24話 藤山京子
しとれの私物に薄い本が加わった。
サブカルティアで入手した“戦利品”たちは、一旦プロデューサーら首脳部の間で共有された後、いまはしとれ預かりになっている。少なくとも『パラノイア』に関する直接の連絡先はなく、『LSルネッサンス』についても、『パラノイア』との関係について開示することはなかった。となれば、あとは本そのものから読み取るしかない。
とはいえ残念ながら――『はるも』側の性癖について、しとれは対象外だった。軽く目を通した後は、ルミノや慧など、希望した者に譲り渡している。
一方『きの子』執筆の書籍については――それは、サブカルチャーの祭典で入手したとは思えない――と評するのはイベントに失礼かもしれないが、ともかく、一般の書店に並んでいるものと遜色ないほど硬い内容だった。
『パラノイア』名義の四冊のうち、しとれが真っ先に着手したのは、当然『児童労働の近代史』――もう二十一世紀末だというのに、諸外国の特定地域ではいまも児童が労働力として売買されているという。真に禁ずべきは実親による就学機会の剥奪であり――現に、夢と自己表現のために自らの意思できらびやかな舞台を目指すアイドルについてはこの本でも触れられていない。やはり、テレビホープの言い分は無理筋だろう、としとれは改めて思った。
『男女にまつわる育児と仕事』――男女雇用均等法が制定されてからすでに一世紀以上経っている。そのうえで、建前と現実の間に存在する性差異と、近年起案と廃案が繰り返されている『独身税』に関するメリットとデメリットについて述べられていた。
そして、『表現の自由を取り戻すまで』――創作に関する長き戦いの歴史を、海外から国内まで、古代から近代まで――本当につい最近発生したばかりの『歌舞伎町クライシス』まで解説している。
最後に、現在拝読中の一冊『セックスとドラッグと』――様々な薬物を用いた犯罪の手口について記されていた。まだ途中であり、控室で読み進めるため、出立前のしとれは棚のその本に手を伸ばす。
そのとき、ふと隣の背表紙が目に入った。
しとれがすべての“戦利品”の中で真っ先に手を付けたのは、『パラノイア』刊の著作物でも、はるもの『LSルネッサンス』でもない。『メイド喫茶へ行こう Vol.6』――しとれ自身はまったく自覚がなかったが、どうやら彼女がメイド喫茶界隈のライブイベントを牽引していたようだ。が、その先導役が身を引いてしまい――これに対するファンたちの反応は――恋人はいない、と偽りの公言を行っていたことについては、一定の責はあるとして――昨今は普通に女子高生がAVに出演する時代である。動画の流出くらいで“追放”するのは如何なものか――
“初稿”の時点では、『メイド☆スター抜きでも盛り上げていくべき』『やはり、メイド喫茶とはライブイベントを行うような場ではない』の両論が拮抗していずれも譲らず、今後の課題としてお茶を濁したまま一度は終わっていたが――ここからは、七月時点――今年開催されたメイドフェスの後の加筆だと断った上で――『やはり、メイド☆スターあってのメイド喫茶』という満場一致の結論となった。
だが――この執筆者たちは知る由もない。その数カ月後、アイドルという存在自体が窮地に立たされることを。だからこそ、ファンたちはしとれに託したのだろう。自分たちの切実な想いを認めたこの一冊を。
自分にできることは何なのか――しとれはそれに思いを馳せていた。
***
アダルトビデオに対する偏見のなくなったこの時代だからといって、無制限に人々から歓迎されているわけではない。
『@kimama111 がストリップ劇場に行ってたらしい』
『女の未来を奪う人でなし!』
SNS上では、今日も大なり小なり炎上が続いている。選挙活動は組織力だ。元々、このような風潮に反感を持っていた層は薄くない。その者たちを動員し、あることないこと――中には、協力を拒んだという理由で火祭りに上げられた者さえいるようだ。こんなとき、新歌舞伎町で生きる者たちは、原則として社会的な発言力は極めて弱い。反論の機会など実質与えられず、ひたすら耐えるしかなかった。
それでも、劇場は開き続けるしかない。だが、しかし――
「次の曲の前に、皆さんに残念なお知らせがあるのー……」
閉ざされた幕をくぐって現れた朱美は、神妙な面持ちで観客たちと向かい合う。これから何を告げられるのか、客席側もすでに察していた。舌打ちとため息の中、朱美は静かに言葉を続ける。
「先程の『|Left&Light』の楽曲中に、禁止事項に違反したお客さんがおりまして……」
ゆえに、『はぐはぐサービス』――公演後、出演者とハグできるアフターイベントは本日“も”中止――禁止事項――盗撮犯は公演中にその場で抗議していたため、気づいた者も少なくない。アイドルとのスキンシップ目的で来場し、それが叶わないと察した時点で退席してしまった者も。
こんなことなら、自分もこっそり撮影を試みておけば良かった――この劇場だって、いつ潰れるかわからないし――そんな負の連鎖が次の違反者を生んでいく。
これまで、プロデューサーは場内の反応を肌で感じるため、開演中は観客に混じって客席側でメンバーたちを見守ることが多かった。が、こんな状況では舞台袖から場内カメラでくまなく不審者の監視に努めざるを得ない。
紳士たる生粋のファンたちは――劇場にお金を落とす者は女子を貶める所業に加担しているも同然――そんな“言いがかり”を恐れて、劇場から足を遠退かせている。そのため、公演も夜一回のみの縮小体制を余儀なくされていた。経営自体は当面問題ない。だが、このままでは劇場の存続自体が危うい。
こんな事態に陥ることとなった元凶――それは、一本の深夜番組だった。
***
東京湾にて引き上げられた遺体――身柄を調べてみたところ――それはアダルト動画メーカーの代表取締役であり、ちょうど芸能各社とのつながりによって物議を醸していた張本人・周防原明夫だった。全身には多数の暴行の跡があり、簀巻きにされ“重し”につながれ沈んでいたというが、警察は『自殺』と断定して処理したとのこと。
それはいい。
だが、それを利用して動き出した者たちがいた。
「これまでは社長を恐れて公にできなかったが、いまこそ『これ』を報じてほしい……そんなメッセージと共に、我々番組スタッフに預けられたのです」
カメラに向けてそう告げる司会はお笑いタレントの水裏理々――長年身体を張ったコントばかりを務めてきたが、今日は黒のスーツに身を包み、緊張感に満ちた表情でカメラに向かっている。その姿は、まるで喪服――歳に合わない幼気なツインテールもいまは下ろしており、これまでの自分と決別するかのような覚悟が感じられた。
進行には台本があり、これから何が映し出されるかは周知されている。そして、どのような反応をすべきかの指示も。だが、実際に表示されるのは初めてのことだった。リハの際に伏せられていたのは、より“好ましい”リアクションがほしかったからだろう。そして、大型モニタに映されたその内容は――深夜放送ということもあり、非常に過激なものだった。
「きゃあああああああッ!?」
雛壇に集められているのは芸能関係者の母親と紹介された女性たち――実際のところは劇団員なのだが、見せつけられた惨状に、演技を超えた悲痛な叫びを上げる。
画面の中に収められているのは――その体型から見て、まだ一〇代前半といったところか。ベッドに横たわらされた少女は全裸に剥かれ、両足を大きく開かされている。が、抵抗する様子はない。どうやら昏睡しているようだ。プライバシー保護のため顔にモザイクがかかっているが、身体の方は無修正である。
そして、撮影している男の方はどうやら成人らしい。股の間の付け根にも毛がしっかり生えており、そこから伸び立った巨大な肉の塊が、小さな女のコの身体を徐々に、徐々に――
「いやああああああッ!?」
雛壇のひとりが両手で顔を覆って蹲る。どうやら、彼女がこの少女の母親という設定のようだ。あまりのショックに頭をもたげることもできず、スタッフに支えられて雛壇から退場していく。
そんな映像を流しながら――司会もまた呆然としていた。
「……え……?」
だが、インカムにて進行を促されて我に返る。
「……じ、実に痛々しい光景でした。しかし、被害者は彼女だけではありません。提供された動画は実に何十本にも及んでいたのです」
見るに堪えない映像に、雛壇の劇団員もすっかり沈み込んでしまった。おそらく、本心から嫌悪しているのだろう。期待通りの絵が撮れたところで――司会はちらりとカメラの外に視線を移した。
「今夜は、この問題に詳しい専門家の方をお呼びしております」
紹介された男は、テレビホープによる学生排除宣言の際に同席し、来年の選挙にも立候補予定の――TRKプロデューサーの実の父親その人。拍手で迎えられるような空気ではなく、その表情にも笑みはない。真剣な面持ちのまま、司会と共に並び立った。
「先程、お母様には酷な映像をお見せしてしまい、こちらとしても大変心苦しく思っております」
と一応の同情を示したところで。
「しかし、これは氷山の一角。このような問題が日本各地でいまも起きているのです」
先程児童ポルノを写していた大型モニタに、今度は折れ線グラフが表示された。全国の一〇代の性犯罪件数の推移――右側に大きく空きがあり、左側からきれいに右肩下がりの線が表示されている。始点を指し示しているのは『性犯罪に対する規制の強化』と書かれた吹き出し。ゆえに、これがどの期間を示すか、知る者であればよく知っていた。ちょうど『歌舞伎町クライシス』が起こってから、解放運動が起きる“数年前”までだと。
男は、グラフを指し示しながら淡々と説明していく。
