせる。だが、これも最後の手向けか。
「み……水裏理々は、十七歳。エッチに興味なお年頃♪」
ベッドに寝転されたまま横ピースウインク。自分でやらせておきながら、見下ろす男の視線は冷たい。
「はっ、やはりいつ見ても滑稽だな」
もうすぐ本物の十七歳が手に入る――そのとき、この年増を思い出して酒のツマミにしてやるか――女の中で弱りかけていた男が――自分のスマホの着信ランプが点灯したことで、にわかに期待を取り戻す。だが、その場に留まり続けることはない。
女を無視してズルリと身を離すと、すぐさまメッセージ内容を確認する。そして――そのまま返信し始めた。『それは大変だ。私が行くまでそこで待っていなさい』――と。
「おい、水裏」
「はい」
局長の機嫌の良さは、自分の外側にある、と理々も理解している。そして、女の心情を理解するつもりなど、その男にはない。
「急な仕事が入った。お前は勝手に帰れ」
「……はい」
こんな深夜に何が仕事だ――が、このようなことは初めてではない。新しい女が手に入ればいつだってこれである。たとえ、自分との先約があっても――それどころか、自分とベッドを共にしていても一方的にこの扱いだ。
しかし、それも今日で最後。局長は、ワイシャツをまとい、ジャケットを抱えるとネクタイ片手に速足に部屋を出ていった。きっと、身なりはタクシーの中で整えるつもりなのだろう。
さて。
局長が戻ってくるまでさほど時間はない。待ち合わせが新宿であることを考えると、往復で――加えて、何だかんだと口説くための理由付けも必要なので、長く見積もっても一時間。以前、あまりの悲しさにその場で泣き崩れていたところ――帰れと言ったはずだ、ときつく叱責を受けたことがある。何故ならここは――表向きは海の見える歴史ある料亭――だが、その敷地の奥に小ぢんまりと佇む建物は――局長と愛人の密会用邸宅なのだから。
ゆえに。
本来ならばすぐにでも男の体液を洗い流したいところだが――理々はその時間さえ惜しむ。自分は、TRKの一員だ。“みんな”のために、自分にしかできないことを――!
密会用といえども一応は邸宅である。二階は局長の私室として使われていた。理々は裸のまま手袋だけ着けて、プライベートエリアに忍び込む。とはいえ、そのドアに施錠はされていなかった。あまりに無警戒――だが、組織としての機密は組織の建物に封じてある。逢引のための建物の奥の金庫に封じられているのは私人としての――男としての――むしろ、雄としての機密といえようか。
理々と局長との関係はすでに二〇年以上にも及ぶ。その中で、彼女は何度か目にしていた。それはまだ、ふたりが仲睦まじかった頃に――
1を三回――逆に回して、4――
そして、軽くダイヤルを引けば――
十一月十四日は彼女の誕生日――当時と変わらぬ解錠手順に、理々の胸に懐かしさが押し寄せてくる。
いまは、プロデューサーとアイドル――だけど、いつかは――
その想いは誰にも知られてはいけない。決して祝福されない。少なくとも、いまは。だから、ふたりの想いはこの中に――いつか、この扉を一緒に開ける日が来るまで――
だが、理々の想いはその瞬間に霧散する。
山のように積まれたメモリーカードの数は、どう考えても自分たちだけのものではない。
きっと、とっくに埋もれているのだろう。他の女との思い出によって。
残さず叩き折ってやれば、あの男はさぞ悔しがるだろう。だが、そんなことをしても意味はないし、何より、手を出した証拠を残すわけにもいかない。欲しているのはカードそのものではなく中身のデータ。すでに、料亭裏口の前では霞たちが待機している。内通者がここにいるのだから、手引するのは難しくない。あとは堂々と潜入させて――五人がかりで転送していくことになるのだろう。この膨大な――“児童ポルノ”を。
一応、金庫の中身はそれっぽく戻しておいたが、何の拍子に気づかれるかわからない。もうすぐ夜も明けようという深夜の劇場控室にて、メンバー総動員で取得した動画データを再確認していた。
しかし。
「……悪いけど、ちょっと休んできていい?」