「かつて、先人たちはこの問題に立ち向かい、子供たちに降りかかる悲劇を水際で封じ込めようと尽力しておりました」
『クライシス』と呼ばれるその事件を、まさに美談かのように語るが、それによって起きた副作用について決して触れることはない。
「近年まで、このように犯罪件数は下り傾向にあったのです。このままいけば、ほぼゼロといえる低水準に押さえられていたはずです」
ここで表示されるのは理想値と称した下り坂の継続。だが、現実はそううまくいくことはない。
「しかし、ここでとある“事件”が勃発したのです」
グラフ上部に表示されたのは、トゲトゲ楕円の禍々しい吹き出しに『自己責任論の台頭』――だが、始点と異なり、具体的な位置を示していない。これには理由があった。
「皆様も御存知の通り、利益主義の者たちにより規制が解禁されたことで――」
空いていた右側にグラフがニョキニョキと表示される。減少していた犯罪件数が、逆に上向きに伸びていく様子が。
「すべて台無しになってしまいました……ッ!」
会場中が落胆するような『えぇ~……』というため息が入る。だが、実際のところは順序が逆だ。犯罪件数が激増した理由は、それまで水面下に潜っていた事件が一気に表面化したため。その結果として起こったのが『自己責任論の台頭』である。
それでも番組では、誤った仮定のもと、誤った議論が進められていた。挙句の果てには、二十世紀の風俗まで。
「――さて、二十世紀が如何に女性にとって暗黒時代だったかご覧いただきましたが……なんと、このような違法行為が超法規的に認められている地域があるのです。それこそが――」
画面に映し出されるのは――新歌舞伎町のゲート。
この街では小競り合いが耐えない。その様子をイメージ映像として流している。中には、スタッフが仕込んだものさえもあった。
「性犯罪だけでなく、暴力事件、詐欺事件の温床になっており、女性がひとりで出歩くことすら叶わないと言われる日本随一の暗黒街です」
多少の誇張はあれども、この街の治安が悪いことには違いない。だが。
「にも関わらず、ここでは何と、年間数千人の女性たちが就労“させられている”のです」
これは台本通りである。ゆえに司会からの合いの手も台本通りに。
「つまり、この街には番組冒頭で紹介されたような被害者が何千人もいる、と」
わざとらしいミスリードだが、自称専門家は肯定も否定もせずに話を先に進めていく。
「芸能界では、当然そのような行為は禁止され、警察の手も及びます。が、この街ではそれが公認されているのです。信じられますか!?」
番組タイトルは『子供を貪るテレビ業界の闇を暴く』だったはずだ。が、この業界にそのような自浄など期待できるはずがない。結局、自罰を掲げた他罰――新歌舞伎町を矢面に立たせるための構成だった。
「女子にとって危険であるということは、確固たる現実としてあります。そのような存在を……未来の子供たちへ残したままにしておくなど、責任ある大人として恥ずかしいとは思いませんか!?」
この手の人々が“自分の理想とする子供像”を都合よく持ち出すことは、ここ百年以上まったく変わっていない。
「新歌舞伎町に囚われた女性たちを救い出す……それこそが政治の役割ではないでしょうか……ッ!」
お願いします! お願いします! ――雛壇からもそんな涙声が上がった。
そして、ダメ押しといわんばかりに。
「この街には、未だにストリップ劇場などというものが残っており、そこで何人もの女性たちが裸にされ、利用されているのです。芸能界を追われたり、夢を見るあまり道を外れた少女たちが」
何故ストリップ劇場が矢面に挙げられたのか――それは――ストリップ劇場は唯一であり――その他無数に営業しているキャバクラやソープランドを批判の対象外とするため。そして何より、ただ一軒だけが残された風前の灯であり、抵抗するほどの組織力を持たないため――
この番組は深夜放送だったにも関わらず、大手動画配信サイトによって公式にアーカイブされ、いつでも自由に見ることができた。そのため、数日の間に恐ろしい速度で拡散していったのである。
***
当然、意図的に劇場を貶めるような表現について、事務所側も正式に抗議した。が、世間の流れを覆すことはできそうにない。誤った数値、恣意的なグラフ――正しい情報はカウンターとして提示されているが、そのような客観的なデータより主観的な印象を優先する人間の方が多数派を占める。それだけ、自己責任論に対して良くない印象を持っている人が多いということだ。そこに正当性や合理性はない。“自分が不愉快と感じること”を“社会的大義”を掲げて排除しようとする――それはパラノイア刊『表現の自由を取り戻すまで』にも記されていた。現代に至るまで、何度も繰り返されてきたこととして。
攻めるときは一斉に、全力で――これは偶発的な“発火”などではなく、政治を伴う組織的な“火攻め”に他ならない。TRK劇場では、女のコたちが酷い辱めを受けている――そのイメージの悪化は日々の公演を直撃していた。
愚痴と不満の渦巻く最悪の空気の中で終了したライブ直後の控室にて――
「……おねーちゃんだって、みんなとぎゅーってしたいのに……」
そもそもの発案者である朱美だからこそ、本人が最も落胆している。
「み、皆さん……すいません、私……何も力になれなくて……」
裸の楽屋裏でジャージを着込んでいるのは、島門佑衣――先月加入したばかりの新人である。しかし、まだ立場は研修生――あれからレッスンには参加してみたが、どうしても裸になると挙動が止まってしまう。本人曰く、頭が真っ白になってしまって、とのこと。この欠点を克服するために、今日もステージを見学していた。
だが、佑衣は――いまはメンバーでも、TRK創立当時からのファンである。このようなライブは見ているだけでとてもつらい。
その想いを汲んで、糸織は励まそうとする佑衣を逆に励ます。
「やれやれ、あんさんもエラいときに来たもんやなぁ」
ノリのよいステージであれば、固まった佑衣をイジリ倒してやればよい。が、昨今の客層は女子の痴態ばかりを望んでいる。これではマイクパフォーマンスの甲斐もない。
いま、会場は荒れている。ゆえに、何か策が必要だ。
「にしても、困りますたなぁ。抱っこが仲良しにつながらんってのも」
花子ははぐサー前後の劇場を知っている。ここまで上手く機能していただけに、むしろこの急変を不思議に感じているようだ。
「そもそもな、はぐサーがマナー向上につながらんような客ばっか来とる、ってとこが問題やで」
糸織は客層自体が変化してきていることを懸念している。やはり、離れてしまった紳士たる本当のファンたちが安心して観覧できる環境を取り戻すのが先決か。
それは大前提だが、目下の傾向として。
「やっぱり……」
と、慧が話に加わる。学生服を着ているが、通学用のブレザーではなく舞台用セーラーだ。過度の装飾はなく、少しリボンが派手な程度に抑えられている。
「……鬼霞神関がステージに出てる回が危ういんじゃない?」
その四股名を本人に向けて呼ぶ度胸は、さすがの慧にもない。いまはその鬼秘書が簡易ベッドで泥酔しているため口にできる。メンバー内からさえ恐れられている霞の畏怖は、ファンたちの間でも有名だ。迷惑行為によって連行された際、警察に掴まった方がまだマシだった、と憔悴しきっていたという噂も。だからこそ、霞がステージ上でメンバーに絡むだけ絡み、ぶっ倒れて担ぎ出されたのを見て、いまなら、とトリガーを引かせてしまったのかもしれない。
あの深夜番組を機に、『Schooling High!?』を始めとして、若さを全面に押し出したユニットの入りが特に減っている。その上、今日は開場時に挙動不審な来客も確認されていた。もし、学生服の女のコたちがステージで脱いでいくところを報道されては、どのような濡れ衣を着せられるかわからない。
よって、急遽出演者を変更し、その煽りで霞本人も出演することとなった。が、彼女の舞台に段取りなどない。今日も酔っ払いが豪快に“粗相”をやらかし――会場は大いに盛り上がったが――そもそも、その盗撮犯の目的は学生ユニットではなかったのだろう。霞が退場していくのを見て、その隙にステージを盗撮しよう、と決行させてしまったのでは、というのが慧の推論だった。
そして桃は、これがこの劇場だけの問題ではないと実感している。
「やっぱり、学生は働くな、っておかしいよ! クラスでも、バイトクビになったコ、何人もいたもん」
可愛い仕事着――言い換えれば、若さや女性らしさを売りにしたデザイン――そのような制服で接客していた飲食店まで、学生と思われる従業員がいかがわしい被害に遭っているのではないか――という心配を装ったクレーム対応に追われている。そのため、桃の級友たちも急にシフトを入れてもらえなくなったと嘆いていた。さらには、地味でユニセックスな衣替えを余儀なくされている店舗もあるらしい。
だが、それが許されない業種もある。その最たるものは――
「…………」
その状況は、しとれの不安以上だったらしい。もはや、スターの不在どころではなく、メイド服自体が若い性の搾取と見做され批判の対象になっている。これはもはや新歌舞伎町だけの問題ではない。だからこそ、晴恵は立ち上がる。
「みんなで訴えませんか? これは我々にとっての特訓であるとッ!」
「特訓にしとるんはあんさんだけやっ!」
と即座にツッコミは入れた上で。
「……それにな、当事者がゆってもダメやねん、こーゆーことは」
マスクの下からでも納得していないのが明らかなので、優が冷徹に現実を付け加える。
「その発言を事務所に強要されてないって誰が証明してくれるのかしら?」
「強要!? むむむ……それは……この脱ぎっぷりで!」
特訓のおかげでこうして人前で裸にもなれるようになった、と晴恵は言いたいらしい。が、言うだけ言ってみたものの、これは無理筋か、と晴恵は自分で消沈する。
結局、打開策はいまも見出だせない。だが、彼女たちにはそれ以前に切羽詰まった事情があった。同性の前で脱いだままでいる趣味のない操はいつの間にか着衣を済ませ、改めて議論の輪に加わる。
「もういっこの方も仕事なくてよー。正直、生活苦しいぜ」
天然カラーズ傘下の『ハニートラップ』とも掛け持ちしている操だが、どちらも似たような状況らしい。それは、今回外されてしまった学生陣たちも。
「しおりんー、あたしカラオケの方、もっともっとシフト入れていいからねー」
「ボクもボクもー」
今日は急な対応だったため『Schooling Hight!?』のメンバーにも正規のギャラが支払われたが、翌日からはスケジュール自体が変更されることだろう。花子は近所のスーパーでのパートを始め、夜白も元の風俗店への出勤を再開していた。このままでは、この劇場で生計を成り立たせることができなくなる。そうなったとき――“劇場の外”で稼げる者から出ていくのが必定か。
「…………」
さすがに直接目を向けることはない。それでも未兎は、皆々からの視線を強く感じている。それは、彼女が歌手として稼いだ資産を保有しているからではない。松塚芸能からの圧力がなくなり、うちの事務所から再デビューしないか――そんな誘いを彼女は数多に受けている。中にはわざわざはぐサーに現れ、ハグせずに名刺を差し出す者も。つまり、この劇場が倒産しても、仕事はいくらでもあるということだ。
とはいえ、未兎にそのような意思はない。TRKに対する恩義だけでなく、ここでの舞台も気に入っている。だが、それを当事者の口から釈明しても説得力が薄い。ゆえに、皆の安心のために責任者が自ら動いた。
「問題ありません。皆さんを支えるだけの資金はありますので」
しかし、いつまでも続けられるとは誰も思っていない。この状況が終わらなければ、いずれは――
いま、この界隈はどこもかしこもテレビホープの対応に追われている。そして――プロデューサーの携帯端末が着信に震えた。その発信者もまた、同じ苦境に立たされていたのである。
***
天堂コンテンツ――かつて霞が在籍していたイベント運営会社――いまも、業務委託という形で関わってはいるが――その頃の上司にあたる山田部長が、TRKの事務所に訪れた。あまり会いたくない顔を引き連れて。
「いやーっ、お互い大変なことになりましたなぁーっ!」
天然カラーズ社長・相馬智之――つい先月プロデューサーを自社に呼び出し、一方的な罵声を浴びせていたとは思えない清々しい笑顔である。とはいえ、山田女史はそのようないざこざを知る由もない。
「高林“さん”の方から事情は聞いているとは思いますが……」
その敬称を聞いて、霞は満足そうにメガネのブリッジを正す。一応彼女は、天堂コンテンツにも所属はしているが、不祥事を起こしたとはいえ実質解雇された身だ。そんな相手から厚顔にも自社に戻ってきてほしいと請われ、仕方なく従事している。あくまで本職はTRK劇場の秘書であり、古巣の方は片手間として。ゆえに、山田女史からさもうちの社員ですと言わんばかりに敬称を略されては、霞の機嫌を損ねてしまったことだろう。山田部長は霞に頼り切りだったこともあり、その気質はそれなりに理解しているようだ。
さて。
あらましは山田女史のいうとおり、プロデューサーも霞から聞いている。事の中心にあるのは湘南で計画されているイベントホール建設計画だ。海の見えるロケーションに広大な敷地――現在も各地主と交渉中ではあるが、ようやく目処が立ってきた。その追い風とすべく誘致されたのが『サザン・トライアングル』――三人組のガールズバンドを三組集めて三曲ずつ演奏する毎年恒例のミニライブ――それを、海水浴場としてのシーズンを終えた浜辺で行おうというものだ。音楽活動の素晴らしさを地元民に肌で感じてもらう目論見で。
だが、しかし。
先日の『テレビホープ・学生締め出し宣言』を受けて、地主の一部が渋り始めたらしい。加えて、『芸能界の闇を暴く』――あの深夜番組よって、芸能関係に対する風当たりは強くなっていた。出演者たちもその影響により――というのは表向きの事情。実際のところは、テレビホープとコネクションの強い芸能事務所による圧力――在学中に出演した場合、デビューの話は取り消す――その結果、三組中、三十代のメンバーによって構成された一組を残して二組が直前で出演辞退。この辞退のタイミングさえも、事務所から指示されたものだった。
イベント開催は十月上旬――水着を推すとなると、気候的にも後ろ倒しは難しい。そのため、新たな参加者を募れる期間も短く、しかも芸能界は敵に回っている。そこで――ヌードとはいえMVを多数制作している天然カラーズが出演依頼を求められたのだった。
親会社のブラウンキャップも、テレビホープの所業に必死で対策している最中である。だからこそ、恩を売る意味でも相馬社長は全面的に協力することにした。それでも、真っ当に演奏できる女のコを集められたのは一組分だけ。
「傘下同士の力関係や、本人たちの共演NGもありますからなぁー」
霞はこの社長に対して良い印象がない。だからこそ、それを表向きの拙い言い訳として受け取る。
「状況が状況ですし、共演NGなどと言っている場合ではないのでは?」
事務所の命令で今回ばかりは組ませてしまえばいい、というのが霞の言い分だ。しかし。
「何と酷いことをおっしゃる!」
相馬氏はわざとらしく頭を振った。
「明るく楽しく女のコ至上主義! それが、我が天然カラーズですからっ!」
“我が”天然カラーズをTRKに売り飛ばそうとしていた者の言葉とは思えず、これには霞だけでなくプロデューサーも鼻白む。ふたりからの冷たい反応を受けて、相馬社長は咳払いで仕切り直した。
「……誤解があるようですが、我が社は、女のコの嫌がることを強要することは一切ありませんよ。女のコの望むことを一方的に断ることはありますがね」
降板はさせるし、解雇もする。禁止事項は数あれど、撮影の無理強いはしない――現実として、相馬氏はファンムードのやり方に反感を持っていたひとりだ。もちろん、今世紀初頭に性風俗に関する法律が厳格化し、女子側が訴えれば事務所側は有無をいわさず敗訴する仕組みができあがっていたという事情はある。だが、相馬社長も相馬社長なりに、所属するキャストたちを大切にしてきたようだ。
「……だからこそ、先日の番組には、事務所を上げて反対意見を表明しております。もっとも、我々ではなく茶……ブラウンキャップ名義でですがね」
『茶豚』という蔑称を口にしそうになったが、相馬社長は危ういところで言い留める。
「弊社としても、あの……何といいましたっけ、今度の選挙に立候補する、と言っておられました方」
ありふれた苗字であったため記憶に残らず、その立候補予定者が目の前にいる青年の肉親だということには気づいていないらしい。
「やれやれ……新歌舞伎町から女性労働者を排除する……などと言われては、風俗どころか、飲食物販さえも立ち行かなくなってしまいますよ」
これには、山田部長も同意している。だが。
「しかも、女子ではなく、女性、だなんて」
「!」
プロデューサーもあの番組はアーカイブで確認している。しかし、そこまでは深く捉えていなかった。
「もし、うちのオフィスが隣の区画のビルに入っていたら、私も『救出』とやらの対象になっていたんでしょうかねぇ……」
天堂コンテンツの事務所自体は、ギリギリ新歌舞伎町には含まれない。だが、そのような際どいところに立たされていたからこそ、隣の区画に勤めている女性たちのことを思い、胸を痛めているのだろう。
「ったく、女性は家に入ってろ、とでも言いたいんでしょうかね! どっちが二十世紀脳かわかったものじゃありませんよ」
相馬社長の悪態に、プロデューサーの中に古い記憶がフラッシュバックする。善帆の持参した漫画を読んだ後だったからかもしれない。
『子供もできたのだし、育児に専念した方が家庭のためでは――』
まだこの街に父親の事務所が健在だった頃、そこには母親以外の女性の従業員がいなかったということもない。が、その数少ない女性職員に、父は退職を勧めていた。自分の妻が同じ事務所で働いているというのに。
規制とは、一点を決壊させた後、次々と隣接対象へと波及させていくもの。だが今回は、子供を保護する目的であるにも関わらず、見据えた先は『男児』ではなく『女性』である。
いま、息子には父親の目論見がはっきりと見えた。この新歌舞伎町を皮切りに、女性から労働を奪おうとしている――そして、その動機もまた――
とはいえ、いまそれを口にしたところで益する者は誰もいない。いずれにせよ、この流れは止めなくてはならないのだ。アイドルという存在を守るためにも。
***
サザン・トライアングル――in 湘南――浜辺での開催ということで、水着での出演が求められている。その時点で、音楽だけでなくパフォーマンスも重視されていることは明らかであり、よりアイドル的な趣向といえた。
そんな事情もあり、最年長ベテランバンド『ハプニングゾーン』は、若手のビキニに対して本気の音楽を魅せていく意気込みで臨んでいるらしい。ゆえに、ここで糸織やしとれなどの実力派を選出しては、残ってくれたハプニングゾーンの顔に泥を塗ることになる。
ゆえに、歌唱力はそこそこに。だからこそ、“彼女”に白羽の矢が立った。
「あ、ありがとうございます! 私……頑張りますから……っ!」