普段表情を変えない優だが、見るからにやつれている。やはり、このような動画を見続けるのは精神的に厳しかったようだ。どれもこれも――中には、まだ毛さえ生え揃っていない幼女さえ含まれている。無理矢理こじ開けられてゆく様子は、個人で見返して楽しむだけに留まらない。新たな脅迫材料として使用された形跡もあり、怯えきった女のコたちが涙ながらに男に尽くす様はまさに地獄絵図だった。とはいえ、すべてが悲壮に満ち溢れているということもなく――中には、女のコ自身も納得しているのか、仕事と引き換えに比較的和やかに応じている者もいる。いま現在、この男の相手をしている彼女の心情は、せめて穏やかであってほしい、とメンバーたちは祈っていた。
だが、現在の検証者たちの中に、このようなプレイが守備範囲である者はひとりもいない。かつては、わざわざ性器を隠蔽するために、ありとあらゆる性癖の動画を確認し続ける仕事が存在していたという。きっと、日々精神をすり減らしていたに違いない。
「うーん……あの人ならこういうのでも余裕だろうけど」
と、未兎はぼやく。すると、噂をしたからか。
「ちんこわーっ!」
その挨拶だけで、誰が入室してきたのかすぐにわかる。だが、その声は弾んでいるというより、ヤケっぱちな叫びのようだ。着衣の紫希は珍しい。だがそれは、頼んだ仕事をしっかりこなしてきてくれた証左でもある。ただ、長身でグラマラスなプロポーションであるため、その学生服はあまり似合っているとは言い難い。
「Pちん!」
紫希は控室で動画のチェックを行っていたプロデューサーのところへ真っ直ぐに飛んでくる。そしてすぐさま。
「ちんぽ出して!」
それはいつもの誘惑ではなく、まるで強要である。難しい任務を完遂してきたばかりということもあり、頼んだ側としても断りづらい。
なので、霞が割り込み報告を求める。
「その前に、どうだったの?」
その前に、ということは、その後は許容するつもりなのだろう。なので、紫希も素直に従った。
「どうもこうも、完全にあのクサレチンポじゃん! もーヤダ。口直ししたいーっ!」
紫希の目利きは確かである。ゆえに、面々も――ここまでの苦労は無駄ではなかった、と無言で胸を撫で下ろしていた。
さて。
理々がずっと――それは、例の特番『芸能界の闇を暴く』の収録中から抱いていた疑惑――サンプルとして送られてきた資料は数十人分、と番組中では話したが、本当のところはあの一本だけである。そして、その身元は明らかにされていない。だが――そこは、長年性的関係を結んできた相手である。無修正の男性器には何となく見覚えがあった。
が、さすがに竿一本で個人を特定して訴えることは難しい。ゆえに――理々は知っていた。情事用別宅にて大量のハメ撮りを保管していることを。ただし、それを指摘したところで、加害者から押収した映像だと言い張ることだろう。映っている性器が局長のモノだと証明できない限り。
そこで、先ずは桃を見学としてマツダプロダクションに送り込んだ。理々の説得に応じた、という建前で。当然、そのように局長にも報告しておいた。ゆえに、桃のレッスン中に“偶然”テレビホープ局長が居合わせており――それはまさに品定めである。
桃は、この先自分が唄えなくなるのでは、という不安を抱えてやってきた――と装っていた。なので、蛯川氏はテレビホープ局長として、そして、『キッズ・ガーディアン』という子供の権利を守る組織の代表として、桃の悩みに真摯に向き合う。そのとき桃が感じた印象は――厳しくも優しいお父さん――あからさまに怪しい成人男性についていくほど、女子たちも愚かではない。だが、桃には数々の男たちの外面に“騙されてきた”経緯がある。きっと一皮剥けば連中と変わらないんだろうなぁ、と諦観しながらも、エッチがうまければワンナイトくらいならまあいっか、と開き直っていた。
悩み相談を持ちかけた際に、局長と個人的な連絡先――ただし、信頼度は五つあるアカウントのうちの下から二番目――を交換している。それによって、蛯川氏も桃と親密な仲になったと見做していた。
その夜に桃は、理々が“ご褒美”と称して別邸に招かれたのを見計らって――『もうひとりマツダさんに移りたいって話してるコがいて』『けど、それが事務所にバレたみたいで』『いま、新宿のファミレスにいるけど、もう帰れない。どうしよう』――しかし、そのもうひとりが紫希となれば、猥談に歯止めをかける者はいない。いつもならば、相談中にさり気なく睡眠薬を仕込むところだが、ふたりともノリ気であり――むしろ自ら家に泊めてほしいと言い出すほどである。