佑衣はまだストリッパーとして完成していない。ゆえに、今回のような“脱がない”イベントに挑戦してみることで、解決の糸口を見出そうという目的もある。加えて、あまりストリッパーとして顔が売れていない方がいいだろう、という思惑もあった。規制派たちをあまり刺激しないためにも。
ここまでは良い。
だが、残りのふたりが問題だ。サザン・トライアングルとはそもそも、ガールズバンドによるイベントと銘打たれている。ハプニングゾーンはもちろん、天然カラーズが揃えた一組についても楽器経験者によって組まれていた。ここで、生演奏を披露できないグループに出演させては、利権関係者の心証を損なうかもしれない。
そこで、是が非でも演奏のできる者を募る必要がある。しかも、芸能界と敵対しても構わない、というルカ――李冴のような人物を。そうでなければ、真っ先にミトックスのふたりに声をかけていたところだ。
ゆえに、ここに近道はなく、結局は人海戦術しかない。
「うーん……メンズじゃダメ……なんだよね」
「あ、ドラムうまい。この人どーだろ?」
控室には、一〇人以上のメンバーが詰めかけている。基本的にネットで探すのだから、わざわざ同室に集う必要はまったくない。が、何となくのノリで集まるのがこのユニットの特徴でもある。
だが、“彼女”はTRKのメンバーではない。
「……で、“にゃー”は何故ここに呼び出されてるにゃ……?」
ビクビク怯えきっているあんにゃに向けて、霞は冷たい視線で見下ろす。
「この状況を見ればわかるでしょう? 猫の手も借りたいのよ」
「にゃっ!」
うまいこと言った――そんなドヤ顔が霞の中に見えたため、反射的に冷やかしてやりたくなったあんにゃだったが――隣から糸織に肘で小突かれて危ういところで思い留まった。もし口に出していれば、さらなる恐怖を味わわされていたことだろう。
実際のところ、あんにゃは生粋のボーカルだ。そして、唄わせればその実力により『ハプニングゾーン』以上の歌声を披露してしまうことだろう。なので、直接参加させることが目的ではない。
「貴女、歌い手時代の人脈があるのでしょう?」
「そんにゃこと言われても……ッ!」
まさか人を紹介しろと言われるとは思わなかった。一応、同性の知り合いもいなくはないが、元々際どい衣装と巨乳を誇示する売り方で活動してきている。男性であればそれなりに紹介できるが、女性限定となると直接は難しい。
「そ、そーゆーことは、そこの女狐のほーが……」
「ウチもウチで当たっとるっちゅーねん」
やはり、あんにゃは霞に弱い。それは、糸織が付き添わねば真っ当に反論できないほど。それを承知の上で、霞は高圧的にあんにゃに要求する。
「ということで、あんにゃさん、貴女は三日以内に楽器できる人探してきて」
「無茶言うにゃ!」
それは霞自身も自覚しているのだろう。それでも引くつもりはない。
「できなかったら、ギャグボール噛ませて唄えないようにしたうえで、ギター持たせてステージに立たせるから。こんな感じで」
「にゃあああああああッ!?」
サンプルとして提示されたルミノはシュコーシュコーと息を吹きながら、どことなく嬉しそうに瞳をうっとりさせている。それは、目の前の黒猫がドン引きしているからか。
あんにゃは糸織と異なり、そのようなコメディリリーフを好まない。本気で嫌がっているかつての好敵手に、糸織はぽんと肩を叩く。
「まー……死物狂いで探しぃ」
「アンタ、これから“にゃー”と仲良くやってこーって間柄じゃにゃかったにゃ!?」
涙目のあんにゃを糸織は冷たく突き放す。
「それはそれ、これはこれや」
内輪であっても、秘書様には逆らえない。
「話は以上よ。何か質問は?」
言葉とは裏腹に質問を許さない霞の眼差しと、残念そうな糸織のため息――あんにゃは観念して肩を落とす。
「にゃ、にゃぁ……」
あまりに哀れだったのか――心配そうに様子を見ていた春奈がこの一団に声をかける。
「で、では、私はお客様のお見送りに……」
「いつもありがとにゃ。はるにゃんはいい子にゃぁ……」
老婆さながらに背中を丸め、春奈に付き添われてあんにゃは退室していく。
さて。
ボーカル担当が決まり、奏者の目処も立った――ということにして、霞は早速楽曲の選出やらスケジュールの調整に取りかかる。
「ほんじゃ、ウチも弾いてみた巡りに加わるかいなー」
控室の端にあるウレタンマット――通称・お説教ゾーンに糸織はスマホ片手にドスンと座る。プロデューサーも自らメンバーたちと一緒になって探し始めようとしていた。が、そこに。
「店長、少しお時間よろしいでしょうか」
しとれが小声で話しかけてくる。ただの雑談という雰囲気ではなさそうだ。プロデューサーは小さく頷き、ふたりでそっと廊下に出る。そして、未だ開場前のロビーへとやってきた。開場前の空気は静かに冷たく、しとれの声も鋭く響く。
「今回の件……やはり、大変なようですね」
「ええ、はい」
そのようなことであれば、わざわざこの場に呼び出す必要はない。それは、しとれがそれ以上のことを汲み取っていたからこそ。
「もしや、今回の件は……女性の労働に切り込んだものでは」
「!」
プロデューサーの危惧は家庭の事情を加味した憶測の域を出ない。なのに、それを知らないしとれが同じ疑いを持つに至ったことに、彼は驚かされた。とはいえ、この場で肯定することもできない。
「……何故そう思うのですか?」
プロデューサーはしとれの意図を尋ねる。
「イベントにて購入いたしました『男女にまつわる育児と仕事』という本に、そのような記述がありまして」
それは、彼とは異なるアプローチだった。
「危険であることを理由に男性のみとしていた業種も、時代と共に女性にも門戸が開かれていった……これは、その流れに逆行するように見えるのです」
「…………」
それはむしろ、彼自身の推測を補強する説でもある。だが、しとれの本題はここからだ。この状況の先に懸念があるからこそ。
「もし、そのように推し進められれば……メイド喫茶という文化は……!」
男女の雇用が不均等になれば、男のための職、女のための職、と切り分けられることになる。そして、女のための職はあくまで男の収入を補うもの、として捉えられ、不当に低賃金に押さえられるのは明らかだ。そうすれば、女性を中心としたメイド喫茶はもはや仕事として成り立たない。
ゆえに、彼はしとれに問う。持論のことはさておいて。
「戻りたいのですね。メイド喫茶に」
一度は故郷に背を向けた。それでも、故郷はやはり故郷である。
そう、故郷はあくまで故郷であり――
「……いいえ、戻るのではありません。ただ……困ったときは、お互い様かと」
しとれはすでに、TRKのメンバーである。劇場のアイドルとして、古き仲間たちの力になりたい――そして、力を貸してもほしい――そのような思いで。
「お店の方には、音楽関係に強いメイドもおります。彼女たちに楽器経験者をあたってもらうこともできるでしょう」
あのメイド長が現役の頃からメイドライブを行っていた店舗である。音楽にはとりわけ力を入れており――その人脈は、TRKとしても心強い。
「……なるほど、それは妙案ね」
そう相槌を打つのはプロデューサーではない。
「か、霞さん!?」
しとれがプロデューサーを連れて出ていったところを見て、密かに追ってきたようだ。聞き耳自体は褒められたことではない。だが、彼女はスケジュールを管理する秘書である。
「めいんでぃっしゅにMMW……正直、貴女に穴を空けられると困るのだけど」
学生勢の出演が低迷している現在は特に。これから、さらに難しい調整に追われることだろう。
「す、すいません……」
しとれは咄嗟に謝るが、霞が意に介している様子はない。
「構わないわよ。大事の前の小事……いえ、大事の後の、と称すべきかしら」
しかし、プロデューサーの視点はもっと先へ。
「いえ、イベントも大事に向き合うための第一歩です」
サザン・トライアングルを成功させることが終着点ではない。すべては、アイドルという存在を救うため。
「ならば、社長からも許可をいただける、ということでよろしいですね」
「当然です」
イベントのため――アイドルのため――様々な想いはある。だが、何よりも、彼は女のコの意思を尊重したい。メイドとして輝く、彼女のためにも。
話はまとまったとはいえ、いまは極めて不安定な情勢だ。
「とはいえ……状況が状況だからね。掛け持ちの件はしばらく伏せておいてくれる?」
「はい……ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
決して、しとれは低迷していく劇場の未来に悲観してメイド喫茶に戻ろうとしているのではない。それは――ここのステージで魅せる<スポットライト>で確信している。ストリップの舞台で輝き続ける限り、彼女の心が離れることはないだろう。だから、プロデューサーに不安はない。そして、彼の見る目を信じる霞も同じ気持ちだ。深々と頭を下げるしとれに、霞は優しく微笑みかける。
「まあ、いいわ。貴女の着目点、悪くないわよ」
「え?」
「女性の労働環境に切り込んでくるって話」
しとれに続いて、霞もまたプロデューサーと同じ懸念を抱いていたようだ。
「業種ではなく地域にターゲットを定めてるあたり、警戒はしておいた方がいいでしょうね。その前提であれば、街の外側ともつながりは作っておいた方がいい」
「ありがとうございます……」
もし、テレビホープの思惑によってこの街が失業者で溢れたとき、別の職場を斡旋することで、いざというときの味方を作ることもできるかもしれない――それが霞の狙いだった。
が、ここまで別の人間が同じ疑惑を持つのであれば、それはもう疑惑の域を超えている。その前提であれば別業種との間で共同戦線を張れるかもしれない。それこそ、日本中を巻き込んで。
だが――
できれば、そのような大事に、彼はしたくはなかった。あれでも――縁は切れていたとしても――一応の、あの男のひとり息子として。
三人揃って部屋に戻っては何かあったのかと疑われる。そこで、一先ずプロデューサーから。しとれと霞はそのままロビーに残り、今後の出演についてもう少し話を詰めていくらしい。
プロデューサーが控室の扉を開くと、桃と糸織が揃って駆け寄ってくる。
「あ、Pクン、いつの間に外出てたん?」
「それなりにイケそうなメンツが揃ったでー」
人数が人数だけに、目ぼしい奏者は見繕い終わったらしい。楽器を演奏してネットで公開している動画の中で良さそうな人たちをピックアップしたようだ。
「ありがとうございます」
糸織や未兎が選定に加わっているのだから、実力は問題ないのだろう。その耳を信用して、プロデューサーはまとめてくれたリストから一つひとつ拝聴してみることにした。
とはいえ、配信サイト上には簡単な情報しかない。それを注釈として、未兎が付け加える。
「請けてくれるかは未知数だけどね」
デビューを目指している者――そうでなくとも、わざわざ芸能界と敵対したい人はあまりいない。ゆえに、楽器の腕は見込んでも、そこから先には新たな関門が待ち構えていることだろう。
ギター、ドラム、キーボード――中にはフルートやバイオリン奏者もいた。とにかく、楽器はまっとうに演奏できればそれだけで盛り上がる。今回はボーカルがやや頼りないだけに、実力派を揃えてくれたらしい。
「なるほど、なるほど……うん」
だが、誰に対しても平等に深く理解を示しているプロデューサーに、周囲は少々やきもきしている。せっかくこれだけ集めたのに、全員に等しく頷いていては、くじで決めるのと変わらない。
だが、その中で。
「!」
プロデューサーの顔つきが変わった。メンバーたちもこの人で決まりだと確信する。その者を見つけたのは糸織だった。
「おー、お目が高いなぁ。けど、ソイツはなかなか難儀やでぇ」
「けど、今回はむしろ打ってつけじゃない?」
桃も事情は聞いているらしい。どうやら、腕はあるがとっつきにくいところがあるようだ。
しかし、歩はプロデューサーの目つきがいつもの“アレ”であると気づく。念のために釘を刺しておきたいが、着衣の歩は影が薄い。このような賑やかな場ではどうにも話しかけるタイミングを見出だせず――あとで霞さんに伝えておくことにした。
彼は、そんな歩からの視線に気づいていない。すでに興奮に滾るプロデューサーの顔になっている。
「この方に連絡を! いますぐ……っ!」
それはあくまでライブの出演依頼であって、TRKへのスカウトではない――だが、プロデューサーの目にはしっかりと焼きついている。手元しか映っていないはずの画面から放たれるまばゆいばかりの<スポットライト>が。
***
こんなときは、新宿駅ビルの喫茶店にて。ただし、どこに誰の目があるかわからないので、個室の用意がある店舗を選んでいる。本番当日も迫っているので、面談の場は早急に。平日であるため、学校の終わった後の夜間にご足労を願った。
「はじめまして、MI-YA-COと申します」
毛先が外側に少し跳ねた黒い髪は肩にかかるほど。下がり眉にぼんやりした瞳はどこか頼りなさそうだが、これでもれっきとした音大生。これまで様々な実演奏をネットに上げてきたが、コラボやイベントなどの誘いはすべて断ってきたという。顔出しもなく、映すのは常に鍵盤上だけ。これは、交渉の席に招くまでも一苦労するだろうとプロデューサーは覚悟していたが、驚くほどにスムースに相対することができた。
相手が女性ということもあり、今回も霞が同席している。そして、密かに歩からの助言も受けていた。もしかすると、プロデューサーは、イベントとは無関係に、メンバーとしてスカウトしようとしているかもしれない――霞に、プロデューサーの心情の機微はわからないが、楽器経験者がメンバーに加わるのであれば、劇場としては歓迎できる。だが、すべてはサザン・トライアングルを成功させた上でのこと。プロデューサーが脱線するようであれば、即座に抑えなくてはならない。
なので、やはり話を切り出すのは秘書の霞から。
「事情はメールにてお伝えしたとおりとなります」
純粋に叩きやすいからか、それとも、見知った仲ゆえの嫌悪か――やはり、局長側は明らかにTRK事務所を目の敵にしている。だからこそ、そこに協力する者までも巻き込んで吊るし上げようとしているが――アンダードッグ効果というべきか――表立ってはないものの、行き過ぎた批判から擁護しようとする者もちらほらと現れており、ネット上では何かと物議を醸していた。
そんな渦中にある事務所から、話を聞いてほしいと依頼を受けたのである。これまで依頼をすべて断ってきたMI-YA-COに対しても、それなりに興味を引くことができたようだ。実際、本題に入る前からどこかソワソワした様子を見せている。
「あ、あのー……ここでの話、SNSとかに書いても……」
その目的が、善意とも悪意とも取れず――純粋な好奇心のようにも見える。が、どんな発言さえも揚げ足を取られかねないのが現状だ。
「今度のイベントが終わった後であれば。ただし、それまではこの件について一切の発信はお控え下さい」
口止めすればしたで、それ自体が火種になりかねない。ゆえに、霞にとってのこれが最大の譲歩である。
TRK側としては、できれば彼女には味方になってもらいたい。だが、騙し討ちのような形で組ませては足元を掬われてしまう。なので、すべてを正直に伝えた上で、劇場とは関係なく、出演を依頼するのは別のイベントであると予め連絡しておいた。が、事務所を通すことには違いない。
「TRK、というのは、そのー……舞台の上で、エッチなことをする音楽ユニット、と聞きましたけど……」
テレビ局の言い分では『無理矢理に』――だが、その当事者の前なので、MI-YA-COはあえてその部分を省いた。
それでも、霞は誤解のないようより正確に。
「ステージ上で裸になるパフォーマンスを、楽曲と共に公演させていただいております」
今後は、それ以上の催しの計画もある。が、いまのところは裸になるまでだ。いまでも、糸織が得意とする貧乳コントや李冴による寸劇はある。だが、それらは今回の議題とすべきではない。
「今回はサザン・トライアングルというイベントに出演していただきたい件でして、こちらは水着にこそなりますが、それ以上のことはありません」
文面にて説明したことを霞は再度繰り返す。そして、それはMI-YA-COも既知のことだった。
「はい、『サザン』については毎年楽しみにしております」
ゆえに、懸念は別のところにある。
「けど……今回の話は、私にTRKのメンバーとして出演してほしい、ということでしょうか」
最大限に警戒するのも無理はない。外部の協力者として一度だけ出演したつもりが、いつの間にかメンバーの一員に組み込まれて劇場出演を強要されても困る。
だが、隣の男は誠実であり、嘘をつけない。その気配を察したからこそ――
「んぐ……っ」
何か言おうとしたプロデューサーは小さく声を詰まらせる。その脇腹には秘書の鋭い肘がのめり込んでいた。そして、歩の考えは正しかったと確信する。明らかにこの男は、いま目の前の女性を口説こうとしていた。裸になる舞台にも上がってほしい、と。
だが――
霞は、杏佳と向き合ったときのことを思い出す。この男の目利きは確かであり――その場合、“TRKの舞台に誘った方がうまくいく”――?
ゆえに。
「……社長のご意向をお伺いしても?」
一度攻撃して止めておきながら、自身の言葉の続きを促されたことにプロデューサーは少し驚いた。が、才能の輝きを前にして、小さなことは気にしない。
「……できれば、TRKのメンバーとして……というのが本音ではあります」
普段、女性に対しては過度に控えめなこの男が言い切った。やはり、目の前の女性にはその種の才能があるのだろう。そもそも――そうでなければ、このような対話の場に訪れること自体忌避するはずだ。実際、裸になれと要求されているに等しいこの状況で、露骨に嫌な顔はしていない。ただ、視線を左右に忙しなく――困惑している様子ではあった。
とはいえ、それはまだ後のこと。
「本音としてはさておき、建前というものはありますので」
眼鏡を直し、霞は改めて向き合う。
「我々としては、何としても直近のサザン・トライアングルを成功させなくてはなりません。先ずは、それがすべてです」
MI-YA-COは杏佳のようにデビューを強く望んでいるわけではない。仮に素質があったとしても、悪印象を与えて説得に時間をかけていてはイベントが終わってしまう。なので、ここで余計な話はすべきではない。それ以上の言葉は重ならず、テーブル上には沈黙が流れる。
MI-YA-COは少し悩んだ末に。
「わかりました。ただ――」
直近一週間分の舞台の映像を見せてほしい、とのこと。それで、プロデューサーが創り出すステージの方向性を見極めたいのかもしれない。
MI-YA-COとしては、あとで送ってもらうつもりだった。しかし、秘書の動きはそれより速い。
「わかりました。すぐにご用意いたします」
その場でスマートフォンを取り出す。とにかくいまは時間が惜しい。
「……丘薙さん? 直近一週間分のステージを全部メディアに焼いてちょうだい。いますぐ。……はぐサーもよ。ええ、録ってるものはすべて」
短く指示を終えると、改めてMI-YA-COと向き合う。
「……ただし、貸し出すことはできませんので、この場でご確認いただけますでしょうか」
「えっ」
MI-YA-COが驚くのも当然か。しかし、この席は幸いにして個室である。多少落ち着かないが、周囲から覗かれる心配はない。