誘うまでもなくふたりとも件の別宅へと着いてきたが――プレイの直前になって、紫希は豹変。
「やっぱ帰る」
男性器で個人を特定するだけでなく、その心根まで見透かすのが紫希の才だ。事前に、深夜番組の映像も確認してもらっている。それだけでも相当嫌がっていたが、ひと目見て同じ男性器だとわかったようだ。
とはいえ、これが通じるのは内輪内だけのこと。外部の人間にも通じる本人である証拠が必要だ。ここまでは、誰もが半信半疑で――必死に確認してきた大量の児童ポルノが、もし局長と無関係だったら――だが、紫希による認証が得られたのだから、あとはどうにか蛯川氏である証拠を掴むだけだ。
なお、胸以外も立派な紫希は局長にとってストライクゾーン外である。特に引き止められることもなく、タクシー代だけ握らされて後腐れなく帰ってきたらしい。そして、いまは桃がひとりで相手をしているのだろう。後で聞いた話では『ミョーにサカってたんでこっちからリードしといたけど、好きにさせてたらキモい攻めされてたかも』とのこと。
ともあれ、こうして戻ってきた紫希自身が検証に加わってくれれば、少しは捗るかもしれない――そんな未兎の期待とは裏腹に、もう二度とイヤなチンポは見たくない、と紫希はプロデューサーのしなだれたモノにジャレている。一応、大役を務めてきた直後なので、ここからさらに動画チェックに参加しろと咎めるものはいない。
理々を慮って、メンバーたちは比較的新しい方から確認している。理々は逆に――ふたりが付き合い始めた当初から。あの頃はまだ裸だけでなく、普通のデートも撮影していた。楽しかった――とは思う。が――あれは二十歳の頃か。別の女の影を感じた際に結婚を切り出していれば、異なるいまにつながっていたかもしれない、と思ったりもする。
そして、もっと早く出会っていれば――と理々はプロデューサーの顔を覗き見た。下半身に妖艶な美女をまとわりつかせながらも、上半身は熱心に動画の確認を続けている。あの若さで何と無心な――と感心すると同時に、『あの若さで』などという単語を思い浮かべてしまった自分の歳が恨めしい。やっぱり、生まれた時代が違ったのかな――少しだけ、理々は胸を締め付けられる。が、それでも――いや、その方が良かったのかもしれない、とも思う。私はアイドルで、あの人はプロデューサーなのだから――と。
その傍らで、三〇人を超える関係者たちにより、動画の検証は進められていく。股間だけでなく、その股間の持ち主を認識できる痕跡を探して。当然、理々の動画では堂々と顔を出しているが、ふたりはあくまで合意の上だ。ゆえに、必要なのは、番組で用いられていたような、あからさまな凌辱画像である。
「う、う……これ……ナッちゃんだよね……」
「まこちゃん、ちょっと休んだ方がいいのー……」
アイドルに詳しいまこは、映っている面影から、応援していた女のコの子供の頃だと気づいてしまったようだ。ショックに影を落としているまこを抱いて朱美は慰める。下心があるのかないのか、傍からはどうにも判断しづらい。
一方、同じく芸能界には詳しいはずの花子なのだが。
「あらあら……このコ、もすかして――」
同室に落ち込んでいるまこがいるため、それに続く個人名については一先ず噤む。が、花子にとって、アイドルとは熱愛であるため、この映像もそのひとつにすぎない。ただ、子作りには若すぎるなぁ、と思いながら羨ましそうに眺めている。
「っかーっ! どんだけ違法ロリが好きやねん、このオッサン!」
合法ロリを名乗る糸織は、さすがに嫌気が差してきた。あと、このような地道な作業はあまり好きではない。
「やっぱアンタ、いくら貧乳でもガチロリとは違うにゃー……」
敵情視察のためにライバルの動画もチェックしていたあんにゃだからこそ、合法ロリとガチロリの違いを肌で感じられたのだろう。
急遽駆り出されたあんにゃと共にやってきた湊だったが、無言のまま顔色は悪い。
「湊……少し休んだ方が……」
「いえ、先輩を差し置いて、自分だけ休むわけにはまいりません」