「先日も盗撮被害に遭ったばかりで……厳重に映像を管理せざるをえない状況をご理解下さい」
「そ、そうですね……はい……」
一般的にも、未兎の映像は知れ渡っている。ゆえに、仕方のない措置だとMI-YA-COも納得した。が、それなら数日分にすべきだったか、とも思う。そして、プロデューサーはそんな空気を読まない。
「一週間分“だけ”でよろしいのでしょうか……?」
この場で、と言っているのに、彼はもっと観てほしいと口にする。何故ならば、一週間前といえばちょうど具合が悪くなってきたころだからだ。できれば、もっと前から見てほしい。TRKの女のコたちが、最も輝いていた頃を。
しかし、霞はあえてその期間指定を再考することはない。
「構わないでしょう? 我々のステージは、常に最善を尽くしておりますから」
盗撮騒動があり、はぐはぐサービスが中止されてしまった回も含まれる。だが、部外者に恣意的なものを感じさせたくない。それに、MI-YA-COとて、例の件で話題になっているゆえ席に着いてくれている。事情を加味した上で観てもらいたい――霞はそう考えた。
「少々お待ちいただけますでしょうか。現在、用意させておりますので」
「は、はい……ありがとうございます……」
何やら慌ただしい様子ではあるが、確かに切羽詰まっている様子はMI-YA-COにも伝わってくる。空いた時間で、仮に請けてもらえるとした場合の段取りについて簡単に話し合うこととなった。やはり、あまり目立ちたくないようで、声も出したくないらしい。今回はあくまで、伴奏だけ。名前も出さないでほしいとのこと。これらについて、事務所側が断る理由はない。今回の歌唱は上手すぎても良くないのである。ゆえに、マイクを装着するのはボーカル担当の佑衣だけ――この点については合意できた。
そして、三十分ほど経った後――依頼を受けたのは糸織だったが、彼女が直接届けに来ることはない。お使い役として任命されたのは、何かと頼まれやすい春奈だった。
「こ、こちらが、映像データとなりますけど……」
「ええ、ありがとう」
霞はデータを受け取ると、持参していたノート端末にディスクを差し込む。用件は済んだが、黙って立ち去って良いものかと春奈は迷っていた。
なので、来賓に向けてペコリと頭を下げる。
「わ、私……沖道春奈といいまして……」
だが、春奈の装いがいつもの学生服だったからか、MI-YA-COは少し戸惑っていた。
「もしかして……あなたも……?」
小間使いのアルバイト、ということでなければ。
「……は、はい……っ」
少し頬を染めて、春奈は小さく頷いた。
「わ、私も頑張ってますので……是非観て下さいっ」
最近出番も減り、クラスの男子たちも足を運びづらいこの情勢を少し寂しく思っていた。恥じらいながらの健気な笑顔――傍からも、プロデューサーは確信する。この輝き――<スポットライト>は、MI-YA-COにも伝わっているだろう、と。
受け取った端末で、MI-YA-COは熱心に見入ってくれていた。ときには目を閉じて音楽に聴き入ることも。音楽活動としても、TRKが真剣であることは理解してもらえたはずだ。加えて、メンバーに直接会えたのも良かったのかもしれない――一応、霞も正式なメンバーのひとりではあるのだが。
早送りと巻き戻し、高速再生を駆使して一通り目を通した上で、MI-YA-COは結論を出す。
「一先ず……サザン・トライアングルについては……はい」
とはいえ、TRKとして加入するかは、その後に改めて、とのこと。この場において、申し分のない成果だといえる。
あとは、あんにゃ次第となった。
案山子としてステージに上げさせられるか、
それとも――
***
そして当日――季節は秋に差し掛かっているが、快晴――気温に関しては、砂浜の熱を加味すれば水着であっても申し分ない。入場フリーということもあり、近所の野次馬から往年のファンまで、数百人が比較的薄着で駆けつけている。
そんなライブ日和の日曜日に、“彼女”はやってきた。
「鮎河さんから頼まれてきた鷹池よ。ギターくらいなら弾けるわ」
そう名乗るその女性は――眼鏡のレンズを通しても和らがない眼光に長い髪――その身にまとう雰囲気は霞に近い。おそらく、年代も。服装もスーツにブラウスと瓜ふたつだ。あんにゃにとって、これはもはや前門の虎と後門の狼が並び立っているに等しい。一応、歌い手としてのキャラを通すべく、今日もゴスロリに猫耳だが、猫というより取り餅にかかった鼠のようなしょぼくれようである。
「ぶ、部長……一応音楽関係の場なんで、本名はちょっと……」
「なら、貴女も私を部長と呼ばないの。というか、私、貴女の芸名知らないし」
どうやら、音楽関係のつながりではなく、仕事関係での縁らしい。
「本日はよろしくお願いいたします」
プロデューサーたちとは初対面なので、先ずは名刺交換から。あからさまにオフィスからやってきました、という雰囲気なので、つつがなくやり取りが行われる。
「こちらこそ」
だが、鷹池女史の名刺をひと目見て、プロデューサーは思わず腰を引く。マツダプロダクション――それは、数ある芸能事務所のひとつ――テレビホープとも浅からぬ関係もあるはずだ――が――その社名の末尾に『システムズ』の文字が付く。マツダプロダクションシステムズ――つまるところ、芸能事務所の子会社のひとつということだろう。警戒を解く訳にはいかないが――差し向けられた刺客であれば、このように堂々と名乗るはずがない。
だが。
「まったく、何の縁かしらね」
鷹池女史はプロデューサーたちを見渡して、ゆっくりとため息をつく。それはまるで、自ら容疑の目を向けさせるような物言いだ。
「……と、言いますと?」
プロデューサーや霞どころか、同席していた佑衣までも警戒心を顕にしている。だが、鷹池氏自身に悪びれる様子はない。
「そうね、せっかくだからここは前例に倣って『パラノイア』の鷹池……とでも名乗っておきましょうか。そっちの名刺はないけれど。ごめんなさいね」
「っ!?」
その爆弾発言に、霞は驚きを隠せない。ルミノの話を聞いてから様々なゲームメーカーを調べてみたが、結局そのような名前の組織を発見することはできなかった。ところが逆にそこの社員と思われる人物が、こうして自ら出向いてきたのである。
「後ほど、お時間をいただけますでしょうか」
訊きたいことは山ほどある。だが。
「申し訳ないけど、こちらから提供できる情報はないわ。けれど……足掻きなさい」
鷹池女史は物騒なことを口走る。
「むしろ、私たちの方が貴方たちのことを知りたいの。だから、日々私たちから見られているつもりで、誠心誠意の善行を積むことね」
ずいぶん不遜な言い回しであるが、TRK側としては協力を仰いでいる立場である。無下に反論することはできない。
ただしそれは、鷹池女史に対してであって。
「御社の事情については了承しました。ところで――」
パラノイアの鷹池――その人物を連れてきた方に注目が集まる。
「い、いっ、いえ、“私”には何のことだか……」
糸織はおらず、霞どころか仕事の上司にまで睨まれは、さすがのあんにゃにも猫キャラを貫くだけの度胸は保てなかったらしい。
「けれど、『パラノイア』の側は貴女のことを知っているようだけど?」
『パラノイア』の関係者であったことを隠していたと疑われている。が、それについては鷹池女史から否定してくれた。
「彼女は別段直属の部下とかじゃないわよ。学生時代、同じ部活だったってだけ」
本人の口から語られたことで、あんにゃに対する疑念は一先ず晴れた。が、逆にあんにゃの方が霞たちに対して疑いの目を向ける。
「というか、白々しい……」
「?」
ここぞとばかりに、あんにゃはプロデューサーたちに問いただす。
「アンタたちこそ知ってたわよね? 私が部長さんと、そのー……」
「ええ、貴女が現場をほっぽり出して逃げた穴を私が埋めたのよね」
「というか、あの現場キチガイだったし! 何人『身内の不幸』が出たと思ってるんですか!!」
「戦線離脱の常套句ね。まあ、糺し甲斐のある現場ではあったけれど」
ふたりを取り巻く労働環境では壮絶なやり取りがあったらしい。だが、それで鷹池女史にも思い出したことがあったようだ。
「……ああ、もしかして、貴方たち? うちの職場に鮎河さんの連絡先教えてくれたの」
相当嫌だったらしく、あんにゃは恨みがましくプロデューサーを睨む。だが、彼にも霞にも身に覚えがない。
「い、いえ、そのようなことは……」
そもそも、あんにゃがどこに務めていたかは霞さえも知らない。
「じゃあ誰よ。いきなり部長から連絡来て、ぶっちゃけ死んだと思ったわ」
「ま、殺されても文句言えないことはやらかしてるけどね」
「それは営業担当に言って下さい! 私だって殺されるかと思ったんですから!」
あんにゃの表情は迫真だ。しかし。
「現場知ってるから気持ちはわかるけどね、そのカッコじゃ深刻さが伝わらないわよ。というか貴女、きの子と同い年でしょうに。それでフリフリのネコミミって」
「アイドルに歳の話は禁句にゃー!?」
思わずあんにゃからネコ語が出た。きの子――パラノイアのメンバーであり、はるもと通じて本を置かせてもらったライター――
「あんにゃさん、貴女、パラノイアのきの子さんとも面識があったようね」
「ギクにゃん!?」
隠していた理由はわかる。あんにゃは、どうやらパラノイアの鷹池女史から追われている立場のようだから。
とはいえ。
「もう何年も会ってないし、パラ何とかも知らないって! そりゃ、きの子とも高校で同じ部活だったけど……」
「そりゃ、知らないでしょーね。活動始めたの、“こーちゃん”が仕事辞めてからだもの」
あんにゃはパラノイアのことを何も知らず、そして。
「これからリハーサルもあるのでしょう? 話はここまでにしておきましょうか」
鷹池女史もこれ以上語るつもりはないらしい。イベントを成功させるためにも、下手に詮索するのは控えておいた方が良さそうだ。
なお、あんにゃはリハーサルが始まると同時にさりげなく会場から離脱していた。苦手としている霞だけでなく鷹池女史もいるにも関わらず、頼りになる糸織はいない。この場に充満していた恐怖は、あんにゃにとって致死量だったのだろう。
そして、リハーサルは始まった。
が、しかし。
「これは……」
「……うーん……」
TRKはただのストリップではなく、音楽にも注力している。だからこそ、プロデューサーと霞は三人の合奏に思わず絶句していた。実のところ、当日に始めて合わせる、という時点で無理があったのかもしれない。水着については、劇場側で揃えることができた。が、演奏の方はそう簡単にはいかない。鷹池女史のギターの腕前はといえば本当に一通りコードを弾けるだけ、佑衣はまだレッスンを始めたばかりの初心者。そんなふたりをMI-YA-COが全力でフォローする――フォローしきれているのか? ――トリを飾る『ハプニングゾーン』のためのお膳立て、といえば一応成立するといえばしないこともないが――さすがに霞たちは危機感を禁じえない。
佑衣は、期待されていないことを自覚している。だからこそ選ばれた。が、何もないまま終えたくはない。せめてこのステージでは、今後のためのキッカケを掴みたいと意気込んでいる。
鷹池女史は、あんにゃに頼まれて来ただけであり、このイベントを成功させようという気概は薄い。腕前は問わないと聞いていたこともある。彼女があんにゃの要請に応じた理由――それは他にあった。
「これが、TRK……ねぇ」
本番を目前に控え、袖のパイプ椅子に座ったまま彼女たちに向けてそっと呟く。実務を取り仕切っているのは霞だが、求心的な軸になっているのはプロデューサーの男――それは、自分たちと似ているな、と鷹池女史は感じた。
きの子たちが接触した、自分たちにとっての協力者に成りうる存在――そして――
「ま、音楽の方は知らないけど」
“彼女”に見合う存在か――それを確かめようにも、やってきたのは研修生だそうだし、何より鷹池氏自身さほど音楽には興味がない。だが、それでも――
「あ~あ~……あ~~~~♪」
ギリギリまで発声トレーニングに努めている新人の姿から、その情熱だけは伝わってくる。ならば、悪い組織であるとは思いたくない。ゆえに、鷹池氏自身もコードの最終確認を。こういうのはガラじゃない、とは思いながらも。
そして、今回のキーとなるMI-YA-COにもひとつだけ頼みたいことがあった。ただし、それはダメ元で。
「あ、あのー……例えばー……」
プロデューサーに向けて広げられたのは、大きめのバスタオルのようなものだった。
「これを、キーボードの前に垂らすってのは……ダメ、ですかね……?」
どうやら、客席に向けて足を見せるのが恥ずかしいらしい。が、それでは水着イベントとしての意義を損なう。とはいえ、彼女はあくまで外部の協力者だ。内輪である佑衣に頑張ってもらう形で何とかならないか、とプロデューサーは検討してしまっている。
だからこそ、霞が即座に断った。
「一応足も見せどころのひとつなのよ。そこは頑張ってもらえないかしら」
「……そうですよね、はい、やっぱり」
残念そうにうなだれるMI-YA-CO。そして、秘書から睨まれるプロデューサー。不安要素を抱えたまま、無情にも本番は訪れる。
一番手は天然カラーズのメンバーによって急造された『メトロ・ナポリタン』――何やら美味しそうな名前ではあったが、しっかりとガールズバンドをこなしていった。
続く、TRKプロデュースによる『バインドキャッツ』――この登録名からして、どうやら霞はあんにゃが助っ人を連れてくることに期待していなかったらしい。水着についても普通のビキニであり、楽曲も未兎のカバー――何がどう猫なのか、そこには誰も触れることなく一曲目の演奏が開始された。
しかし、この流れは如何ともし難い。
『~~~~……♪』
脱がなくて良い舞台であっても緊張からか佑衣は冴えず、鷹池女史はメトロノームのように弦を掻き鳴らすのみ。間奏の際にMI-YA-COが全力でアレンジを加えることで辛うじて観客をつなぎとめている状況である。いまはまだ百人以上の観客が取り巻いているが、このままでは『ハプニングゾーン』に回ってくる前にその多くが離脱してしまいそうだ。
二番に入っても状況は変わらない。佑衣はボイストレーニングを始めたばかりで、喉に関しては素人も同然。それを悔やんでいる――というよりも、戸惑っているようにプロデューサーには見える。それは、ステージで裸になった際に固まっているかのように。
やはり、頼みの綱はMI-YA-COしかなかった。しかし――
「社長、MI-YA-COさんが……」
「足を痛めたのでしょうか……?」
ここまで気を張りすぎたのか、明らかに様子がおかしい。つらそうに顔を真っ赤にして、膝をガクガクと震わせている。
心配こそすれども、ライブを止めることはできない。その判断を迷っているうちに、MI-YA-COは――少し空を仰ぎ――
びちゃびちゃびちゃびちゃ……っ
「!」
舞台袖というステージ奥に近い場所から見ていたからこそ、プロデューサーたちはすぐに気づいた。ピッタリと閉ざされた腿、そして合わされた膝から滴り落ちる透き通った雨――その水飛沫こそ大音量で掻き消されているが、足元の水たまり――何より、水着にできた大きな“シミ”は誤魔化せない。にも関わらず――何と清々しい顔をするのだろう――プロデューサーは、<輝き>の根源を目の当たりにしていた。動画では手だけだったが、きっと画面の外では、こんなにも美しく<スポットライト>を放っていたに違いない。
キーボード演奏はそのまま続いている。だからこそ、観客たちも自らの目の方を疑っていた。見間違いなのか、それとも――本当に――?
そんな男たちの反応で、佑衣もトラブルを察した。そして、ちらりと後ろを窺ってはっきりと視認する。慌てて鷹池の方を見るが、ギターの彼女は視線に気づけども我関せずといった様子だ。ビジネスライクで、どこまでも冷たい。
だったら――!
奥のキーボードに集まる視線を自分に集めなくてはならない――
佑衣は決意する。自分にできることはこれしかない、と。
ゆっくりと、自分のブラに手をかけて――
「まさか、あのコ……っ!」
霞は前のめりになり、いまにもステージを止めんとする勢いだ。しかし、それをプロデューサーが制する。
「待って下さい!」
プロデューサーは自分の目を疑った。これまで消沈していた佑衣が急に輝き始めたのである。脱ぐ必要のないステージで、あえて脱ぐことによって。この美しさを、彼には止めることはできない。
このとき、佑衣の脳裏にはとある人物の姿が浮かんでいた。小さな劇場、細い花道の上で、恥ずかしそうに――それでも頑張って――それは、いままさに、自分がしているのと同じこと――
『~~~~っ♪』
私、いま――あの人と――推しのアイドル・蒼泉歩さんと同じ顔が、できてるのかな――もしそうなら、何も恥ずかしいことはない――!
すっ――と秋の風と、男たちの熱気が尖った胸の先を撫でていく。目の前に広がるのは青い海、白い砂浜。背後から押し寄せてくるのは音の波。それは、レッスンで脱いだときにはなかったもの。私って案外、本番に強い性格――? もしくは、これこそが憧れていた姿だから――? それでも、佑衣の歌は未だ拙い。踊りもまた、この曲のために用意されていたものではなく、まさに即興。当然、本来はこんな振り付けではない。するり――と丸い胸にカップを流し、お腹を撫でていくような腕の動きでは。
恥ずかしいことを――自分の恥ずかしいところを観られている――その自覚は佑衣にもある。だが、かつては彼女の方がそれを観ていた。自分自身が観客として、ステージの上のあの人を。だから、人の目なんて気にならない――とは言い切れない。けれど、嬉しい。あの人の姿に、少しでも近づけたというのなら。
隣でストリップショーが行われていても、それを受けて会場がざわついていても、鷹池女史は淡々と演奏を続けている。自分は浮いているかもしれない――だが、それで良いのだと割り切って。だが、ふと客席に向けて視線を下ろした先に――
「こーちゃんッ!?」
鷹池女史の表情が大きく変わった。
ここまで変化の乏しかったその顔に、まるで幼女のような無邪気な歓喜が満ち溢れる。
観客の中に混ざっていたその男は、ゆっくりと頷いた。そして、鷹池女子もまた微笑む。
すると、彼女は演奏の手を少し止め――
グイッ。
ブラを持ち上げ、自ら胸を露出させてしまった。それでも、恥じる様子はない。むしろ――その男に向けて、うっとりと瞳を潤ませている。心なしか、演奏にも――何となく妖艶な色が含まれてきたようだ。単純に弦を慣らすより、よほど心に訴えるものがある。
そして、その変化は佑衣の歌声にも。
『~~~~♪』
打ち合わせでも、リハーサルでも、こんな状況は想定になかった。それでもMI-YA-COは――ゆったりとした弾き方へと滑らかに変える。それは、ふたりのストリップに合わせるように。
「こ、これは……ッ!」
プロデューサーは息を呑む。佑衣に劣らないほど眩い光――<スポットライト>――まさか、パラノイア所属の彼女が放とうとは――組織的な関係でスカウトに応じてもらえる気はしない。だが、このままにしておくのも勿体ない。MI-YA-COも含めて、三者三様に輝いている。何と素晴らしいステージだろうか――ッ!