こういうところで意固地な後輩がしとれは心配だ。自分も疲れてきたし、一緒に休んだ方がいいかもしれない。そのために、PASTのふたり以外にも助っ人を頼んだのだから。
「ねぇ……これ、あの局長なんでしょ?」
「みたいだよー……私、デビュー目指すのやめよっかな……」
ミトックスのふたりは、芸能界自体に不信感を懐きつつあるようだ。
「これって演技じゃなくてガチ?」
「サイアクだわ。こういうのはAVだけにしとけっての」
桜峰軽音楽部のふたりは数々のハード作品に出演してきただけに、妄想を現実にしてしまう犯罪者に対する目は厳しい。
誰もが不快感を顕にする中、少しでも雰囲気を和ませようと扉が開かれる。
「ファファファ、気分転換に飲み物はいかがかの。バーカウンターの方にたらふく用意しとるぞい」
このような細かな作業は、さすがにイワ爺の老眼には厳しい。だが、何か力になりたい思いは若者たちと同じだ。
が、その思いに真っ先に若くない者が乗ってくる。
「おっ、いいねぇ。キツいのを頼むぜ」
「アホなんですか貴方は。調べ物してるときに酔っ払ってどうするんです」
イワ爺に続いて入ってきたのはライブネットの萩名兵哉と天然カラーズの相馬智之――ふたりの重鎮に率いられて、両社のスタッフたちもホールの方で検証作業を続けている。特に、離島の件にて恩のあるミナミやナビキは自ら立候補してくれたらしい。萩名社長たちは、自分たちの分が一通り終わったので、社長たちが代表して追加データを引き受けに来たようだ。
まさに新歌舞伎町の中から外まで巻き込んだ総力戦――誰もがアイドルの未来を守るために――
「それではイワ爺さま、ご馳走になります。ほら、湊も」
「は、はい……。先輩とご一緒するのであれば」
内容が内容だけに、根を詰め過ぎると精神が焼ききれてしまう。しとれに続いて何人かが休憩に入ろうとしていた。が、その時――
「うわっ、うわっ、これ、オーナー……これ……ッ!」
本気で作業するときの歩は全裸である。だからこそ、そのデータを引き当てたのかもしれない。
歩の叫びに、プロデューサーだけに留まらず、皆がゾロゾロと歩の周囲に集まってくる。だが、そこに局長を示す手がかりはない。本人も後ろめたいことをしている自覚があるのか――おそらく、少しでも危ういシーンは手作業で削除してきたのだろう。それでもこの数ならば、と期待してきたが、なかなか尻尾を掴めない。そして、最後まで尻尾を出すことはなかった。
少なくとも、彼自身は。
「……れ……憐夜希……?」
男の方は、この映像でも股間だけ。しかし、少女の方は――目蓋は閉ざされており、熟睡しているようだ。男によって乱暴に服を剥かれそうになっているが、それに気づいている様子さえない。
だが。
「……もったいつけずに、知っとるなら言いや」
糸織も幼女が犯されていく様を観続けて、些か不機嫌になっている。歩のすぐ後ろに立っているルミノを糸織は鋭く睨みつけた。言われたのが霞だったら泣き出してしまったかもしれない。小さく、愛嬌のある糸織だったからこそ、辛うじて応じられたのだろう。
そして、何を問われているのかも自覚していた。この状況は、一度体験しているゆえに。
中でも霞はそれとは別に、“あの日”にも同席していた。ゆえに、確信が深い。一度だけ直接面会した“あの日”――局長は、憐夜希氏についてプロデューサーに尋ねていた。最近初めて会った相手として。局長にとって、一度抱いた幼女は爆弾も同然である。ここまで隠し通してきた注意深さからも、そのような相手とのつながりを、敵対相手に開示するはずがない。
だからこそ、別のところで納得感もある。
“彼女”の妊娠の時点ではなく、子供が産まれてからの離別――おそらく、あり得ない組み合わせだったのだろう。その血液型は――
「うーん……もしかしたら、ですけど……」
ここまでの作業で、部屋の空気はやや殺伐としている。そんな視線を浴びせられて、胸を張れるルミノではない。
だから、おずおずと、自信なく。
「希さんではなく、朱里……あたしのママ……の、子供の頃……っぽく、見えないこともないかもー……?」
――そして、夜は明けた。
最終話は文字数超過により載せられませんでした。
続きはPixivさんかハーメルンさんにて。