一方、霞は舞台裏の関係者を抑え込んでいた。メンバーのひとりに異変が生じたため、会場の様子を見ながら軟着陸させてほしいと。
いまのところ、ステージはむしろ盛り上がっている。
『~~~~♪』
佑衣が下の水着に手をかければ、それを察した鷹池女史も同じようにお尻を剥き出しに。中途半端に捲り上げていた胸の水着は、しっかりと外して床へと落としてしまった。裸のふたりが背を合わせ、ステージの前の方を陣取っている。誰もがそのふたりに注目し、もはや、奥の方のMI-YA-COは完全に陰となった。
だが、ここで。
『~~~~♪ ……♪』
ぎこちなく、佑衣の動きが鈍ってゆく。もう、その身には何もない。ブラも、パンツも。ここから、何を脱げばいい――? 否、もはや脱げるものは何もない――それに気づいてしまったから――私は何をしていたのだろう? これからどうすれば良いのだろう? ――佑衣の中から途端に情熱が冷めていく。裸になっていく歩さんは、とても綺麗だった。これがストリップなんだと感動した。けれど――脱ぎ終わってしまったのなら、それはただの裸と変わらない――
「くっ、ここまで来て……っ!」
いつもの悪い癖が出た、と舞台袖から霞は嘆く。棒立ちとなった佑衣を引き戻すべきか――あとは大サビだけなのに――お腹を震わせながらもMI-YA-COの演奏は続いている。鷹池女史のギターもまた。が、リハーサルとは状況が異なる。
鷹池女史のテンションは、これまで楽屋で見せてきたクールな姿とは打って変わって――
ヘッドセットはボーカルである佑衣しか着けていない。ゆえに、鷹池女史は並び立つ相方の腰をぐいと引き寄せた。
『~~~~♪』
顔を近づけ、佑衣のマイクに吹き込むように。それはまるで口づけするような近さで。それどころか、観衆の期待に応えるように。佑衣はすっかり固まっており、鷹池女史の手の平を拒むことができない。一糸纏わず肌を重ねる女のコによる百合の口づけ――これに男性客たちはすっかり魅了され湧いていた。
そして、プロデューサーもまた、そのひとりに相違ない。
「こ、これは……ッ」
光り輝くふたりにすっかり魅せられている。それは、彼女の特性とでもいうべきか――彼女は、裸が恥ずかしくて固まっていたわけではない。いや、それに違いはないのだが――彼女は“脱ぐ過程”にこそ価値を見出し、そして輝く。ゆえに、脱ぎ終わってしまった後は素に戻ってしまうようだ。これまで、アプローチが誤っていたことを悔やむ。裸になることに慣れるのではなく、裸になった後、メンバーにどうフォローしてもらうか――それこそ、ユニットを組んでステージに上がるTRKだからこそできることだと彼は信じている。
***
女子の羞態に対して男性は寛大だ。キーボードの女のコにアクシデントが発生したため、それをフォローしようと周りの女のコたちが身体を張って――ただし、それは間違っても誰かに強要されたことではない。舞台の上の女のコたちが自発的に行ったこと。そして、少し恥ずかしそうで――けれど、楽しそうで――予想外の方向で場の空気は温まってくれた。そして、本来三曲披露するはずだったところを一曲で切り上げてしまっても、誰も何も言わない。足りなかった二曲分の時間はトリの『ハプニングゾーン』がしっかりと埋め合わせてくれた。やはり、経験に裏付けされた実力は伊達ではない。正統派の音楽による盛況の中、湘南で行われたサザン・トライアングルは幕を下ろした。
なお、『バインドキャッツ』の演奏が終わったところで――鷹池女史はステージ上に水着を残したまま客席へと飛び降り、観客の男にギターを預けると、勢いのままに海の中へと駆け込んでいった。着替える前の服などもいつの間にかなくなっていたという。どうやら、『パラノイア』のメンバーによって回収されていたようだ。水着は機会があれば返却すべく、TRKにて預かっている。
鷹池女史とはあんにゃを介していたため、TRKとの間で直接のコネクションを持つには至っていない。マツダプロダクションシステムズ――それはあくまで別会社からの出向であったため、問い合わせてみたもののすでに契約終了したとのことだった。もちろん、霞があんにゃにも詰問したが『本当にもう勘弁してほしいにゃ』とのこと。ただし、その際に霞は『憐夜希プロデューサーの行方はパラノイアが知っている可能性が高い』と念を押しておいた。恐怖に打ち勝ち、独自に調べることができれば、何らかの情報を持ち帰ってくることだろう。
今回のイベントの映像は撮影されていたが――『バインドキャッツ』のシーンはカットしてもらえることとなった。幸いなことに個人による動画も流出していない。昨今の女性保護の風当たりがむしろ良い方向で作用してくれたようだ。
そして――
MI-YA-CO――本名、藤山京子――これまで彼女が人前に出ることを避けてきた理由は、まさにそれだった。
彼女は、演奏中に衆目を感じると催してしまうらしい。それは、人が多ければ多いほど激しく――リハーサル中に大丈夫だったのはそのためであり――逆に、カメラが回っているとさもありなん。どうやら、ネットにアップされていた動画にてプロデューサーが<スポットライト>を感じたとき、画面の外で“それ”をやらかしていたようだ。しかし、それで輝くのだから、彼女の“本質”はそこにある。
その初めては、本当に不慮の事故だった。幼少の頃のピアノの発表会で――それはもう、本当に死にたくなるほど恥ずかしくて――ゆえに二度と舞台では弾かないと決めた。が、周囲の勧めもあり、練習だけは続けていくことに。先生と二人きり――友人ら数人程度――このくらいであれば問題ない。だが、多くの人に聴いてもらおうとマイクを向けるようなことがあれば、数分で耐えきれなくなってしまう。
どうにかしたいと努力はした。が、どうにもならず、ならばいっそのこと――自宅での練習中に思い切ってみたところ、予想外の感覚に目覚め――悪癖は治すべき――この快楽に身を委ねたい――その狭間で葛藤を続けていたらしい。なお、大学にて大勢の前で演奏する際には大人用おむつを仕込んでいるようだ。
そんな京子がTRKへの加入を決めたのは――意外なことに、霞の舞台だったらしい。おもらしして、それで好意的に湧く舞台――ここなら自分も演奏できると思えたようだ。それを聞いた霞は、『そう……』と不本意そうに一言だけ返したという。
こうして、貴重なキーボーディストの加入が決まった。とはいえ、漏らすのと裸になるのは別の恥ずかしさがある。ストリップアイドルの一員として、ステージで脱ぐことができるか――それは未知数であったため、京子からの最初の回答は、イベント後に改めて――しかし、彼女はこうして劇場の控室にきてくれた。まだ出演はしていないが、決意は固まっている。
「私にも……はい……っ」
そう言って、佑衣の方をチラリと覗き見た。あのときはまだ外部の協力者だったのに――それでも、人々の目を引き剥がすために裸になった新人の姿に――自分も続きたいと心から願えた。歩から受け継いだ佑衣の魂が、こうして京子にも伝わったということなのだろう。
とはいえ、繰り返しになるが、ストリップの本懐は京子の望むところにはない。
「しっかし……何なんやろな、その性癖」
後始末を要する“催し”に、糸織は少々難色を示している。
「潮噴きみたいなもんじゃないの? 演奏してると興奮して溜まってっちゃうってことみたいだし」
桃はプライベートでそのようなプレイを楽しんできた。あわよくば自分も――と狙っているらしい。
「そういえば、そのような話を前にどこかで聞いたことがあったような気がするのだけど」
霞も糸織と同じく、漏らさないならそれに越したことはない、という考えだ。ゆえに、解決のヒントになりそうな記憶を呼び起こそうとしている。
「あ、それは、この本のことでは」
ドラッグの中には利尿作用を促すものもあるらしい。それを思い出し、しとれは読みかけの本を鞄から取り出し開く。
「利尿剤の過度の服用により……?」
「い、いえ、そんなもの飲む必要もなく……」
しとれの懸念は、京子に思い当たるフシはない。ふたりで一冊の本を覗き込んでいるので、その肩口から桃もひょいと顔を割り込ませた。
だが、そのとき。
「……ん? ひのっきー、それ……」
「え?」
((栞||しおり))を指差され、しとれは何気なく手に取りギョッとする。厳密には、それは栞ではなかった。その本と同日に意図せぬ形で押し付けられたものだが、厚みもあり、ちょうど良かったので栞として使っていただけで。
「マツダプロダクション……スカウト部……」
慌てて隠しても遅かっただろう。それ以前に、どうして良いか分からず、しとれは呆然としていた。
「こ、これは……その……」
部屋の空気が暗く沈む。そして、誰もが言いづらかったことを優が口にした。
「さすがはしとれね。テレビ局側だって放っておくわけないか」
実力のあるメイド☆スターであれば、いくらでも声がかかるだろう――それは、メンバーの誰もが予感していたことだった。
「ちっ、ちがっ、応じるつもりは……」
「じゃあ、何で取っておいたんだい?」
慧に詰められて、しとれはいよいよ苦しくなってくる。
「取っておいたわけではなくて……っ!」
本に挟んでおくのにちょうど良かったから――そのような理由を挙げても信用してもらえるとは思えない。
「だ、大丈夫ですよ。仲間がもっと大きな舞台に飛び立つのであれば、ちゃんとお祝いしますし……」
春奈までそのようなことを言い出すようでは、もはや自分の口から説明するしかない、と霞は覚悟する。だが、芸能界にはゆかずとも、メイド喫茶との掛け持ちは本当だ。少なからぬ混乱は避けられないだろう。
だが、それより先に。
「まーまー、あんましとれはんばっかいじめるもんやないで」
糸織がフォローに入ってくれた。が、ポンとしとれの肩に手を置く糸織は、不敵な笑みを浮かべている。それが、逆にしとれを不安にさせた。
他意はないものと切に願うも――
「ウチもな、あんにゃとデビュー決まっとんねん」
「!?」
それはメンバーも霞も――そして、プロデューサーさえ、初耳だった。
***
丘薙糸織とあんにゃ――鮎河成美によるふたりユニット『NyA-oX』――かつて、トップを争っていた歌い手のコンビだけに、箝口令は敷かれていても、業界内では暗黙のもとに広く知れ渡っていた。
そして、しとれのメイド喫茶ライブ復帰の報も耳に入っている。
「主力ふたりが“泥舟から逃げ出した”か……フ、フフフ……」
薄暗いベッドルーム――仰向けに横たわり、男は天井を眺めながら笑みを浮かべる。その両足の間で献身的に尽くしている裸の女性の姿は目に入っていない。気の抜けた男を、女は歳の所為か少し疲れ気味の胸で挟み込む。それでも男に変化はない。ならば、と今度は大きく口を開いた。
「ん、は、あはぁん……❤」
女はわざとらしく鼻息を荒くし、男に向けて頭を振る。まっすぐ、そこから引き抜くように。だが、男はつまらなそうに吐き捨てる。
「もういい、水裏」
「……は、はい……」
肩を落としながらベッドから下り、ひとりシャワールームへと足を向ける。そんな女の背に男の無機質な声が投げかけられた。
「おい、水裏」
「はい?」
女は振り向くが、男は女の方を見ていない。その頭上に自身の思惑を馳せたままだ。それだけで、萎えていたものが自然と熱り立ってくる。
「お前、連中に直接接触して、何人か引き抜いてこい」
それで今回の騒動――抵抗勢力にトドメを刺すことになるだろう。
だが――
それだけで済むとは思えない――長年、閨を共にしてきた女は不安に思う。
だとしても――彼女には、その男に従う他に道はなかった。